「いいえ、違います。嘘は人の道に外れた行為です。平気で嘘をつくような人間が、いずれ犯罪を起こし、社会の癌となります。私はみなさんがそのような落ちぶれた人間にならないように、教育し直す必要があるんです」

「教育し直すって……」

 誰かがぼそりと呟いた。静寂の中でその声はあまりにも大きく、きっと先生の耳にも届いていただろう。だが、志摩先生はその呟きをあえて無視する。

「いいですか、みなさん。これから私の前で嘘をつけばどうなるか、想像してみてください。井上くん、あなたの二学期の数学の成績は“3”以下とします。どれだけテストで頑張って満点を取っても最高で3にしかなりません」

「は? そんなの聞いてねえぞ」

 井上くんの口調が突如荒くなる。たった一度の嘘で、五段階評価の成績で“3”以下しかもらえないと言われてしまえば、さすがの彼も怒らざるを得ないだろう。

「私の忠告を聞かなかったあなたが悪いのです。みなさん、井上くんのようにならないように気をつけてください」

 サアアアッと、教室の中で冷たい空気が流れるのを感じた。井上くんの他に、誰も志摩先生には言い返さない。いや、言い返せないほどの無言の圧力を、彼女から感じていた。

 まだまだ夏真っ盛りの八月下旬。二年二組の二学期の始まりは、“真実至上主義者”の先生により支配されることとなった。



 クラスの空気ががらりと変わった。
 特に朝のHR、帰りのHR、数学の時間は底知れぬ緊張感が教室全体を覆い尽くす。
 志摩先生の前では絶対に嘘をついてはいけない。
 暗黙のルールの中で、誰かが嘘をついて吊し上げられるのを恐れた。

 嘘が最もバレやすいのは、授業中だった。最初はみんな気を張っていたものの、少し日にちが経って気が緩んでくると、自己採点の小テストの点数をごまかしたり、テストの問題のやり直しをしていないのにあたかもやったように見せかけたりする人が現れた。友達の宿題を写して、自分でやったと主張する者もいる。原田先生の時はそれが日常だった。でも、志摩先生はそんな浅はかな生徒たちの気の緩みを許さなかった。

柳瀬(やなせ)さん、あなたは自分の誤った問題に丸をつけるような卑怯者だったんですね。大人しい性格で卑怯な自分を隠す、卑劣な人間です」

田中(たなか)くん、きみは天海(あまみ)さんの宿題ノートを写したでしょう? 二人は付き合ってるのね。でも知ってるかしら。天海さんは三組の飯田(いいだ)くんから告白されて、あなたから乗り換えようとしているわよ」

 名指しをされた人たちがサッと顔を青くした。特に田中くんと天海さんは互いの目を合わせて、絶望的な表情をしている。

未来(みく)、今の話本当か……? 飯田から告白されてそっちに乗り換えようって」

「ち、違うわよ! そんなことするわけないじゃん! ていうかなんで志摩先生がそんなこと知ってるの。私はノートを写させてあげた方なのに、これじゃ私の方が損してるじゃないっ」

 田中くんの彼女である天海未来が、しゃあしゃあと騒ぎ立てる。
 きっとクラスメイトの大半は、「乗り換えようとしていた天海さんの方が悪い」と思っているだろう。ノートを写されて吊し上げられたのは可哀想だけれど。

 だが私はみんなと違っていた。彼女の主張を聞いて、私の頭には恋人の和真の顔がよぎった。無意識のうちに、自分が彼女の立場だったらどうするかと考えてしまっていた。
 ……違う、大丈夫だよ。私は和真のことちゃんと好きだもん。
 
「ノートを写した方も、写させた方も同罪です。あなたが私に言い返せる立場ではありません」

 ぴしゃりと言い放った志摩先生に、天海さんはとうとう押し黙ってしまった。
 
「最低ッ」

 そう吐き捨てたのが、天海さん本人だったのか、田中くんだったか、はたまた別の誰かだったのか分からない。けれど私は、表情を変えぬまま教壇に佇む志摩先生に、どうしてかじっと見入ってしまっていた。

「心音、大丈夫?」

 数学の授業後に和真が私の顔を心配そうに覗き込んできた。それまで頭の中ではずっと志摩先生の残像が揺らめいていて、和真が話しかけてくるまで数学の教科書をしまうのも忘れていた。

「え? うん、ごめん」

「謝ることじゃない。ちょっとやりすぎだよな」

「そうだね。あれはやりすぎだと、思う」

 どうしてだろう。
 頭ではそう思う。いくら先生が嘘をつく人が嫌いだからと言って、あんなふうに全員の前で晒し者にして吊し上げるほどのことなんだろうかった。
 でも心のどかで、先生がやっていることを完全には否定できない自分がいた。
 正義感に揺れている和真の瞳をじっと見つめる。
 彼はそうだ。いつだって、自分や周りのみんなが正しいと思うことをしっかりと口にできるタイプだ。だからこそ私も、和真とならずっと一緒にいたい——一緒にいられると思った。

「このまま先生があんな感じだったらクラスが崩壊しかねない。そうなる前に、何か策を打たないとな」

 凛とした声でそう告げる自分の恋人のことが、異国の地にでも一人で旅立っていけるぐらい、自立した大人に見えた。