先生、私を死体にしてください。

 あやめにだって「生きていた」ときがなかったわけではない。
 笑ったり怒ったりをしていた時期だってある。
 でもそのあやめの思い出の中にはいつだって日向がいる。
――あやめ、食ったことないの? あそこのコロッケ、食べないのは人生での最大の損だと俺は言いたい。
 もともと人付き合いだって苦手で、それは近所のお店で買い物をするのだってできればしたくないというレベルで、だから、損する、なんて言われたってできないものはできないと肩を落としていた。
 日向はそんなあやめの手を引いてくれた。
――俺と買いに行こうや!
 ぎゅっと握られた、自分より幾分か大きなその手。見た目はひょろひょろしていて、全然頼りがいとか力強さなんてなかったのに、手を握られると大丈夫と思えた。
 そうして教えてもらった世界はあやめの目の前を確かに明るくした。
 けれど。
――なんでもそうじゃないですか? 今とこの先、落差があるほうが見ているほうも盛り上がる。
 氷坂が言ったあの台詞。あれは本当にそうかもしれない。
 あのころは輝いていた。放っておいても笑顔が零れた。でも今は違う。
 思い出が眩しかっただけに、なにもかもを失った今、目の前は日向を知る前よりも暗雲に閉ざされて見える。
 悔しいと感じるのは、なにも感じない死体にまで、自分がなれていないことだ。
 死体になるためには、死体と生きているものの違いを知るべきなのかもしれない。
 だが、半分死んでいる自分には、生きている状態をどうしたら体感できるかわからない。
 勉強を真面目にやるようになったら生きるになるのだろうか。
 あるいは、友だち、を作ってみたら?
 どちらも本当に、生きる、になるのかよくわからないし、あまりやりたいと思えない。
「うそ、乙葉、来れないの?」
「そうらしいよ。今日は親と約束があるとか……」
「って、あの子が幹事だよね? 今日のカラオケ」
「あ! それは大丈夫だってさ! 乙葉の彼氏、ちゃんと声掛けて面子集めてくれたって話だから。ただこっち人数足りなくなっちゃうよね」
「だよね。それまずいよねえ」
 ぐるぐるしながらその日の授業終わり、荷物を取り出そうと教室後ろへと向かったあやめは立ち止まる。同じクラスの御園花鹿(みそのかじか)和田美香(わだみか)がなにやら声高に話していた。が、問題なのは、話している場所があやめのロッカーのすぐ前、というところだ。
「あの、すみません。ちょっとそこ」
 そろそろと声をかけると、二人同時にぱっとこちらを見た。
 友達同士は顔が似る、なんて言うけれど、二人ともアイラインくっきりで睫毛もばしばしに盛っている。わかりやすく同類という感じだ。
 どうでもいいけど、とため息をついたとき、ふっとふたりが目配せを交わし合うのが見えた。
「櫻井さん、さ、今日暇?」
「……は? え」
 声が出てこない。あまり仲が良くない人に話しかけられるといつもこうなる。固まるあやめの退路を断つように立って、彼女たちは言った。
「カラオケ、行くことになってたんだけどさ、人数足りなくなっちゃって。座ってるだけでいいから、来てくれない? 一応こっちも人数揃えろって言われてて」
 カラオケ。
 日向と一度行ったことはある。日向は楽しそうだったけれど、あやめは歌わなかった。のびのびと歌う日向を見ているだけで満足だったから。
「……う、たえないですけど」
「いいのいいの。期待してないから。人数足りてないと向こうの機嫌、損ねちゃうからさあ」
 もともとクラス内でも目立たない空気的存在のあやめにだからか、気遣いが皆目感じられない言い方だ。まあ、それはどうでもいい。
 ふと思ったのは、彼らについていったら「生きる」がわかるだろうか、ということだった。
 わかったら、少しは顔つきが変わるのだろうか。
 変われば、描いてもらえるのだろうか。氷坂に、死体として。
 絵の中で美しく息絶える彼女たちの顔に自分の顔が重なった。気が付いたら頷いていた。
「いい、ですよ」
「え、いいの?」
 まさかだよ、と露骨に顔に書いて、御園と和田が覗き込んでくる。そろそろと頷くと、彼女たちはまだ戸惑いの残る顔ながら、ほっとしたように笑顔になった。
 だが、頷いたことをあやめはすぐに後悔した。
 御園たちと共に向かったカラオケボックスには三人の男子がいた。制服からして近所の男子校、榊高校の生徒だろう。清潔感のあるイケメン揃いではある。
「あやめちゃんって、趣味、なに?」
「……特にない、です」
「日曜日とかなにやってるの?」
「別に……」
「……好きな食べ物は?」
「……思いつかないです。すみません」
 顔面偏差値が平均を超えないあやめにも彼らは優しかった。だが、彼等からの質問にあやめはほぼ答えられなかった。
――あやめってひなたぼっこ好きだなあ。じゃあ俺も趣味はひなたぼっこって言うことにするわ〜。のどかで良き。
――次の日曜日さ、水族館行かね? 俺、ペンギン見たい!
――地球が終わる前日ってのがきたら、俺、ここのクリームコロッケ食べるわ〜。
 答えようと思っても彼らに聞かれるたびに日向との思い出が蘇ってきて、息ができなかったから。
「櫻井さんさあ……やる気ないにもほどがあるって。そういう感じならもういいから」
 ちょっと私たちトイレ行くね〜♪ と男子たちに華やいだ笑顔を向けた御園によってあやめはトイレに連行された。トイレに入ると同時に、あやめの前で腕組みした彼女は、彼等に向けていたのとは明らかに違う歪んだ顔で吐き捨てた。
「帰っていいよ。あ、でも、カラオケ代だけは置いてってね。ドリンク、あんたも飲んだんだし」
「……はい」
 確かに全然、ちゃんと生きている対応が自分にはできていなかった。御園が怒るのも当然だろう。すみません、と頷きながらも、しかしあやめは訊かずにはいられなかった。
「どうしたら、御園さんみたいな生きている感じ、になれるんでしょう」
「は?」
 御園の綺麗に描かれた眉が不快そうに顰められる。彼女は胸の前に垂れた自身の髪を、いらいらが宿った指で掻き上げた。
「知らないよ。彼氏できたらなるんじゃないの? まあ、あんたじゃ難しそうだけど」
 じゃあね、と言い捨て彼女はトイレのドアを開け出て行く。ドアの隙間から軽快な曲がどっとなだれ込んできてから、再び扉に阻まれ、消えた。
 一瞬耳をなぞったのは、日向がよく歌っていた曲だった。
――ごめん、俺さ、あやめのこと好きだ。
 耳に蘇ってきた声を逃がさないように、あやめは目を閉じ、耳を塞ぐ。
 自分の中にあるのは、もうこの声だけ。
 でもこの声は……痛い。
 ふらふらとトイレを出、階段を下る。時刻は午後七時。カウンター前には、会社帰りなのかスーツ姿の客が数人、女子大生グループなのか、ほんのりと甘い香りをまとった一団がいた。
 彼らを横目に店を出たあやめは息を吐く。夜と排気の匂いが体に沁み込んでくるのを感じた。
 ざわざわと人声と人声が波のように覆いかぶさってくる。電子看板が立ち並ぶ街角は昼間のような白さに満ちていて眩しい。目を細め駅に向かって歩き始めたあやめはしかしそこで足を止めた。
 交差点の前に見覚えのある背の高い後ろ姿があった。色素の薄い髪をさらりと流していくのは、四月の終わりの冷たさが残る風。
 ただ信号待ちをしているだけだ。なにもおかしなところはない。
「氷坂せんせ……」
 かけた声は彼に届く前に車道を渡っていく車の通過音に掻き消える。もともと声を張るのは得意じゃない。そもそもわざわざ声をかける理由もない。なのに声をかけたのは。
 ふっと彼が足を踏み出す。
 信号は、赤。
 とっさに体が動いた。普段、走ったりなんてしないけれど、足は無意識に速度を上げていた。
 ぐい、と彼の上着の裾を掴むと、踏み出しかけていた足がすっと戻った。
「あれ、櫻井さん」
 何事もなかったような顔で彼がこちらを見下ろす。信号が青に変わり、人波が動いた。
「今日来なかったと思ったら。こんな時間までなにしてるんですか」
「先生、みたいな、言い方ですね」
「先生なので」
 淡く笑んで彼は横断歩道へと足を踏み出す。が、一歩歩を進めたところで立ち止まった。
「なに、離しなさいな」
「赤」
 青だった信号がちかちかとカウントダウンを始める。再び止まれの意思表示をし始めた信号をちらと見上げ、ああ、そうだね、と呟いた彼の服の裾をあやめは握りしめる。
「今、じゃなくて、さっき、赤、だったのに」
 それきり言葉が出ない。思ったように言えない自分にあやめは苛立つ。
 昔から自分はそうだ。日向がいないとなにもできない。
 氷坂はしばらく無言でこちらを見下ろしてから、ふと首をすくめた。
「この時期だと、肉まんとかもう、ないんですかね」
 意味がわからない。首を傾げると、彼は無造作に片手で衿元を握りしめ、通りの向こうに目をやった。視線の先にはコンビニの青と赤の照明があった。
「風、まだ冷たいし。櫻井さんにも買ってあげますよ」
 信号が再び変わる。すたすたと歩きだす彼の足取りには迷いがなく、つられたようにあやめは彼の服の裾から手を解いた。
 ついていく義理もないし、奢ってもらう理由もない。だからそのまま放置して駅へと向かってもよかったけれど、あやめは彼の後に続いて歩き出した。
 瞼の裏に映るのは、彼が描いた死体の数々。
 自分の意思ではもうなにも閉じ込めておけない、彼女たちの黄泉に向けて開かれた眼差し。
 それらは先ほどの彼と同じに見えた。車道にするりと踏み出そうとしたあのときの彼と。
「どれがいいですか、櫻井さん」
 コンビニのカウンターの前、振り向いた氷坂に促され、あやめはガラスケースの中を窺う。
 あんまん。肉まん。ピザまん。豚角煮まん……。
「どれでも、いい、です」
 視線を彷徨わせ、口の中で言うと、氷坂は軽く目を眇めてから、肉まんとあんまんをひとつずつ買って、肉まんをあやめに差し出した。
「どうぞ」
「肉まん、いいんですか」
 肉まんと口にしていたのは氷坂のほうだったはずだ。手を出さずにいるあやめに氷坂はゆらっと首を振ってあやめの手に肉まんの包みを押し付け、自動ドアを抜けていく。
 彼について外へ出たあやめが視線を彷徨わせると、コンビニの横で突っ立ったまま、あんまんをかじっている氷坂の姿があった。
「四月でもまだあるんですね。これ。久しぶりに食べました」
「あんまん、おいしい、ですか」
「こっちがよかったですか?」
 ふと彼の目がこちらを見る。そういう意味で言ったんじゃない。
 じわり、と手の中の温もりが唐突に自己主張した気がした。見下ろすと氷坂が、どうぞ、と促してきた。
「冷めないうちに食べたほうがいいですよ。命をいただいて僕たちは生きているわけですから、ベストなタイミングで食べてあげるべきかと」
「命」
 肉まんから染み出してくる熱気が水滴となって掌を湿らせる。そろそろとパッケージを剥がすと湯気はもう消えていた。しかし、唇で触れると体温よりずっと高い温度が伝わってきた。
 少しだけ、食欲がわいた。
 はむり、とかじる。油と肉が舌に柔らかく馴染んだ。
「おいしいですか?」
 半分食べたあんまんを片手に彼が問いかけてくる。視線はこちらに向いてはいない。彼はただ、駅へと流れていく人の群れを目で追っている。
「先生は、なんで、赤だったのに、車道に出ようとしたんですか」
 問うとすうっと眼球が滑ってこちらを見た。
 その目を見て、思った。
 殺したいから描いているんですか、と問いかけた自分に彼は、そうですねえ、とはぐらかすように笑った。どうせ殺すならきらきらしているほうがいいだろう、とも。
 けれど、違う。
 この人には力が感じられない。
 なにかをしたいと願う、希望の力が一切ない。絵の前でしか……この人は生きていない。
「先生も、死体に、なりたいんですか」
 甲高い声を上げながら若い男女のグループが目の前を通り過ぎていく。
 氷坂は一度瞬きをしてから、ささやかに口角を上げた。
「脂」
 呟いて彼がすっと指を差す。
「肉まんの。ついてます」
 言われてそろそろと手の甲で拭う。ぬるりとした感触が手の甲を滑り、脂臭さとてかりが手の甲に移った。
 ぬらりと光った人工的なその反射を見つめていると、ふ、と頭の上で氷坂が笑う気配がした。
「なんでしょうね。今の櫻井さんなら描いてあげてもいいかなあ、と思いました」
 別に自分はなにも変わっていない。肉まんをもらって食べた、それだけだ。
 生き生きもきらきらもなかったはずだ。唇だけは脂でてかっていただろうけれど、それは自分の内側が輝いていたからじゃない。
 じゃあこの人の唇はどうだろうか、と確認してみたけれど、脂のてかりなどなく、ただただ乾いた色でそこにある。
 この人のほうが死体みたいだ、とちら、と思った。