予感はあった。まずいかな、という。
「櫻井さんさ、ちょっと来てよ」
 それまでは空気として扱われていて、話しかけられることなどほぼなかった。どうせ皆と同じ速度では答えを返せない。心の内側に言葉はあってもうまく出てこない。周りは時が熟し、言葉が実を結ぶまで待ってはくれない。
 だから、あやめの速度を悟ると、皆、厄介ごとを避けるようにあやめをいないもののように扱う。
 けれどその、いないもの、を扱うはずの空気が、少し前から違っていた。
「この間のカラオケ、ひっどい態度取ってたじゃん、あんた」
 あやめを呼び出したのは、あの日カラオケに共に行った御園花鹿と和田美香。それから同じクラスの堀田夢と宮岸久美。
 いずれも目立つタイプの女子で、この間のカラオケのときのように頼み事でもない限り、話しかけてはこない人達だ。
 女子トイレの壁際に追い詰められながら彼女たちを見回すと、和田が軽く舌打ちをした。
「あれってさ、早く帰りたかったからわざとああいう態度取ってたわけ?」
「……は」
 意味がわからない。困惑するあやめに宮岸が殺気立った声で怒鳴った。
「私、見たんだけど。一昨日、櫻井さんが真白先生とコンビニで肉まん食べてるとこ! なにあれ? どういうこと?」
 怒鳴る彼女たちを見ていてわかった。宮岸と堀田。このふたりは氷坂に熱い視線を送っていた子達だ。
 果てしない勘違いだ。すぐ訂正せねば、と思うのに、相変わらず自分の口はうまく動かない。息を吸って吐いて、やっとのことで声を出す。
「違い、ます。ただ、見かけて。それで」
「それだけじゃないでしょ。あんた、時々先生と一緒に帰ってるらしいじゃん」
 堀田の尖った声で、出かけた声が止まった。
 一緒には帰っていない。ただ、校門まで並んで歩いたことはあった。会話なんてほとんどしていないし、方向が同じだったから並行して歩いていた、ただそれだけのことだ。
 でも彼女たちは納得しない。
「信じられない。ぼさーっと突っ立ってることしかできないあんたみたいなのが、なんで真白先生と!」
「ってか、先生はぁ、同情してるだけだからね。ぼっちのあんたのこと、教師だから心配してるだけ。あんたを特別とか思ってるわけじゃないから」
 そんなことはわかっている。氷坂にとって自分は特別じゃない。
 いいや、彼には多分、特別なんて、ない。
「先生は……私を特別には思わない、です。安心してく、ださい」
 精一杯訴えたけれど、彼女たちには伝わらなかったらしい。というより、むしろ火に油だったようだ。
「悟り切った顔でえらそーに言ってんじゃねえよ! ブスが!」
「同情されてるだけのくせに、なにいい気になってんの! 二度と真白先生に近づくなよ! コバエ!」
 ぎりぎり張りつめていた感情の袋が一気に弾けるように声が渦巻く。声だけではなく、肩がぐん、と押され、背中が壁にぶち当たった。
 痛い、ととっさに声が出た。それが気に障ったのか、突き飛ばした堀田の手があやめの髪にかかる。
「コバエのくせに鳴くなよ! 鬱陶しい!」
 力任せに髪が引っ張られる。地肌が激しく引き攣れて涙が浮かぶ。う、と短く声を漏らすと、髪を掴む手はますます強くなった。
 痛い。痛い。痛みはあやめに思い出させる。自分は生きていて、日向は死んでいるということを。
――なんであんたが生きてるの。
 本当だ。なんで自分はまだ痛みを覚えているのだろう。
 日向の望みも叶えられず、義母の願いも無視して、自分はなぜここにいるのか。
 過った思いはどっしりとした闇となってあやめの口を塞ぐ。
「ってか」
 ふと髪を掴む手が緩む。ゆらりと見上げると同時にどん、と突き放された。
「キモ。泣き叫びもしないでさあ、あんたほんとに、死体みたい」
「行こっか。死体相手にしてても仕方ないし」
 吐き捨てる声と共に足音が遠ざかる。ひとり取り残された瞬間、手洗い場の蛇口から零れた雫の音が耳についた。
 ぴとり、ぴとり。
 死体。死体。
 朦朧としながら壁から身を起こす。ふらつきながら歩いていて動くなにかに気付き、視線をそちらへと投げる。
 そこにあったのは、鏡。鏡には屍が映っていた。
 髪を振り乱した、死体だった。
 鏡の中、死体の顔が歪む。
――最初から死んでいる人間なんて、描きたくない。
 氷坂の声にあやめは頷く。
 ああ、本当に自分は死んでいる。昔からずっとそうだった。ただの死体だったのに、日向に好きと言われて、勘違いして。
 生きていると思い込んだ。
 日向がいなくなって自分は死体に戻った。戻って今、これ以上、変われない。
 変われないまま、人を苦しめ続ける。
 ずるずると床にしゃがみ込むと膝小僧にタイルの冷たさが染みた。死んだ顔をしているくせに冷たさを感じる自分が情けなくて嗚咽が漏れた。
 日向はもう、なにも感じられないのに。自分は一体なんなのだろう。
 感じる自分が憎くて、泣いた。