あやめが通う菊塚高校には美術室がふたつある。新校舎にひとつ、旧校舎にひとつ。
美術部は新校舎にある第一美術室で活動するから、放課後の第二美術室はほぼ無人になる。
人の気配のないここで、あやめは物言わぬ石膏像たちの間でぼんやりまどろむ。誰にも煩わされず、自身も胸像のひとつにでもなったような気持ちで、静寂に体を溶かしながら時を過ごす。それがあやめの至福の時間だ。
なのに、ある日からこの場所はあやめだけの場所ではなくなった。
からり、と軽やかな音を立てて扉が滑る音がする。重い瞼を持ち上げて戸口を確認すると、そこには今日も鬱陶しい顔があった。
「櫻井さん、今日も来てたんですか」
微笑んで美術室に入ってくる彼は、相変わらず白衣姿だ。化学教師というのはそれを着ないといけない決まりでもあるのか。うさん臭い顔をちらと向けてからあやめは再び椅子の上で膝を抱える。彼もあやめへの興味を失ったように自身の作業を始める。
彼の視線がこちらを向いていないのを確認し、あやめはそろそろと顔を戻し、彼を観察する。
氷坂真白。氷、白、と名前から受けるイメージカラーは完全にホワイトの彼は、昨年の春、あやめたちの学校に赴任してきた化学教師だ。化学なんて、呪文のような化学式といい、モル濃度とか現実社会でどれくらい意味がある? と教科書を開くたびに思わずにいられない公式の数々がひしめく教科であり、苦手としている生徒も多かったはずだ。
だが、彼が赴任したとたん、生徒の目の色が変わった。主に女子生徒の。
「ヤバい、今まで岸川ジジイの白衣姿しか見てなかったからかなあ。白衣ってのはイケメン専用なんだってことを忘れてた」
「あれはもう、神の域のイケメンっしょ! 化学式が讃美歌に聞こえてきたもん」
「教え方が下手とか思われたら真白先生が可哀想! みんな化学だけは死ぬ気でやるのよ! 他は赤点でも可!」
そう、氷坂真白は、生徒たちの熱をおかしな方向へ捻じ曲げてしまうほどのイケメンだったのだ。
確かに見目は整っていると思う。あやめは芸能人に詳しくはないけれど、そのあやめですら知っているアイドル、野坂蛍と氷坂は面差しが似ている。声も耳に馴染む柔らかいもので、話し方もゆっくり穏やかだ。声を荒らげたことなど一度もない、という話だから、性格だって温厚ないのだろう。
彼の影響力は凄まじく、定期試験において化学の平均点だけは下がることを知らぬまま、一年が経った。
そんなだから、当然学年主任始め、学校のお偉方からの覚えもよいと聞く。
そりゃあみんな彼の目に映りたいと願ってやまないだろうなあ、と納得はできる。
けれど、あやめは違う。
本来なら彼と近づきたくもないし、目に映りたいとも思っていない。
それでも美術室にいるのは、彼を監視するためだ。
彼は、美しく優しいだけの化学教師じゃない。
氷坂真白。あの人はもしかしたら、殺人犯かもしれないのだから。
美術部は新校舎にある第一美術室で活動するから、放課後の第二美術室はほぼ無人になる。
人の気配のないここで、あやめは物言わぬ石膏像たちの間でぼんやりまどろむ。誰にも煩わされず、自身も胸像のひとつにでもなったような気持ちで、静寂に体を溶かしながら時を過ごす。それがあやめの至福の時間だ。
なのに、ある日からこの場所はあやめだけの場所ではなくなった。
からり、と軽やかな音を立てて扉が滑る音がする。重い瞼を持ち上げて戸口を確認すると、そこには今日も鬱陶しい顔があった。
「櫻井さん、今日も来てたんですか」
微笑んで美術室に入ってくる彼は、相変わらず白衣姿だ。化学教師というのはそれを着ないといけない決まりでもあるのか。うさん臭い顔をちらと向けてからあやめは再び椅子の上で膝を抱える。彼もあやめへの興味を失ったように自身の作業を始める。
彼の視線がこちらを向いていないのを確認し、あやめはそろそろと顔を戻し、彼を観察する。
氷坂真白。氷、白、と名前から受けるイメージカラーは完全にホワイトの彼は、昨年の春、あやめたちの学校に赴任してきた化学教師だ。化学なんて、呪文のような化学式といい、モル濃度とか現実社会でどれくらい意味がある? と教科書を開くたびに思わずにいられない公式の数々がひしめく教科であり、苦手としている生徒も多かったはずだ。
だが、彼が赴任したとたん、生徒の目の色が変わった。主に女子生徒の。
「ヤバい、今まで岸川ジジイの白衣姿しか見てなかったからかなあ。白衣ってのはイケメン専用なんだってことを忘れてた」
「あれはもう、神の域のイケメンっしょ! 化学式が讃美歌に聞こえてきたもん」
「教え方が下手とか思われたら真白先生が可哀想! みんな化学だけは死ぬ気でやるのよ! 他は赤点でも可!」
そう、氷坂真白は、生徒たちの熱をおかしな方向へ捻じ曲げてしまうほどのイケメンだったのだ。
確かに見目は整っていると思う。あやめは芸能人に詳しくはないけれど、そのあやめですら知っているアイドル、野坂蛍と氷坂は面差しが似ている。声も耳に馴染む柔らかいもので、話し方もゆっくり穏やかだ。声を荒らげたことなど一度もない、という話だから、性格だって温厚ないのだろう。
彼の影響力は凄まじく、定期試験において化学の平均点だけは下がることを知らぬまま、一年が経った。
そんなだから、当然学年主任始め、学校のお偉方からの覚えもよいと聞く。
そりゃあみんな彼の目に映りたいと願ってやまないだろうなあ、と納得はできる。
けれど、あやめは違う。
本来なら彼と近づきたくもないし、目に映りたいとも思っていない。
それでも美術室にいるのは、彼を監視するためだ。
彼は、美しく優しいだけの化学教師じゃない。
氷坂真白。あの人はもしかしたら、殺人犯かもしれないのだから。



