あやめの問いに、氷坂は表情を変えはしなかった。ただ、彼の感情を表すようにすうっと瞳が眇められた。
「どうして?」
「先生が、今、描いていた、絵、星谷さん、だから。顔が半分潰れてるけど、タイヤの跡も描かれて、ます。星谷さん、ですよね。事故があったのは朝の五時だった、そうですから、当然、遺体を見た人なんてそうい、ないです。でも先生の絵は、詳細に描かれ過ぎてる、から」
星谷由香。
あやめと同級生だった彼女が死んだのは三か月前だ。雪が降った翌朝、凍った歩道橋を駆け下りていて足を滑らせ、転落した。落ちたその先へ、交通規則を無視して歩道を走っていた原付バイクが突っ込み、彼女は死んだ。
完全なる事故だと言われているが、校内では密やかに噂が流れてもいた。
星谷由香は歩道橋から故意に突き落とされ、命を落としたのではないか、と。
彼女が同じクラスの女子に対し、複数人で嫌がらせをしていたらしいことが彼女の死後、明らかになったことも噂に拍車をかけたが、真偽のほどは定かではないまま、彼女の死は事故として片付けられていた。
けれどもし、その嫌がらせを受けた女子生徒と氷坂に何らかの繋がりがあったとしたなら?
氷坂は答えない。その目をあやめは必死に睨む。目を離したら……食いつかれそうな気が少し、した。
「その推理はザル」
ぱっと瞳の呪縛が解けた。え、と妙な具合に声が漏れる。氷坂はよいしょ、と呟いて腰を伸ばしてから、ぺたぺたと足音を響かせて再びキャンバスの前に戻った。
絵の中では、星谷由香が潰れずに残った片目で世界を無機質に見返している。
「考えてもみてください。星谷さんの死因も遺体の様子も君ですら知っている。報道もされていたし、隠そうとしても人の口に戸は立てられないから。遺体の様子が漏れることなんて珍しくない。そもそもこれは星谷さんじゃない。モチーフとして彼女の事故は使ったけれど、彼女を描いたつもりはない」
「それは……」
言い逃れのように聞こえた。教卓から這いだしたあやめは、胸に抱えたままだったキャンバスのうちの一枚を彼に向かって見せた。
「この絵の人……、この人って保健医、の、柏崎先生、ですよね。死んじゃった星谷さんのことを描くのは……わからなくも、ないです。でも生きている柏崎先生をこんなふうにするのは、なんで、ですか」
「櫻井さんってラノベ、好きですか?」
パレットに絵筆をぐりぐりと押しつけ、筆先に色を馴染ませながら氷坂が訊く。
ラノベ? と首を傾げるあやめに氷坂はふふ、と笑った。
「僕はね、未来が見えるんです。未来が見えるから……彼女たちの死にざまもわかる」
……この人はなにを言っているのだろう。
「そんなの、あり得ない、と思います」
「夢がないですね。櫻井さんは」
そのまま無言の時間が過ぎる。するするとキャンバスを筆が滑っていく。その音に苛立ちを感じ始めたとき、櫻井さん、と氷坂があやめを呼んだ。
「僕の絵、どう思いましたか?」
「どう……どうって。ひどい、絵だと」
「本当に?」
ちらっと色素の薄い目がこちらを見やる。どういう意味ですか……と言いかけてあやめは口を噤む。
ああ、ひどい絵だった。恐ろしく残酷な絵だった。人の命をなんだと思っているんだろうと思った。
この絵を描いた人は多分、どこか壊れているのだろうも。
でも。
「未来が見えるってのはね、冗談なんですけどね」
さりさりさり。
キャンバスを筆が滑る。その音をバックに氷坂は言う。
「一応教師なんで、生徒の顔色とかなにを考えてるかはもやっとは見えるんですよ」
この人は声も綺麗だとは思う。感情はあまり見えないけれど、冷たくはない。柔らかくてふわっと耳に馴染む。彼の親衛隊を自称している女子生徒達にとっては神とか天使の囁きみたいなものなのだろう。
彼の声に惹かれたことはないあやめにも、彼女たちの気持ちが少しだけわかった。
この人の声には、ちょっとだけ心の扉を揺らがせる響きがある。
ぼんやりと思いを巡らせているあやめに向かって、彼は言葉を続けた。
「櫻井さん、僕の絵、まあ、好きですよね」
「好き、じゃないです」
「描いた本人の前で随分きっぱり言いますねえ」
くすくす、と氷坂は笑う。この人は微笑むことはあるけれどあまり声を上げて笑わない。彼の信者が見たら卒倒するだろうけれど、あやめにとっては薄気味悪さしか与えない笑顔だった。
「普通ね、こんな絵、見つけたら他にもないかなんて部屋中探したりしませんよ。けれど君は探し出し、大事に胸に抱えている。触るだけで血が付きそうなそんな絵を。つまり君は僕の絵を憎からず……とまでは思わないまでも、触っても平気なくらいには認めてくれている、と感じましたけれど」
言われてあやめは自身の腕の中を見下ろす。キャンバスなんてかさばるもの、適当にどこかに押し込めてしまえばよかったはずなのに、なぜか自分はそれらを抱え込むようにして教卓の下へとしゃがみこんでいたのだ。そのことに初めて気が付いた。
「……私が、これを見つけたと、描いた人にばれたら、と、怖くなった、だけ、です。私も、殺されるかも、しれないから」
「ですから、僕は殺してませんって。絵を描いているだけ。描きたいものを描くのは自由でしょう」
「殺したいから、描いているんじゃ、ないん、ですか。リアルすぎます、し。柏崎先生とか……」
「そうですねえ」
氷坂の目がつと逸れる。筆の先にべったりと張り付いた赤が見えた。
「まあ、殺したいわけではありませんが、どうせ殺すならあれくらいきらきらしている人たちをこそ、殺したいと思うものでしょうね。星谷さんや、柏崎先生みたいな、ね」
「私みたいなのは……殺したくない、ですよね」
ぽろりと言葉が零れ落ちる。ふっと氷坂の目がこちらを見た。
「殺されたいんですか? 櫻井さんは」
「……そういうわけじゃ、ないです」
ああ、別にその絵のように殺されたいわけじゃない。ただ。
「死体になら、なりたいな、と思うだけです」
「どうして?」
氷坂がすんなりとした首を傾げる。そうされてぺらぺらと余計なことを口にしたのだと悟り、あやめは顔を背けた。
「言っても、先生にはわからないと思い、ます」
「ああ、じゃあ、別にいいや」
あっさりと引かれ、ちょっとむっとした。
「教師ってもっとこう、なんか……」
「聞いても仕方ないし、別に君は僕の好みではないからいいかなって」
好みじゃない。それはどういう意味での好み、だろうか。
殺したくなるようなタイプじゃないという意味だろうか。
「……先生は、おかしいです」
無性に腹が立ってそう吐き捨てると、くくっと氷坂の肩が笑みに震えた。
「死にたい、ならともかく、死体にならなりたい、なんてさらっと言う櫻井さんも、まあまあおかしいですよ」
おかしい、おかしい。ああ、おかしいのかもしれない。
あやめは腕に抱えたままの死体たちの絵を見下ろす。
気持ち悪い絵だと思った。恐ろしいとも。
それは間違いない。
でも同時に思ってしまってもいた。
この絵は、とても美しいと。
呼吸をしなくなって、それでもそう思ってもらえる存在に、自分もなりたいと、思ってしまっていた。
そんな絵を描く彼に、興味がある、とも。
だから、あやめは今日も第二美術室にいる。
「どうして?」
「先生が、今、描いていた、絵、星谷さん、だから。顔が半分潰れてるけど、タイヤの跡も描かれて、ます。星谷さん、ですよね。事故があったのは朝の五時だった、そうですから、当然、遺体を見た人なんてそうい、ないです。でも先生の絵は、詳細に描かれ過ぎてる、から」
星谷由香。
あやめと同級生だった彼女が死んだのは三か月前だ。雪が降った翌朝、凍った歩道橋を駆け下りていて足を滑らせ、転落した。落ちたその先へ、交通規則を無視して歩道を走っていた原付バイクが突っ込み、彼女は死んだ。
完全なる事故だと言われているが、校内では密やかに噂が流れてもいた。
星谷由香は歩道橋から故意に突き落とされ、命を落としたのではないか、と。
彼女が同じクラスの女子に対し、複数人で嫌がらせをしていたらしいことが彼女の死後、明らかになったことも噂に拍車をかけたが、真偽のほどは定かではないまま、彼女の死は事故として片付けられていた。
けれどもし、その嫌がらせを受けた女子生徒と氷坂に何らかの繋がりがあったとしたなら?
氷坂は答えない。その目をあやめは必死に睨む。目を離したら……食いつかれそうな気が少し、した。
「その推理はザル」
ぱっと瞳の呪縛が解けた。え、と妙な具合に声が漏れる。氷坂はよいしょ、と呟いて腰を伸ばしてから、ぺたぺたと足音を響かせて再びキャンバスの前に戻った。
絵の中では、星谷由香が潰れずに残った片目で世界を無機質に見返している。
「考えてもみてください。星谷さんの死因も遺体の様子も君ですら知っている。報道もされていたし、隠そうとしても人の口に戸は立てられないから。遺体の様子が漏れることなんて珍しくない。そもそもこれは星谷さんじゃない。モチーフとして彼女の事故は使ったけれど、彼女を描いたつもりはない」
「それは……」
言い逃れのように聞こえた。教卓から這いだしたあやめは、胸に抱えたままだったキャンバスのうちの一枚を彼に向かって見せた。
「この絵の人……、この人って保健医、の、柏崎先生、ですよね。死んじゃった星谷さんのことを描くのは……わからなくも、ないです。でも生きている柏崎先生をこんなふうにするのは、なんで、ですか」
「櫻井さんってラノベ、好きですか?」
パレットに絵筆をぐりぐりと押しつけ、筆先に色を馴染ませながら氷坂が訊く。
ラノベ? と首を傾げるあやめに氷坂はふふ、と笑った。
「僕はね、未来が見えるんです。未来が見えるから……彼女たちの死にざまもわかる」
……この人はなにを言っているのだろう。
「そんなの、あり得ない、と思います」
「夢がないですね。櫻井さんは」
そのまま無言の時間が過ぎる。するするとキャンバスを筆が滑っていく。その音に苛立ちを感じ始めたとき、櫻井さん、と氷坂があやめを呼んだ。
「僕の絵、どう思いましたか?」
「どう……どうって。ひどい、絵だと」
「本当に?」
ちらっと色素の薄い目がこちらを見やる。どういう意味ですか……と言いかけてあやめは口を噤む。
ああ、ひどい絵だった。恐ろしく残酷な絵だった。人の命をなんだと思っているんだろうと思った。
この絵を描いた人は多分、どこか壊れているのだろうも。
でも。
「未来が見えるってのはね、冗談なんですけどね」
さりさりさり。
キャンバスを筆が滑る。その音をバックに氷坂は言う。
「一応教師なんで、生徒の顔色とかなにを考えてるかはもやっとは見えるんですよ」
この人は声も綺麗だとは思う。感情はあまり見えないけれど、冷たくはない。柔らかくてふわっと耳に馴染む。彼の親衛隊を自称している女子生徒達にとっては神とか天使の囁きみたいなものなのだろう。
彼の声に惹かれたことはないあやめにも、彼女たちの気持ちが少しだけわかった。
この人の声には、ちょっとだけ心の扉を揺らがせる響きがある。
ぼんやりと思いを巡らせているあやめに向かって、彼は言葉を続けた。
「櫻井さん、僕の絵、まあ、好きですよね」
「好き、じゃないです」
「描いた本人の前で随分きっぱり言いますねえ」
くすくす、と氷坂は笑う。この人は微笑むことはあるけれどあまり声を上げて笑わない。彼の信者が見たら卒倒するだろうけれど、あやめにとっては薄気味悪さしか与えない笑顔だった。
「普通ね、こんな絵、見つけたら他にもないかなんて部屋中探したりしませんよ。けれど君は探し出し、大事に胸に抱えている。触るだけで血が付きそうなそんな絵を。つまり君は僕の絵を憎からず……とまでは思わないまでも、触っても平気なくらいには認めてくれている、と感じましたけれど」
言われてあやめは自身の腕の中を見下ろす。キャンバスなんてかさばるもの、適当にどこかに押し込めてしまえばよかったはずなのに、なぜか自分はそれらを抱え込むようにして教卓の下へとしゃがみこんでいたのだ。そのことに初めて気が付いた。
「……私が、これを見つけたと、描いた人にばれたら、と、怖くなった、だけ、です。私も、殺されるかも、しれないから」
「ですから、僕は殺してませんって。絵を描いているだけ。描きたいものを描くのは自由でしょう」
「殺したいから、描いているんじゃ、ないん、ですか。リアルすぎます、し。柏崎先生とか……」
「そうですねえ」
氷坂の目がつと逸れる。筆の先にべったりと張り付いた赤が見えた。
「まあ、殺したいわけではありませんが、どうせ殺すならあれくらいきらきらしている人たちをこそ、殺したいと思うものでしょうね。星谷さんや、柏崎先生みたいな、ね」
「私みたいなのは……殺したくない、ですよね」
ぽろりと言葉が零れ落ちる。ふっと氷坂の目がこちらを見た。
「殺されたいんですか? 櫻井さんは」
「……そういうわけじゃ、ないです」
ああ、別にその絵のように殺されたいわけじゃない。ただ。
「死体になら、なりたいな、と思うだけです」
「どうして?」
氷坂がすんなりとした首を傾げる。そうされてぺらぺらと余計なことを口にしたのだと悟り、あやめは顔を背けた。
「言っても、先生にはわからないと思い、ます」
「ああ、じゃあ、別にいいや」
あっさりと引かれ、ちょっとむっとした。
「教師ってもっとこう、なんか……」
「聞いても仕方ないし、別に君は僕の好みではないからいいかなって」
好みじゃない。それはどういう意味での好み、だろうか。
殺したくなるようなタイプじゃないという意味だろうか。
「……先生は、おかしいです」
無性に腹が立ってそう吐き捨てると、くくっと氷坂の肩が笑みに震えた。
「死にたい、ならともかく、死体にならなりたい、なんてさらっと言う櫻井さんも、まあまあおかしいですよ」
おかしい、おかしい。ああ、おかしいのかもしれない。
あやめは腕に抱えたままの死体たちの絵を見下ろす。
気持ち悪い絵だと思った。恐ろしいとも。
それは間違いない。
でも同時に思ってしまってもいた。
この絵は、とても美しいと。
呼吸をしなくなって、それでもそう思ってもらえる存在に、自分もなりたいと、思ってしまっていた。
そんな絵を描く彼に、興味がある、とも。
だから、あやめは今日も第二美術室にいる。



