早朝、まだ人の姿もまばらなころ登校し、第二美術室へ行く。
 弁当など持たされていないから、朝食だけで一日過ごすことになるけれど、教室に自分の居場所はない。教科書だってないし、そもそも誰もあやめを望んでいない。
 家に居残れば、義母も父も困る。
 幸いにもここに出入りするのは氷坂だけだったし、その氷坂はあやめに興味がない。
 だからここは……あやめにとって唯一存在を許された場所なのだ。
 今日も雨が降っている。
 この雨みたいに落ちていく時間を、蹲って待っていようと思っていた。そのあやめのまどろみを無情に打ち破ったのは、がらっと勢いよく引き開けられた扉の音だった。
 氷坂だろうか。随分早く来たな、とぼんやりとそちらを確かめて、あやめは凍った。
「こんなところに隠れてたんだ」
 トイレであやめを取り囲んだ、あのときの四人だった。
「全然教室来ないから心配したよ? 櫻井さん」
 ねっとりと湿った声で和田が言う。ぎしり、と床が不機嫌そうに鳴いた。
「休みかと思ったのに、靴はあるしさ。保健室にもいないし。どうしたんだろーってみんなで探してて」
「どこにいるのかと思ったら、まさかここ」
 じりじりと近づいてくる彼女たちの人工的な甘い香りに急き立てられ、反射的に立ち上がり、後ずさる。けれど、備品棚だらけの部屋だ。すぐに背中が突きあたってしまう。
「ってか埃臭っ。こんなとこでよく一日、いられるよねえ」
「ほんと。教室来ないなら休めばいいのに。わざわざ来てこんなとこに隠れてるってそれ、真白先生と会うため? やっぱり付き合ってんの?」
「やめてよ! 真白先生がこんなのと付き合ってるわけないじゃん! こいつが真白先生につきまとってるだけでしょ!」
 和田と御園に向かい、堀田が金切り声を上げると、宮岸も大きく頷いた。
「絶対、真白先生も嫌がってたはずだよ。でも先生、優しいからはっきり言えなかったんだ。可哀想」
「あの、氷坂先生と、会うために、ここにいた、わけでは……」
「じゃあなんのため?」
 御園に詰め寄られ、あやめは口ごもる。
 ここが居心地が良かったからだ。ここ以外、行けそうな場所がなかったからだ。
 それと。
 氷坂の絵を見たいと、思ってしまったからだ。
 入り混じる思考に言葉がまた出なくなる。押し黙ったあやめの肩を宮岸が突いた。
「なんとか言えよ! ストーカー! ほんとキモい! 消えてよ!」
「ってかさ……これ」
 エキサイトする宮岸と堀田の後ろで和田が声を上げる。視線を転じてあやめは瞠目した。
 和田の手が教室の片隅に置かれたイーゼルにかけられた布を取り払っていた。
「……星谷由香、じゃないの?」
 青一色の背景の中、タイヤ痕を生々しく頬に刻み、鮮血に塗れ地に伏す少女。
 数日前見たときよりも流れる血の赤が鮮烈に描かれている。触れずとも体温の低さがはっきりわかる頬の青黒さとのコントラストが、やはりとても……美しい。
 陶然としたあやめの眼差しに異様なものを感じたのか、御園が、ちょっと、と眉を顰める。
「もしかしてこの絵、あんたが描いているの?」
「え……」
 違う、と口が半ば動きかけた。けれどたったそれだけの言葉もすぐに出てこない。その沈黙を肯定と受け取ったのか、和田が頓狂な声を上げた。
「うそ! これ、だって死んでる、よね。グロすぎでしょ」
「だよね……。え、ヤバ! ってか……エグすぎ。タイヤの痕とかこんなくっきり……」
 言いながら気分が悪くなったのか口許を押さえる堀田の横で、宮岸があやめの腕から慌てたように手を引く。気持ち悪そうにその手を制服のスカートで拭いながら宮岸が吠えた。
「こんな絵描くとか、あんた犯罪者じゃん! なんか目、ヤバいし、口利かないし、キモい奴とは思ってたけどさあ。まさかこんな……」
「こういう、絵、描く人は、犯罪、者、なんですか?」
 不意に声が出て、あやめは自分でもぎょっとする。宮岸も目を剥いている。自分に慌てながらあやめは必死に口を動かした。
「絵、じゃないですか。それなのに、そんな」
「普通描かないでしょ。あえてこれ描くってなに。殺したいとか、そういうこと?」
「表現の、自由、あると、思います。それをそんな」
「描かれる側からしたら気持ち悪いだろ! こんなん!」
 言われてはっとした。確かにそうだ。皆が皆、自分と同じ感覚じゃない。しかもこれはリアルにいた人をモデルに描かれている。描かれることで傷つく人も当然いるはずなのだ。
 そんなことに今更気づく自分は……やはり人と違うのだろうか。
 でもそれはきっと、氷坂も同じだ。
 なぜか笑みが浮かんだ。その瞬間、ざっと空気が毛羽だった。
「なに笑ってんだよ! 気持ち悪い!」
「あんた、化け物だよ。こんなの描いてへらへらするとかさあ!」
 加減など知らない手が肩を突く。追い詰められるまま後退し、ふとあやめは自身の背中に壁が当たらないことに気付いた。
 開け放した窓に背を向け立つあやめの肩をさらに堀田が押す。とっさに窓枠を握りしめる自分にあやめは驚く。
……死にたい、とか思っていたわけじゃない。でもなにも感じない死体にはなりたいと思っていた。死体になるためには、死なないといけない。今のこれは……絶好の機会なのに。
 自分はなぜ、この窓枠から手を離さないのだろう。必死にしがみついているのだろう。なんで。
――なんであんたが生きてるのよ!
 頭の中で響く義母の声に、指先から力がふと抜けた。
「なんとか言えよ! この化け物!」
「その絵を描いたのは僕ですよ」
 満ちていた怒号と全く違う成分でできた声が不意に投げ込まれ、空気の温度が瞬時に下がった。
「真白、先生」
 堀田の手がするり、とあやめの肩から解ける。と同時に、身体から力が抜けた。ふらりと床へと崩れ落ちるあやめを入り口に佇んだ氷坂は感情の読めない目で見つめている。
「え、あの、真白先生、今、なんて……?」
 和田が状況を測りかねる顔で問い返すと、氷坂はすたすたと部屋に入ってきながら言った。
「その絵を描いたのは僕です。だから化け物は僕」
「いや、いやいやいや! 真白先生がこんなの描くわけないっしょ! こういうのは……」
「キモくて暗くて目立たない、頭の中で何考えてるかわからない、浮いてるやつが描きそう? たとえば櫻井さんみたいな」
 くすっと笑い、氷坂はキャンバスの前に歩み寄る。すうっと指先が伸び、愛おしむように絵の中の亡骸に触れた。
「そんなだから人間は嫌なんですよ。勝手な思い込みで序列を決める。でもまあ、君たちの意見にも一理ありますね。描かれた側からしたらたまったものじゃないでしょうから。その意味では僕もまた、勝手に序列を決めている愚かな人間ですね」
「ちょ……え? 本当に?」
「そんな……真白先生のこと、好き、だったのに。なんで……」
「僕を好きと思った理由はなんですか?」
 問い返され、宮岸が顔を上げる。その彼女に向かい、氷坂が歩を進めてくる。
「顔ですか? 声ですか? でもね、死んだらそんなもの、全部失われちゃうんですよ。犬も猫も虫も、それを知ってる。だから日々必死に生きている。人だけがそれをわかっていない。だから僕は人が嫌いです。特に人に順番をつけて自分を大きく見せる人、位が高い人にこびへつらって保身を図るような人が。死体になっちゃえばいいと思うほどに」
――ここで休んでてくれる?
 そこでふと過ったのはなぜか死体のモデルとして描かれていた柏崎先生の声だった。
 校内で貧血を起こしたときだった。ふらつきながら保健室へ行ったあやめに彼女は「今日、ベッドがいっぱいなの、ここに座って休んでてくれる?」と椅子を勧めてくれた。けれどそのとき、朦朧とする視界にひとりの女子が飛び込んできた。彼女は窓にもっとも近いベッドの上で、うつぶせに寝ころんでファッション誌をめくっていた。
 その人はあやめより一年先輩で、読者モデルをしていると評判の、いわゆる一軍女子だった……。
 間合いを詰められ、ひっと宮岸が飛びのく。彼女たちという壁がなくなり、窓の前、へたりこむあやめを氷坂が見据える。手を差し伸べはしない。ただ物を見るように見下ろしてから彼はふっとなぜか笑んだ。
「櫻井さん、君のこともね、僕は嫌いです。死体になりたいなんて言うくせに、君はなんだかんだ思い出に縋って生きている。その姿は人間そのもので。そんな君を喜ばせたくはないから、君の絵は描かなかったんですよ」
「先、生」
 呼びかけたあやめからすっと彼は目を逸らす。そのままあやめの脇に立つと、窓枠に両手を突き、とん、と軽く踏み切った。
 え、と御園が声を漏らす。けれど彼は止まらなかった。そのまま窓枠に足を乗せる。
 教師用のスリッパが、ぺたん、ぺたん、と床に散らばる。
 雨交じりの風がふわっと彼の髪を舞い上げるのを床に座り込んだまま、あやめは呆然と見上げた。
「人間なんて、存在する価値などない。だからね、僕は自分のことも嫌いでした。人間でい続ける自分が、一番」
「先生、ここ、四階、です。危ない、から」
「でもね、櫻井さん。ひとつだけ、人間の好きなところがあるんです」
 制止するあやめを無視し、彼は言う。雨交じりの風が強い。座り込んだままのあやめの頬を彼の白衣の裾がすうっとなぞった。
「人間だけは自分の意思で命を使えるってところ。犬にはなかった21グラムというのは、もしかしたらその手段を知っているか知らないかの違いなのかもしれませんね」
 だからね、と言った氷坂が淡く、笑った。
「死体なんてろくなものじゃないってところ、見せてあげます。君に」
――人の話を聞くなら、その人のために命をかけられるくらいじゃないと聞くべきじゃないって。
 鼓膜の奥で囁く氷坂の声にはっとした。とっさに手を伸ばし白衣の裾を掴もうとする。けれどそのあやめをからかうように水滴を含んだ風が吹きつけてきた。
 一瞬、目を瞑った。そのあやめの耳に甲高い悲鳴が突き刺さる。
 目を開けた先、そこに彼の姿はなく、揺れるカーテンに彩られた窓だけがあった。
 まるで空っぽのキャンバスみたいに。