描いてみてもいい、と言ってくれたくせに、氷坂があやめを描くことはやはりなかった。
 相変わらず彼は放課後にふらりと第二美術室に現れては、あやめではない人物の死体を描き続けていた。
「櫻井さんは随分遅くまでここにいますが、まだ帰らなくて大丈夫ですか」
 ある日、いつも通り筆を走らせながら氷坂にそう問われた。この人は先生だし、そう言うのもおかしなことではないはずなのに、この人が先生らしい台詞を吐くとなぜか違和感を覚えてしまう。
 それはこの人が残酷な絵を飽きもせず描き続けているからだろうか。
 いいや、どちらかというとあんな姿を見てしまったせいかもしれない。
 赤信号であるにも関わらずふらりと歩を踏み出した、あのときの。
「先生は……自分が欠陥品って思ったこと、ありますか」
 さりさりさり。音だけで声は返ってこない。でも耳だけはこちらを向いている気配があった。
「私は、あります。私は、こんな、だから」
「こんな?」
 すうっと氷坂が筆を手にしたままこちらを向く。問いかけに少しだけ、いらっとした。
「私、うまく、話せないから」
 子どものころからそうだった。なにか話そうとしてもうまく言葉が出てこない。やっと口を開くことができても出て来る言葉はいつもつっかえつっかえだった。
 みんなみたいに流暢に話したいと練習もした。でもそう思えば思うほど緊張してしまって、一層節くれだった話し方になった。そもそも、思いついたことを端から口にできる子供らしさが自分には欠けていた。そんなふうだったから周囲からはいつも、鈍臭い子、暗い子、と蔑まれた。
 ずっと、そうだった。
 動きも遅く、思考も鈍く、言葉も拙い。
 本当の母親が家を出ていったのも、あやめがこんなだったからだ。
――あやめが満足に話せないのはお前のせいじゃないのか? お前があやめがお腹にいるのに仕事ばっかりだったから。
――何言ってるの? 私のほうが稼ぎがいいのよ? あなたの稼ぎだけでこの家が回っていくとでも? 働くしかない状態にしたのは誰よ!
 親の喧嘩の原因の中心にはいつも自分がいた。
 あやめが三歳のとき、両親は離婚し、父とふたりの生活になった。もともと父はあやめにそれほど興味もなく、話しかけてもこないタイプだったから、あやめはますます無口になった。
 転機が訪れたのはあやめが八歳のとき。
 父親が家に女の人を連れてきた。
――あやめ、この人が新しいお母さんだ。
――こんにちは、あやめちゃん。仲良くしてね。
 女の人はにっこり笑ってあやめの頭を撫でた。撫でられた経験などほぼなく、置物と化すあやめに女の人はちょっとだけ眉を曇らせてから、ああ、そうだ、と言って背後を振り向いた。
――日向、ご挨拶しなさい。妹のあやめちゃんよ。
 そう言って引き合わされたのが、日向だった。
 あやめよりふたつ上の日向はあやめと真逆の少年だった。年上だったけれど落ち着きはなく、あやめの家の中をどんぐりみたいにつやつやの目できょろきょろと見回していた。
 ちょっと苦手だな、と思った。
 彼からは、小学校であやめを馬鹿にするクラスの男の子たちと同じ匂いがしたから。
 けれど、それはあやめの勘違いだった。日向はあやめを馬鹿にしなかったし、喋り方が鈍いといらいらもしなかった。
 彼はせっかちに言葉を紡ぎながらも、あやめの言葉をいつだって辛抱強く待ってくれた。
――川沿いにさ、コスモスがすっげえ咲いてるの。あやめ、一緒に見に行かない? ってかお前、何色好き?
 たったこれだけの質問にも瞬時に答えられず、あやめは顔を赤らめたが、日向はのほほんとした顔であやめの顔を見ている。
――ピンク。
――そっか、ピンクか。俺も好き。
 あとさ、白もいいよな〜、とあやめの答えの遅さなんて微塵も気にしていない軽やかさで日向は笑い、当たり前みたいにひょい、と手を差し出してきた。
――行こ。あやめ。
 日に焼けた彼の手は、青白くてついつい噛んでしまう癖のためにぼろぼろの爪をしたあやめとはまるで違う。尻込みするあやめの手を、日向は気にする様子もなくぐいと掴んで繋いでくれた。
「欠陥品、なんです。でも、義理の兄だけはそう言わないでくれ、た。おかげで私も少しはみんなと同じなれたかな、って思っ、てたんだけど」
「だけど?」
 氷坂の声には波はない。本当に聞いているのか怪しい空々しささえ感じる声だ。けれどそれくらいのほうがましだった。
 瞬時に答えを求められ続けるよりずっといい。
「日向が死んで、私は、欠陥品に戻った」
 氷坂は無言で絵に青色を載せている。体温を失っていく死者の肌に青は足される。死んだ青を絵へ載せながら、彼が言った。
「好きだったんですね。そのお兄さんのことが」
「好き……日向はそう、言ってくれ、ました」
 自分なんかのなにがよかったのか、あやめには今もってわからない。けれども日向は初めて出会ってからずっとあやめの手を引き続けてくれ、好きだと言ってくれた。
 妹としてではなく、ずっとそばにいたい、とまで。
「私、は、好き、だったけれど、それが日向と同じかどうかは、わからなくて。ただ、日向がいないと私の言葉、聞いてくれる人、いなくて。日向いないと、私、全然、ちゃんといろいろできなくて」
 だから、頷いた。
 好き、と言った。
 嘘なんかじゃない。好きだった。日向の匂いを嗅ぐと安心した。抱きしめられるとひとりじゃないと思えた。
 日向がいないと駄目だと思っていた。
 だからしたいというなら、日向にはなんだって許した。キスだってセックスだって。
 でもあの日はなんだか嫌だった。雨で、日向の部屋でいつも通りなんとなくくっついてふたり別々に本を読んでいた。日向の部屋にたくさんある漫画のうちの一冊に、あやめは夢中でかじりついていた。少年漫画だったけれど面白くて手が止まらなかった。
 どれくらいそのままでいただろう。不意に日向の手があやめの顎を掴んだ。くい、と向きを変えられ、日向の顔が近づいた。
 いつもだったら拒まない。でもそのときは読みたかった。
 このころは日向と一緒にいることで好きや嫌い、したいやしたくない、といった自身の想いを周囲に伝えられる自分になり始めていたころで、日向はそんなあやめの意思を尊重してくれると信じて疑っていなかった。だから素直に口にしてしまった。
――今、したくない。
 あやめが気持ちを口にすると日向はいつだって嬉しそうな顔をする。このときも、そっかあ、と笑って許してくれると思ったのだ。しかしその予想は外れた。
――あやめって俺のこと、好きじゃないよな。
 とっさに言葉が出なかった。日向と一緒にいるときはするすると声が出るようになってきていたのに、このときはどうしてもだめだった。
 半分口を開けたまま、声を発しないあやめを日向は無言で見つめた後、足音荒く部屋を出て行った。
 そのまま帰らなかった。
 拒絶されて腹が立っていたのだろうか。心を落ち着けようと少し散歩をするつもりだったのだろうか。
 今となってはわからない。はっきりしているのは、家を出た後、コンビニ前の交差点で信号を無視して突っ込んで来た乗用車に跳ねられ、日向が死んでしまった、ということだけ。
「でも日向はいなくなってしまっ、た。私は、ひとり」
「だから死体になりたい?」
 さらっと言われ、肯定も否定もできず黙って氷坂を見返すと、氷坂は筆を動かしたまま、吐き捨てた。
「アオハルですねえ。結構なことで」
「アオハル、ではないです」
「好きな人が死んでしまった。だから自分も死体になりたい。アオハル以外のなんて言うんですか?」
 皮肉気に肩をすくめ、氷坂はいささか乱暴に筆をキャンバス上で滑らせる。違う、と反論しかけたけれど、やっぱり言葉がうまく出ない。
 違うのだ。日向と同じ場所に行きたいとか、絶望しているとか、そういうことではないのだ。
 唇を噛みながらちらと覗いてみると、体の輪郭から青が大幅にはみ出ていた。
「アオハル、嫌い、なんですか」
「嫌いというより、無意味だと感じています」
 子ども達よ青春を謳歌せよ、今このときは一度過ぎたら取り返せないのだ、なんて恥ずかし気もなく語る教師も案外いる。教師というのはそうした血の温度が普通の人間より若干高めの人間の集合体なのかと思っていたけれど、やはりこの人は違うらしい。
「先生は、死体になりたい、んですよね。なんで、ですか」
「勝手に決めないでください。別に死体になりたくなんてないですよ」
「でも、赤で」
 飛び出そうとしてましたよね、と言いかけたがそれを咎めるように睨まれる。口を噤むあやめの耳に短いため息が聞こえた。
「本当に君たちは短絡的。殺人の代替行為として描く。飛び出そうとしたから死体になりたい。全部違う。好きだった人がいなくなった世界に絶望して死体に憧れる君と僕は違いますよ」
「じゃあ、先生はなんで、死体を、描くんですか。憧れ、ではないんですか。だって先生の絵すごく」
 綺麗だと思うから。
 思い入れがあると思うから。
 でもそれをあやめはやっぱりうまく伝えられない。
 口を噤むあやめをしげしげと見つめてから、氷坂は筆を置いた。
「ねえ、櫻井さん」
 すっと体をこちらに向け、彼は首を傾げる。絵を描くときだけ着けている黒いエプロンには星がぶちまけられたかのように様々な色が散っていた。刻まれた染みを見るとはなしに見つめるあやめに、氷坂は淡々と言った。
「人の魂の重さって、21グラムらしいですよ、知ってましたか?」
「知らない、です」
 問いの意味はまったくわからない。けれど21グラムとは随分軽いなとは思った。大さじ一杯くらいだろうか。そういえばなにかで見た覚えがある。蜂蜜は大さじ一杯で21グラムらしい。脳内に計量スプーンで測った蜂蜜を思い浮かべ、あやめは少し笑った。
「なんか、かわいい、ですね。魂って」
「それは……意外な感想ですね」
 呟いてから氷坂はつと目を上げる。
「そろそろ七時を越えます。ここも閉めます。君も帰りなさい」
「でも」
 本当はもう少し、彼の話を聞きたかった。
 魂の重さについて彼がなにを思って口に出したのか、真意を確かめたかった。けれど彼はそれを拒むように黙々と画材を片付け始めた。