移動教室から帰ってきて机の中を覗くと、教科書が根こそぎなかった。
鞄になんて入れた覚えはなかったけれど、一応中を検める。
やはり、なかった。
なんで、とちらと思った背後で、くすくすと笑い声が響く。のろり、と振り返ると、挑むような御園の目と目が合った。
「櫻井、教科書どうした」
授業が始まり、まっさらなあやめの机を見咎め、教師が眉を顰める。膝の上でくっと拳を握り、あやめは唇を開く。
「忘れ、ました」
「じゃあ、隣、見せてやりなさい」
面倒ごとがひとつ解決したと言いたげな顔で、教師は教科書に目を落とす。隣の席の男子は露骨に億劫そうな顔をしつつ、机を寄せてくれた。
小さく頭を下げたけれど、教科書の文字なんて微塵も頭に入ってこなかった。
――ほんと手間ばっかりかけて。
――あやめがそんななのはお前のせいだろうが。
両親が耳の奥で諍う。結局のところ、いつだって自分は他人に迷惑しかかけない。昔もそう。今も。
なくした教科書をもう一度買ってほしいなどと言ったら、父は、義母はなんと言うだろうか。自分は、ちゃんと言えるだろうか。
次の授業にあやめは出なかった。
授業を受けられない自分に、教室は存在を許してはくれないから。
けれどひとりで埋もれるようにいられる場所なんてあそこしか思いつかなかった。
結局、二時間目から一日中、第二美術室の窓際で縮こまるように椅子の上で膝を抱えて過ごした。校内では授業になるとふっと人声が絶え、チャイムと同時に笑い声が弾ける。遠くから響くその繰り返しがあやめの鼓膜をかすかに撫でていた。
誰にも乱されず、誰にも迷惑をかけず、静かに過ごしていたい、そんな願いを壊したのは、からり、と滑る扉の音だった。
顔を出したのは、予想通り氷坂だった。
彼はあやめの姿を見ても声を発することなく、ただ淡く笑んでいつも通りエプロンを着け、キャンバスの前に座る。ぎいっと椅子だけが軋む。
誰も求めず、世界との窓はキャンバスだと言いたげに前だけを向いて死体を描く彼。
「私には、21グラム、ないから、なんですよね」
筆がキャンバスを滑る。その音に混じってぱちぱち、と音がする。
窓の外、雄々しいほど繁ったポプラの葉に穴を穿つように、雨が降っていた。
「ないから、先生は、私を描きたいとは思わない、んですよね」
手は止まらない。彼に言っても仕方ないのに、あやめの口も止まらない。
「ないから、私は、人に、迷惑をかけて、しまうんですね。生きている、人のこと、私はわからない、死体、だから。だから、人を、苛立たせて、しまうんですよね」
実の父母もそうだった。義理の母も。御園たち、クラスメイトも。
日向も。
「でも、私は、先生の絵みたいに綺麗じゃない。綺麗な死体に、なれない。どうしたら、なれますか。人を不快にさせない、完璧な、美しい死体に、私はどうしたら、なれますか」
「完璧な、美しい、死体」
乾いた声で繰り返し、氷坂が手を止める。
「根本的に間違ってます。僕の絵は綺麗じゃない。死体なんて美しいものじゃない。生きているよりいくらかまし、というくらいですよ」
そこまで言って彼はふっと息を吐く。
「知ってますか? 犬にはね、魂がないといわれているそうです」
「犬、が?」
「ありえないでしょう? けれど、人が死んだとき、死ぬ前より死んだ後のほうが21グラム軽かったという調査、犬でも行われていたそうで。犬は、減らなかったんですって。21グラム。だから魂はない」
ふっとわずかに口許を歪めてから彼は筆を取る。再び腕を動かしながら彼は囁いた。
「そこで疑問が生まれるんです。人と犬と、尊いのはどちらか。魂があるほうがやはり尊いのでしょうか。僕はね、違うと思っています。だからこの絵を描いている」
「なぜ、ですか」
「だって」
くすっと彼は笑いながら、思い切りよくキャンバスの上に線を引く。外で降り続く雨に似た、縦線がくっきりとキャンバスを横切り、死体を濡らした。
「君は綺麗と言うけれど、死体になれば皆同じだから。血にまみれ、汚物にまみれ、触れることだって忌避される。どれだけ生きていたとき、美しくても輝いていても、死体になれば同じ。敬われるべき存在じゃないんですよ。人間なんて」
「せん、せい?」
少し、いつもと違う、と思った。そろそろと声をかけると、氷坂は乱暴にキャンバスに筆を走らせながら言った。
「生命は雷から生まれた、なんて説もありますが、雨も雷も、なにかを変えてしまう気がして、正直、今日のような天気だと気がめいります」
「変えたく、ない、んですか?」
「そういうわけでもないんですけどね」
薄い茶色の虹彩が窓の外を映す。落ちて来る雨粒は、まるでなにかの儀式のように規則的に窓の外を連なり続けている。
「良い方向へ変わることなんてまあ、ないので。大抵は」
教師にしてはあまりにも投げやりな声に思えた。ただ……正直、今のあやめには納得の呟きにも思えた。
生きていて、大抵のことは悪いほうへ転がるものだから。
「先生、は、なんで……」
なんでそんなに絶望しているんですか。
問いかけようとしたけれど、それを遮るように氷坂はふっと笑い、気怠い声で言った。
「僕にはね、決めていることがあって」
「なん、ですか」
この人の思考回路は複雑だ。自分の考えをまとめるのにだって時間がかかってしまうあやめからすると、会話をする相手としては難易度が高すぎるといえる。それでも彼の言葉を理解したいと願うのはやはり……この人が少しだけ、自分と似て見えたからだろうか。
赤信号でふらり、と歩を踏み出した彼の後ろ姿が脳裏を過った。
「人の話を聞くなら、その人のために命をかけられるくらいじゃないと聞くべきじゃないって。だから、僕は自分の話はしないことにしています。したら期待、しちゃうでしょう」
そう言って彼はすうっと目を細めた。
櫻井さん、君は僕のために本気で死体になれますか?
憧れじゃなく、覚悟を決めて、本気で全部手放せますか?
……できないでしょう?
元来、人の思考は読めない性質だ。けれど、この一瞬、彼が心の内で問いかけただろう声があやめには聞こえた。
聞こえて、猛烈に恥ずかしくなった。
「帰り、ます」
そろそろと立ち上がると、彼はすでにあやめから興味を失っており、絵の世界に埋もれながら、気を付けて帰りなさい、と機械音声のような声で返してきた。
鞄になんて入れた覚えはなかったけれど、一応中を検める。
やはり、なかった。
なんで、とちらと思った背後で、くすくすと笑い声が響く。のろり、と振り返ると、挑むような御園の目と目が合った。
「櫻井、教科書どうした」
授業が始まり、まっさらなあやめの机を見咎め、教師が眉を顰める。膝の上でくっと拳を握り、あやめは唇を開く。
「忘れ、ました」
「じゃあ、隣、見せてやりなさい」
面倒ごとがひとつ解決したと言いたげな顔で、教師は教科書に目を落とす。隣の席の男子は露骨に億劫そうな顔をしつつ、机を寄せてくれた。
小さく頭を下げたけれど、教科書の文字なんて微塵も頭に入ってこなかった。
――ほんと手間ばっかりかけて。
――あやめがそんななのはお前のせいだろうが。
両親が耳の奥で諍う。結局のところ、いつだって自分は他人に迷惑しかかけない。昔もそう。今も。
なくした教科書をもう一度買ってほしいなどと言ったら、父は、義母はなんと言うだろうか。自分は、ちゃんと言えるだろうか。
次の授業にあやめは出なかった。
授業を受けられない自分に、教室は存在を許してはくれないから。
けれどひとりで埋もれるようにいられる場所なんてあそこしか思いつかなかった。
結局、二時間目から一日中、第二美術室の窓際で縮こまるように椅子の上で膝を抱えて過ごした。校内では授業になるとふっと人声が絶え、チャイムと同時に笑い声が弾ける。遠くから響くその繰り返しがあやめの鼓膜をかすかに撫でていた。
誰にも乱されず、誰にも迷惑をかけず、静かに過ごしていたい、そんな願いを壊したのは、からり、と滑る扉の音だった。
顔を出したのは、予想通り氷坂だった。
彼はあやめの姿を見ても声を発することなく、ただ淡く笑んでいつも通りエプロンを着け、キャンバスの前に座る。ぎいっと椅子だけが軋む。
誰も求めず、世界との窓はキャンバスだと言いたげに前だけを向いて死体を描く彼。
「私には、21グラム、ないから、なんですよね」
筆がキャンバスを滑る。その音に混じってぱちぱち、と音がする。
窓の外、雄々しいほど繁ったポプラの葉に穴を穿つように、雨が降っていた。
「ないから、先生は、私を描きたいとは思わない、んですよね」
手は止まらない。彼に言っても仕方ないのに、あやめの口も止まらない。
「ないから、私は、人に、迷惑をかけて、しまうんですね。生きている、人のこと、私はわからない、死体、だから。だから、人を、苛立たせて、しまうんですよね」
実の父母もそうだった。義理の母も。御園たち、クラスメイトも。
日向も。
「でも、私は、先生の絵みたいに綺麗じゃない。綺麗な死体に、なれない。どうしたら、なれますか。人を不快にさせない、完璧な、美しい死体に、私はどうしたら、なれますか」
「完璧な、美しい、死体」
乾いた声で繰り返し、氷坂が手を止める。
「根本的に間違ってます。僕の絵は綺麗じゃない。死体なんて美しいものじゃない。生きているよりいくらかまし、というくらいですよ」
そこまで言って彼はふっと息を吐く。
「知ってますか? 犬にはね、魂がないといわれているそうです」
「犬、が?」
「ありえないでしょう? けれど、人が死んだとき、死ぬ前より死んだ後のほうが21グラム軽かったという調査、犬でも行われていたそうで。犬は、減らなかったんですって。21グラム。だから魂はない」
ふっとわずかに口許を歪めてから彼は筆を取る。再び腕を動かしながら彼は囁いた。
「そこで疑問が生まれるんです。人と犬と、尊いのはどちらか。魂があるほうがやはり尊いのでしょうか。僕はね、違うと思っています。だからこの絵を描いている」
「なぜ、ですか」
「だって」
くすっと彼は笑いながら、思い切りよくキャンバスの上に線を引く。外で降り続く雨に似た、縦線がくっきりとキャンバスを横切り、死体を濡らした。
「君は綺麗と言うけれど、死体になれば皆同じだから。血にまみれ、汚物にまみれ、触れることだって忌避される。どれだけ生きていたとき、美しくても輝いていても、死体になれば同じ。敬われるべき存在じゃないんですよ。人間なんて」
「せん、せい?」
少し、いつもと違う、と思った。そろそろと声をかけると、氷坂は乱暴にキャンバスに筆を走らせながら言った。
「生命は雷から生まれた、なんて説もありますが、雨も雷も、なにかを変えてしまう気がして、正直、今日のような天気だと気がめいります」
「変えたく、ない、んですか?」
「そういうわけでもないんですけどね」
薄い茶色の虹彩が窓の外を映す。落ちて来る雨粒は、まるでなにかの儀式のように規則的に窓の外を連なり続けている。
「良い方向へ変わることなんてまあ、ないので。大抵は」
教師にしてはあまりにも投げやりな声に思えた。ただ……正直、今のあやめには納得の呟きにも思えた。
生きていて、大抵のことは悪いほうへ転がるものだから。
「先生、は、なんで……」
なんでそんなに絶望しているんですか。
問いかけようとしたけれど、それを遮るように氷坂はふっと笑い、気怠い声で言った。
「僕にはね、決めていることがあって」
「なん、ですか」
この人の思考回路は複雑だ。自分の考えをまとめるのにだって時間がかかってしまうあやめからすると、会話をする相手としては難易度が高すぎるといえる。それでも彼の言葉を理解したいと願うのはやはり……この人が少しだけ、自分と似て見えたからだろうか。
赤信号でふらり、と歩を踏み出した彼の後ろ姿が脳裏を過った。
「人の話を聞くなら、その人のために命をかけられるくらいじゃないと聞くべきじゃないって。だから、僕は自分の話はしないことにしています。したら期待、しちゃうでしょう」
そう言って彼はすうっと目を細めた。
櫻井さん、君は僕のために本気で死体になれますか?
憧れじゃなく、覚悟を決めて、本気で全部手放せますか?
……できないでしょう?
元来、人の思考は読めない性質だ。けれど、この一瞬、彼が心の内で問いかけただろう声があやめには聞こえた。
聞こえて、猛烈に恥ずかしくなった。
「帰り、ます」
そろそろと立ち上がると、彼はすでにあやめから興味を失っており、絵の世界に埋もれながら、気を付けて帰りなさい、と機械音声のような声で返してきた。



