氷坂の裏の顔を知ったのは、この第二美術室でだった。
 ほぼほぼ物置として使われているここには実に雑多なものが放置されている。放置というよりも廃棄に近い状態かもしれない。
 美術に関係ない体育祭の横断幕や、使われなくなった卓球台といった不要備品がひしめく美術室の窓際、古びた椅子にあやめはいつも通り腰を下ろしていた。
 通常ならそのまま下校時間までまどろむ。けれどその日は普段しないことをしてみようと思い立った。
 好奇心なんてもの、絶えて久しいと思っていたが、毎日毎日うたた寝をすることに少々飽いていたのかもしれない。
 立ち上がり、室内を歩き回ってみる。捨て置かれた備品棚には古くなった石膏像のほか、誰が描いたものともしれぬキャンバスが大量に詰め込まれていた。卒業生のものかもしれない。忘れ去られ、引き取り手もないようなものだし、ろくな絵はあるまい、とも思ったけれど、暇つぶし程度の気持ちであやめはそれらに手を伸ばした。
 金属製のラックに古本屋の本よろしく、サイズ感を無視して詰め込まれているキャンバス。引っ張り出すと、油絵具のくぐもったオイルの香りがした。
 絵の内容としては想像通り、描きかけだったり、練習としか思えぬような拙い筆遣いが目立つものばかりだ。正直、数枚見ただけで飽きてしまった。
 もういいかな、と思ったが、家にはまだ帰るわけにいかない。時間潰しのつもりでさらに引き出したそれを目にしたところで、あやめは硬直してしまった。
 女性の絵だった。細面の顔に癖のある長い髪が落ちかかっており、その髪の間から虚ろに開いた目が見えた。
 その目には、一切光がなかった。
 それもやむを得ないのかもしれない。
 絵の中の彼女は、身体のいたるところを刃物で刺されていたのだから。
 すっきりとしまった太ももにも、鋭角的にくびれた腰にも、ふっくらと滑らかな曲線を描く、乳房にも。
 殺意の深さを示すように、柄ぎりぎりまで彼女の体に埋められているために、刃は見えない。けれど見えないそれがすべて目の前の彼女の身体に埋もれているのかと思ったら、寒気が止まらなくなった。
 これ、なに、と掠れた声が出た。
 しかし、衝撃はそれで終わらなかった。
 気持ちを落ち着けようと問題の絵を戻し、その隣に収められたキャンバスを手に取ったあやめは再び息を止めた。
 そこに描かれていたのもまた、残忍な手によって命を散らされたと思しき人物の絵だったから。
「これ……まだ、ある、のかも」
 使命感があったわけではない。でも探す手を止められなかった。
 確信があった。
 この絵を描いている人は……全然満足していない。そんな気がした。
 美術室中をはいずり回り、見つけ出した絵は全部で五枚。
 刺殺、絞殺、撲殺……喉をかきむしるようにして生き絶えているこれは、毒殺だろうか。
 墜落死のものもあった。高いビルの上に人影が見える。……突き落とされたのかもしれない。
 絵のタッチ、色使いからしても同じ人物の手によるものだと思う。だが、絵の残忍さそのものよりも、描いても描いても消えぬと言いたげな殺意こそが居並ぶ絵の最大の共通点だと思った。
 ただ、なにより気になるのはこれだ。
 あやめは美術室の隅に置かれたイーゼルの前で顔を引き攣らせる。目立たぬようにとでも思ったのだろうか。布で覆われていたその絵は、画面をあらわにして触れてみるとほのかに湿っていた。
 つまり、この絵は未完成であり、現在進行形で描いている人物がいる、ということだ。
 この高校の中に。
 誰なのだろう。誰が。
 そのとき、廊下から物音が聞こえた。
 ぺたり、ぺたり、というその音は、まっすぐにこの第二美術室へと向かってくる。
 人が訪れることなどほぼないここに。
 全身に鳥肌が立った。慌てふためきながら周囲を見回す。幸いにも物が多い場所だ。物陰はたくさんある。大丈夫、落ち着けば大丈夫、と思うのに、徐々に大きくなる足音に急き立てられ、正常な判断ができない。
「ど、どこに……」
 喉が干上がる。こんなときなのに咳き込みそうになる。慌てて口を押さえ、目に留まった教卓の下へ身を滑り込ませる。と同時に、からり、と扉が滑る音が響いた。
 ぺたり、ぺたり、と独特の足音を響かせながら誰かが入ってくる。あの足音は生徒用の上履きの音ではない。おそらくは教師のものだ。
 そこであやめは肩から力を抜いた。教師ならこの部屋に備品を取りにくることもあるだろう。なにも隠れることはなかったかもしれない。
 しかし今から出るのも間が抜けている。どうしようか、と迷っている間にも足音は室内を動き回り、備品棚を開け閉めする音が続いた。
 用が済めば出て行くものと思ったが、立ち去る気配はない。きいい、と椅子の脚がリノリウムの床をひっかく音が響く。
 次いで、ぎしり、と音を立て誰かが座る音。
 神経を研ぎ澄ませていて、あやめは気づいた。
 椅子が引かれた辺り、あそこになにがあったのかを。

 キャンバスだ。

 地面に叩きつけられ、顔面を半分ひしゃげさせた少女の死体が描かれたあの。
 かちかち、と音がする。なんたることか、自分の歯が鳴っていた。歯の根が合わぬ、とはこういうことか、と学校で習った知識を初めて実感したものの、恐怖以上に気にもなった。
 怖いのだ。見てはいけないものなのだ。
 でも見たい。
 怖いけれど、確かめたい。
 そろそろと教卓の影から顔を半分覗かせて確認すると、教師用の茶色のスリッパがまず目に入った。視線を上へと滑らせた先にあるのはスラックスに覆われた足。そして。
 白衣、が見えた。
 ふ、と妙な具合に息が口から漏れる。
 そこにいたのは、氷坂真白先生だった。
 トレードマークのように身にまとっている白衣を彼はさらりと脱ぐ。油絵具で汚れたエプロンを慣れた様子で身にまとった彼は、絵の具をパレットに絞り出し、画溶液で溶くと、キャンバスに色を重ね始めた。
 イケメンだ、美の集大成だ、と日々崇められている彼の姿と、絵筆を揮う彼の姿に乖離は感じられない。けれどあやめは知っている。キャンバスの中、形を持っていくものが、無情な手によって命を摘み取られた人間であることを。
 自ら光を反射することも叶わなくなった少女の双眸がふっと思い出される。
 埃臭い美術室の空気の濃度が一気に薄くなった気がした。こらえようと口を押えるけれど、喉の奥で息が逆流して止められない。
「ひっ……」
 しんと静まった美術室に押し込めそこなった咳のかけらが落ちた。
 声はしなかった。けれど、空気が確かに揺らめいたのを感じた。
 ぎい、と椅子が引かれた。
 その音を追うように、ぺたり、ぺたり、と近づいてくる足音。
 飛び出して逃げようにも、出口に行くには彼の脇を通り抜けなければならない。しかも備品棚が所狭しと並べられた室内において、あやめが隠れたのは部屋の最奥。隠れ場所は多いかもしれないが、鬼ごっこには最悪の障害物だらけの場所だ。
 でもこのまま見つかったらどうなるのだろうか。
 どうしましたか? 櫻井さん。
 氷坂先生は、まずはそう言うのだろうか。いつも通りのテンションで。五線譜内でひとりだけ正気を保ち続けているナチュラル記号みたいな声で。
「かくれんぼですか? 櫻井さん」
 手がかけられた重みで、ぎしり、と教卓が軋む。長身を折り、こちらを覗き込んでくる彼によって影が刻まれる。
 想像と違い、彼の声はナチュラルではなかった。不自然に低められた声が降ってくる。けれど声とは裏腹に表情だけはいつものままだ。
 死体を好んで描くことなんて絶対にない、無害で誠実な化学教師の顔。
 そのアンバランスさに再び寒気を覚えた。
 一方で、知りたい気持ちも抑えきれなかった。
「先生」
 必死に声を押し出すと、先生が首を傾げる。あやめは教卓の下に蹲ったまま、彼の目をひたと見つめて訊ねた。
「先生が星谷さんを、突き、落としたんですか?」