その先生がやってきたのは、高校二年生の二学期が始まった日のことだった。
「今日から原田先生の代わりに二年二組の担任を務めます、志摩歩美です。教科は数学。よろしくお願いします」
ストレートの黒髪を前髪もまとめて後ろで一つに括り、ぴっしりとしたパンツ姿のスーツを着た女性の先生だった。年齢は三十代半ばといったところだろうか。自己紹介の時、眉一つ動かさず無表情すぎてクラスメイトの全員が引いていた。
——みんなに言ってなかったんだけど、九月から産休に入るの。だからみんなの担任をするのは、一学期までになります。
担任だった原田先生からそう知らされたのは七月の半ばのことだ。
妊娠中だということはなんとなく気づいていたけれど、ゆったりとした服を着ていたので、お腹の膨らみはそこまで目立たなかった。
基本的に生徒に優しい原田先生だったので、クラスのみんなは原田先生のことが好きだった。一学期の終業式の日にみんなでメッセージカードを書いて先生に贈ったのも記憶に新しい。「先生、寂しいです!」と一人の男子が起立して大声で叫ぶと、原田先生は「ごめんなさい。私には心に決めた人がいるの」と茶番劇に乗った。どっと湧き上がる爆笑の渦。元気な赤ちゃんを産んでください、と委員長の鈴木さんが先生を送り出した。
そんな人気者の原田先生の代わりにやってくる先生に、みんな朝から興味津々だったことはわざわざ説明するまでもないだろう。
志摩先生が軽く会釈をすると、ひっつめ髪の先っぽがぴょんと翻った。
肌は雪のように白く、しばらく太陽の光を浴びてないんじゃないのかと心配になる。
代理の先生が女性だっていう保証もなかったのに、男子たちは「美人な先生だといいなー!」と朝から馬鹿な会話を繰り広げていたが。が、やってきた志摩先生は能面のように無表情だ。失礼だがとりわけ美人というわけでもない。どちらかというと中性的な顔立ちで、宝塚だったら絶対に男役をさせられるだろうなと思った。落胆する男子たちの背中を眺めながら、私としては分かりやすい授業をしてくれたらそれでいい、と思っていたのだけれど。
一時間目、ちょうど志摩先生が担当する数学の授業が始まった。
「授業に入る前に、みなさんにお伝えしたいことがあります」
機械的な声色で、教卓に両手をついた彼女は左から右へ、生徒全員の顔をじっくりと眺めた。
「私は嘘をつく人間が吐くほど嫌いです。なので、私の前で嘘をつくことは絶対に許しません」
その断固とした表情に、私は背筋がさっと凍りつくような心地がした。
慌てて斜め前に座る恋人——脇田和真の方を一瞥する。
彼の肩もちょっとだけ震えたように見えた。
「話は以上です。では授業を始めます」
チョークを握り、黒板に「三角関数」とタイトルを書く。カッカッカッ、とチョークが黒板を滑る音が嫌に大きく聞こえた。
原田先生も数学を教えてくれていた。原田先生の授業の時には、優しい先生だからということもあり、なんとなく教室の空気は緩かった。けれど今、志摩先生が教壇に立っている時間は、緊張の糸が張り詰めているような気がする。
志摩先生が一通り今日の単元について説明をしていく。説明自体はほどほどに分かりやすかった。なんなら、原田先生より分かりやすいかも、と思ったのは秘密だ。先生が、「教科書の練習問題を解いてください」と淡々と告げる。一斉にみんなの頭が下がり、ノートにカリカリとシャーペンを走らせる音が聞こえる。私も、悩みながら問題を解いていった。問題は結構難しくて、答えを出すのにかなり時間がかかってしまった。
「では時間です。問一が分からなかった人は手を挙げてください」
「分かった人」ではなく、「分からなかった人」。
その不自然な問いかけに疑問を抱いたのは私だけではないだろう。
こういう時、大抵の先生は「分かった人〜?」と問題が解けそうな生徒を当てるからだ。
そこかしこで、バラバラと手が挙がる。だが、私が思っていたより手を挙げた人は少ないように感じられた。幸い私は問題を解いていたので手は挙げずに済んだ。
「本当に、分からなかった人はこれだけですか?」
ピリッとした志摩先生の声が響く。
「……」
誰も何も言わない。この時、事の重大さに気づいている人はほとんどいなかったから、まあ無理もない。
「では井上くん、答えをどうぞ」
当てられた井上くんの顔がはっと上がる。彼は「分からなかった人」という先生の問いに手を挙げていなかったが、あの様子だと彼は問題を解けていないだろう。井上くんはこのクラスで成績が下の方だということを、みんな知っていた。志摩先生がそのことを把握しているのかは分からないけれど、このタイミングで彼を当てたのには何か意味があるような気がした。
「えっと……すみません、分かりません」
たいした問題だとは考えていなかったんだろう。井上くんはいつも原田先生に謝るのと同じテンションでちょこんと頭を下げるだけだった。
しかし、彼の答えを聞いた志摩先生のまなざしがすっと鋭いものに変わる。
「井上くん、あなたはなぜ嘘をついたのですか?」
「え?」
これ以上何を言われるのか、という間抜けな顔で志摩先生を見つめる井上くん。
「最初に言ったはずです。私は嘘をつく人間が吐くほど嫌いです、と。わざわざ私がそれをみなさんに伝えた意味を考えなかったんでしょうか?」
「いや、確かにそう言われたけど、吐くほど嫌いって、そこまで言うことないんじゃないかって思ってました」
天然なのか怖いもの知らずなのか、問題が解けなかった割に強気で言い返す井上くんを見て、私はひやひやとさせられた。
「今日から原田先生の代わりに二年二組の担任を務めます、志摩歩美です。教科は数学。よろしくお願いします」
ストレートの黒髪を前髪もまとめて後ろで一つに括り、ぴっしりとしたパンツ姿のスーツを着た女性の先生だった。年齢は三十代半ばといったところだろうか。自己紹介の時、眉一つ動かさず無表情すぎてクラスメイトの全員が引いていた。
——みんなに言ってなかったんだけど、九月から産休に入るの。だからみんなの担任をするのは、一学期までになります。
担任だった原田先生からそう知らされたのは七月の半ばのことだ。
妊娠中だということはなんとなく気づいていたけれど、ゆったりとした服を着ていたので、お腹の膨らみはそこまで目立たなかった。
基本的に生徒に優しい原田先生だったので、クラスのみんなは原田先生のことが好きだった。一学期の終業式の日にみんなでメッセージカードを書いて先生に贈ったのも記憶に新しい。「先生、寂しいです!」と一人の男子が起立して大声で叫ぶと、原田先生は「ごめんなさい。私には心に決めた人がいるの」と茶番劇に乗った。どっと湧き上がる爆笑の渦。元気な赤ちゃんを産んでください、と委員長の鈴木さんが先生を送り出した。
そんな人気者の原田先生の代わりにやってくる先生に、みんな朝から興味津々だったことはわざわざ説明するまでもないだろう。
志摩先生が軽く会釈をすると、ひっつめ髪の先っぽがぴょんと翻った。
肌は雪のように白く、しばらく太陽の光を浴びてないんじゃないのかと心配になる。
代理の先生が女性だっていう保証もなかったのに、男子たちは「美人な先生だといいなー!」と朝から馬鹿な会話を繰り広げていたが。が、やってきた志摩先生は能面のように無表情だ。失礼だがとりわけ美人というわけでもない。どちらかというと中性的な顔立ちで、宝塚だったら絶対に男役をさせられるだろうなと思った。落胆する男子たちの背中を眺めながら、私としては分かりやすい授業をしてくれたらそれでいい、と思っていたのだけれど。
一時間目、ちょうど志摩先生が担当する数学の授業が始まった。
「授業に入る前に、みなさんにお伝えしたいことがあります」
機械的な声色で、教卓に両手をついた彼女は左から右へ、生徒全員の顔をじっくりと眺めた。
「私は嘘をつく人間が吐くほど嫌いです。なので、私の前で嘘をつくことは絶対に許しません」
その断固とした表情に、私は背筋がさっと凍りつくような心地がした。
慌てて斜め前に座る恋人——脇田和真の方を一瞥する。
彼の肩もちょっとだけ震えたように見えた。
「話は以上です。では授業を始めます」
チョークを握り、黒板に「三角関数」とタイトルを書く。カッカッカッ、とチョークが黒板を滑る音が嫌に大きく聞こえた。
原田先生も数学を教えてくれていた。原田先生の授業の時には、優しい先生だからということもあり、なんとなく教室の空気は緩かった。けれど今、志摩先生が教壇に立っている時間は、緊張の糸が張り詰めているような気がする。
志摩先生が一通り今日の単元について説明をしていく。説明自体はほどほどに分かりやすかった。なんなら、原田先生より分かりやすいかも、と思ったのは秘密だ。先生が、「教科書の練習問題を解いてください」と淡々と告げる。一斉にみんなの頭が下がり、ノートにカリカリとシャーペンを走らせる音が聞こえる。私も、悩みながら問題を解いていった。問題は結構難しくて、答えを出すのにかなり時間がかかってしまった。
「では時間です。問一が分からなかった人は手を挙げてください」
「分かった人」ではなく、「分からなかった人」。
その不自然な問いかけに疑問を抱いたのは私だけではないだろう。
こういう時、大抵の先生は「分かった人〜?」と問題が解けそうな生徒を当てるからだ。
そこかしこで、バラバラと手が挙がる。だが、私が思っていたより手を挙げた人は少ないように感じられた。幸い私は問題を解いていたので手は挙げずに済んだ。
「本当に、分からなかった人はこれだけですか?」
ピリッとした志摩先生の声が響く。
「……」
誰も何も言わない。この時、事の重大さに気づいている人はほとんどいなかったから、まあ無理もない。
「では井上くん、答えをどうぞ」
当てられた井上くんの顔がはっと上がる。彼は「分からなかった人」という先生の問いに手を挙げていなかったが、あの様子だと彼は問題を解けていないだろう。井上くんはこのクラスで成績が下の方だということを、みんな知っていた。志摩先生がそのことを把握しているのかは分からないけれど、このタイミングで彼を当てたのには何か意味があるような気がした。
「えっと……すみません、分かりません」
たいした問題だとは考えていなかったんだろう。井上くんはいつも原田先生に謝るのと同じテンションでちょこんと頭を下げるだけだった。
しかし、彼の答えを聞いた志摩先生のまなざしがすっと鋭いものに変わる。
「井上くん、あなたはなぜ嘘をついたのですか?」
「え?」
これ以上何を言われるのか、という間抜けな顔で志摩先生を見つめる井上くん。
「最初に言ったはずです。私は嘘をつく人間が吐くほど嫌いです、と。わざわざ私がそれをみなさんに伝えた意味を考えなかったんでしょうか?」
「いや、確かにそう言われたけど、吐くほど嫌いって、そこまで言うことないんじゃないかって思ってました」
天然なのか怖いもの知らずなのか、問題が解けなかった割に強気で言い返す井上くんを見て、私はひやひやとさせられた。



