チチチ、という鳥の鳴き声で目を覚ました。
翌日の朝、寝ぼけ眼を擦りながら、昨日——というか、今日の夜中の出来事をぼんやりと思い出す。葉加瀬梨斗。心の中で何度もその名前を唱えてみる。私の前に突然現れて、真夜中の遊園地に連れて行ってくれた人。そして、私がずっと誰かに言いたかった本音を引き出させてくれた人。観覧車から降りてすぐに消えてしまった。あれはやっぱり夢だったんだろうかと疑いそうになる。けれど、現実だ。人生でこんな不思議な体験をしたのは初めてだった。
梨斗と別れてから、とっくに終電がなくなっていたので、歩いて帰ってきた。一時間以上は歩いた気がする。身体は相当疲れていて、さっとお風呂に入って今までぐっすり眠っていて——って、今何時!?
明らかに朝七時とか八時といった時間帯ではない、ということは身体の疲れの取れ具合からすぐに察することができた。さっとスマホの画面を見る。午前十時二十分。終わった……。
「また遅刻だ……」
一年生の頃から、私は遅刻や欠席を繰り返している。原因は言うまでもなく、日々の生活で疲れが溜まっているから。先生たちには一応事情は話しているけれど、さすがにこう何度も遅刻、欠席をしていて出席日数が足りなくなるのはいただけない。
急いで部屋着から制服に着替える。こんな時に限ってシャツに皺が寄っていた。アイロンをかけたいのだけれど、あいにくそんな時間もない。
急いで居間に出て食パンを一枚齧る。お母さんは一度部屋まで私を起こしに来てくれたのか、メモで「先に行ってきます」と書き置きがあった。ぐびぐびとお茶を飲んで、祖母の部屋に向かう。
「おばあちゃん」
ノックをして部屋の扉を開けると、祖母はテレビをつけて情報番組を見ていた。
皮肉なことに、テーマは「ヤングケアラーの実態」というものだ。すぐに目を逸らそうとするけれど、耳はテレビの音声を拾ってしまう。
『ヤングケアラーという言葉が浸透してきたのはここ数年のことです。片親家庭に多く、家族を”ケア“しなければならない若者のことを指します。肉体的、精神的に負担が多く、学校を休みがちになることも。こうしたヤングケアラーの問題は、世間でも重大な問題と……』
ピ、と床に転がっていたリモコンでテレビの電源を切る。
テレビの画面が消えたというのに、祖母はじいっとテレビを見つめたまま微動だにしない。きっと内容なんて頭に入っていないのだろう。ただぼうっと画面を眺めていただけに違いなかった。
「おばあちゃん、私、学校行ってくるね」
ようやく祖母が後ろを振り返って、私と目を合わせた。
「ああ、日彩ちゃん。行ってらっしゃい」
「行ってきます」
今日はまだ“日彩ちゃん”だった。大体朝は私のことを認識してくれていることが多い。学校から帰ってくると“日彩ちゃん”はほとんど“透くん”になっている。医者からは、そのうちずっと私のことを“透くん”と間違えるようになるかもしれない、と言われていた。
そうしたら私は、この家から——少なくとも祖母の中から存在を消されることになる。
私が消えてしまう。
病気のせいだと分かってはいても、その時の心情を想像すると、胸がズキンズキンと痛くなった。
「おはようございます」
二年一組の教室の扉をそっと開ける。
三時間目の授業が始まっていて、英語科の三上先生が私を一瞥した。彼女は去年、一年生の頃に担任だった人だ。私の家の事情を、最もよく知ってくれている先生。三上先生と目が合った私は、何とも言えない気まずさに眉をぎゅっと寄せる。
「おはようございます。座ってください」
「はい」
みんなの前なので、先生は私が遅刻してきた理由について深くは聞いてこない。そういうさりげない気遣いに感謝しつつ、自分の席へと歩いていく。息が詰まりそうなぐらい張り詰めた空気感が漂っていて、クラスメイトが一斉に自分を見ていることが分かった。なるべく誰とも目を合わせないようにしていたのに、美玖とばっちり見つめ合ってしまう。彼女は何か言いたげな顔をしたけれど、さっと顔を逸らした。
ああ、私、嫌われてるんだ……。
すぐに理解した。美玖は基本的に明るくて誰とでも仲良くするタイプの人間だけど、ひとたび苦手な相手が現れると、目を合わせようとしなくなるから。きっと、美玖だけでなく恵菜も、昨日の今日で私のことをよく思ってはいないだろう。
翌日の朝、寝ぼけ眼を擦りながら、昨日——というか、今日の夜中の出来事をぼんやりと思い出す。葉加瀬梨斗。心の中で何度もその名前を唱えてみる。私の前に突然現れて、真夜中の遊園地に連れて行ってくれた人。そして、私がずっと誰かに言いたかった本音を引き出させてくれた人。観覧車から降りてすぐに消えてしまった。あれはやっぱり夢だったんだろうかと疑いそうになる。けれど、現実だ。人生でこんな不思議な体験をしたのは初めてだった。
梨斗と別れてから、とっくに終電がなくなっていたので、歩いて帰ってきた。一時間以上は歩いた気がする。身体は相当疲れていて、さっとお風呂に入って今までぐっすり眠っていて——って、今何時!?
明らかに朝七時とか八時といった時間帯ではない、ということは身体の疲れの取れ具合からすぐに察することができた。さっとスマホの画面を見る。午前十時二十分。終わった……。
「また遅刻だ……」
一年生の頃から、私は遅刻や欠席を繰り返している。原因は言うまでもなく、日々の生活で疲れが溜まっているから。先生たちには一応事情は話しているけれど、さすがにこう何度も遅刻、欠席をしていて出席日数が足りなくなるのはいただけない。
急いで部屋着から制服に着替える。こんな時に限ってシャツに皺が寄っていた。アイロンをかけたいのだけれど、あいにくそんな時間もない。
急いで居間に出て食パンを一枚齧る。お母さんは一度部屋まで私を起こしに来てくれたのか、メモで「先に行ってきます」と書き置きがあった。ぐびぐびとお茶を飲んで、祖母の部屋に向かう。
「おばあちゃん」
ノックをして部屋の扉を開けると、祖母はテレビをつけて情報番組を見ていた。
皮肉なことに、テーマは「ヤングケアラーの実態」というものだ。すぐに目を逸らそうとするけれど、耳はテレビの音声を拾ってしまう。
『ヤングケアラーという言葉が浸透してきたのはここ数年のことです。片親家庭に多く、家族を”ケア“しなければならない若者のことを指します。肉体的、精神的に負担が多く、学校を休みがちになることも。こうしたヤングケアラーの問題は、世間でも重大な問題と……』
ピ、と床に転がっていたリモコンでテレビの電源を切る。
テレビの画面が消えたというのに、祖母はじいっとテレビを見つめたまま微動だにしない。きっと内容なんて頭に入っていないのだろう。ただぼうっと画面を眺めていただけに違いなかった。
「おばあちゃん、私、学校行ってくるね」
ようやく祖母が後ろを振り返って、私と目を合わせた。
「ああ、日彩ちゃん。行ってらっしゃい」
「行ってきます」
今日はまだ“日彩ちゃん”だった。大体朝は私のことを認識してくれていることが多い。学校から帰ってくると“日彩ちゃん”はほとんど“透くん”になっている。医者からは、そのうちずっと私のことを“透くん”と間違えるようになるかもしれない、と言われていた。
そうしたら私は、この家から——少なくとも祖母の中から存在を消されることになる。
私が消えてしまう。
病気のせいだと分かってはいても、その時の心情を想像すると、胸がズキンズキンと痛くなった。
「おはようございます」
二年一組の教室の扉をそっと開ける。
三時間目の授業が始まっていて、英語科の三上先生が私を一瞥した。彼女は去年、一年生の頃に担任だった人だ。私の家の事情を、最もよく知ってくれている先生。三上先生と目が合った私は、何とも言えない気まずさに眉をぎゅっと寄せる。
「おはようございます。座ってください」
「はい」
みんなの前なので、先生は私が遅刻してきた理由について深くは聞いてこない。そういうさりげない気遣いに感謝しつつ、自分の席へと歩いていく。息が詰まりそうなぐらい張り詰めた空気感が漂っていて、クラスメイトが一斉に自分を見ていることが分かった。なるべく誰とも目を合わせないようにしていたのに、美玖とばっちり見つめ合ってしまう。彼女は何か言いたげな顔をしたけれど、さっと顔を逸らした。
ああ、私、嫌われてるんだ……。
すぐに理解した。美玖は基本的に明るくて誰とでも仲良くするタイプの人間だけど、ひとたび苦手な相手が現れると、目を合わせようとしなくなるから。きっと、美玖だけでなく恵菜も、昨日の今日で私のことをよく思ってはいないだろう。



