花屋というものには、春は春の、夏は夏の、季節それぞれの彩りがあることを、あやめはこの一年で知った。
 たくさんあり過ぎてどれを選んでよいかわからず店先で迷っていると、ショートカットで美しい首筋が印象的な女性店員が声をかけてきた。
「どなたかへのプレゼントですか?」
「あ、ええと」
 やっぱり言葉がうまく出てこない。落ち着こう、と小さく呼吸を整えてから、あやめはゆっくりと笑んだ。
「人に、あげたいので。明るい色の、花がいいかなと」
「いいですね! 夏ですし、向日葵などいかがですか?」
「じゃあ、そちらで」
 かしこまりました、とそれこそ向日葵のような笑顔を閃かせ、彼女はエプロンをはためかせてきぱきと花を選ぶ。
 出来上がった花束は向日葵とオレンジのガーベラが眩しい、夏らしいものだった。
「ああ、櫻井さん」
 花束を抱えて扉を開けると、今日も彼の母がいた。ベッドの脇の椅子に腰かけたまま、ぼんやりとしていた彼女は、あやめの顔を見て、笑顔らしき表情を浮かべた。
「いつも、ありがとうねえ」
「いえ、あの、これ、お花……よかったら」
 たどたどしく呟き、花束を差し出す。綺麗ねえ、と言って彼女は皺に覆われた手を伸ばして受け取ったが、続いて零れた声は諦めを含んだものだった。
「まあ、あの子はまだ、見られないけれど。だからあの、いいのよ? お花なんてもったいないし……」
「もったいなくは、ないです。起きたら、見える、ものだから」
 きっぱりと首を振る。彼女はふっと息を呑んでから、そうね、と言ってあやめに自身が座っていた椅子を勧めた。
 活けて来るわね、と力ない声を残し、廊下へと出て行く彼女に会釈し、あやめはそっと彼の顔を見る。
 あれから一年、彼は眠り続けている。痛々しいほど白い包帯により、顔の左半分を覆われたままの彼にあやめは呼びかける。
「先生」
 意識はない。だから返事もない。痛みもおそらく感じてはいない。
 それは……彼の望んだ姿だったのだろうか。
「いつかは、こういうことがあるのでは、と思っていました」
 この病院で顔を合わせるようになってすぐ、彼の母はそう言った。
 氷坂が飛び下りたことは、報道でも大きく取り上げられ、彼が死体の絵を描いていたことも含め、表沙汰になった。彼の口からは決して語ってくれなかった、彼のこれまでのことも。
 彼が死体の絵を描くに至った直接の理由は、おそらくは彼の妹のことがあったからだろう、と彼の母は語った。
 年が離れた兄妹で、彼女は氷坂より十歳下だった。
「妹の歌は……いじめにあっていたのです。真白は歌の学校で教師をしていたのですが、気付かなかった。それを真白はずっと悔いていたのだと思います」
 同じ家に住んでいればまだ、気付けたかもしれない。けれど当時、彼は結婚を考えていた恋人と暮らしていた。彼の恋人はそのころ、勤めていた会社で重大なポストに就いたばかりでナーバスになっており、彼は恋人のケアにかかりきりだった。妹を軽んじるつもりなどむろんなかったが、結果として彼の中で妹の「順番」は恋人より下になった。
 陰口に始まり、荷物を隠される、足をかけられる、水を浴びせられる、服を脱がされ写真を撮られる……と徐々にエスカレートしていく、クラスメイトからの妹への行為の数々。
 それを氷坂が知ったのはすべてが終わってしまった後。もう元になんて戻れない場所まで彼女が進んでしまってからだった。
 生きている間はなにも言ってくれなかった妹が残したのは、スマホに記された短い言葉だけだった。
――私は、人間じゃないものになりたい。犬でも、猫でも、虫でもいい。順番をつけ、意味なく誰かを傷つける、人間以外のものになりたい。それができないなら。
――死体になりたい。
 氷坂の妹が吐き出した最期の言葉に息が止まった。
 死体になりたい、と告げたあやめに、氷坂はどんな気持ちを抱いたのだろう。
 自分の描く死体の絵を、綺麗、と言われ、どう思ったのだろう。
 うれしかっただろうか。それとも苦々しく思ったのだろうか。
 ただ、感じるのは……彼が憎悪を抱いて自身の絵に向き合っていた、ということだ。
 誰かと引き比べ、上下を決めずにはいられない人間に。
 ヒエラルキーなんてばかばかしいと口で言いながら、差別と偏見を繰り返す、人間に。
 誰も救えない、と肩を落とすことしかできない、弱くて卑小な自分を含めたすべての人間に、彼は消えぬ憎しみを抱き続け、黒い感情のすべてを込めてキャンバスに向かっていたのだ。毎日、毎日。
「でも、私は、人間、少し、好きになれましたよ」
 答えない彼の枕元であやめは呟く。
 氷坂が飛び下りたことで学校は大騒ぎになったし、あの場に居合わせた四人もショックを受けてしばらく登校できないほどのダメージを受けた。
 どう考えても、氷坂のしたことは間違ったことなのだ。
 あやめも彼はこんなことをするべきではなかったと思ってはいる。
 それでも、彼の言葉は確かに……あやめを救った。
――死体なんてろくなものじゃないってところ、見せてあげます。
 死体になる。命を、捨てる。
 それがどれほど愚かなことなのかを示してくれたから、じゃない。
――人の話を聞くなら、その人のために命をかけられるくらいじゃないと聞くべきじゃないって。
 この人は……誰にもいらないと言われ続けてきたあやめに手を差し出そうとしてくれた。やり方はあまりに過激だったけれど、それでも正そうとしてくれた。
 命をかけて。
「私、もう、死体になりたい、はやめます。でも、言いたい、先生に」
 一年も眠り続け、点滴の跡だらけとなった腕。痩せてしまって血管の浮きだした手。
 その彼の手を見下ろし、あやめは唇を噛む。
「先生は馬鹿で、間違ってるって。だってそう、ですよね。先生ならわかっていいはずだもの。自分を置いて、死なれたら……相手がどう思うかって……先生なら」
 本当なら、自分だって終わらせたかった。でもできなかったのは……もしもそうしてしまったら、彼に言えなくなってしまうと思ったから。
 埃臭い第二美術室で、絵を描くことに熱中する彼と過ごした時間。彼はあやめを邪魔にもしなかったし、必要以上に構いもしなかった。
 ただそこにいることを許してくれた。
――なんでお前はこんななんだ。
――手間ばっかりかけて。
――どうして生きているのがあなたなの、
――あなたの顔を見ていると、頭がおかしくなりそう。
 見たくない。そばにこないで。
 お前の顔なんて見たくない。
 そんな否定にまみれた世界の中で、上手に反応を返すこともできなくて蹲るしかできない自分にとって、無視ではなく、放置でもなく、空間を共有することを許してくれた彼は……自分にとって安息の地だった。
 だから、言いたい。
 言わなきゃいけない。絶対に。
 でもそれは……目覚めている彼に言うのでなければ、意味がない。
「言いたいこと、まだ、あるけど。また来ます。今度は起きてて、ください」
 そっとスカートの裾を払って立ち上がる。静かな病室でただ、彼の代わりのようにかすかな電子音を立てる維持装置に会釈して病室を出る。
 病院の外は夏の日差しに埋もれていた。いたるところからこれが最後といわんばかりに絶叫する蝉の声が聞こえてくる。
 彼等にはどれほどの重さの魂があるのだろうか。犬同様、魂なんてないのだろうか。
 でもそんなことどちらでもいいのかもしれない。
 彼らは生きている。それ以上に必要なことはない。
 そして彼も、生きている。
「また、来ます」
 病棟を見上げて囁いたあやめの声に呼応するように、鋭い太陽光が窓ガラスをきらり、と薙いだ。