「高校生になって、こんな生活とは高校で絶対おさらばするんだって決意していた。高校を出たら大学には行かずに働こう——そんなふうに考えてたわ。母から自立して、あの家を出よう。そうすれば晴れて母と縁を切ることができる。だから、あと三年間の辛抱だと思って必死に耐えたわ。そんな中、私は恋をしたの。人生で初めての恋。三年生の頃担任をしていた三十代の男性教師だった。彼は物理教師。実験室で二人で密会を重ねて、気持ちが通じ合ってることを確認して舞い上がっていたわ。ある時彼がこう言ったの。『卒業したら結婚してほしい』と。『君は無理に就職しなくても僕が養ってあげる』とも。その言葉に、完全に私の脳は溶かされた。先生と結婚できるなら、それでいい。別に働くことが人生の目標でもなかったから。彼に言われるがまま、卒業して先生と一緒になった。高卒で専業主婦になった私は、しばらく先生と幸せな結婚生活を送ったわ」

 先生と生徒の禁断の恋。
 今の志摩先生からは想像のつかないような展開に、私はどきりとさせられた。
 
「だけど、幸せな生活は長くは続かなかった。最初は愛されていると思っていたんだけど、だんだんと彼は、私を家に縛り付けるようになった。俗に言うDVね。彼は私に月三千円ほどのお小遣いしかくれず、自分がいなければろくに外出もできないようにしていたの。当時まだ十代で、友達ともまだまだ遊びたい盛りだった私は、お小遣いを増やしてほしいとねだったわ。そしたら彼は……私を殴った。そのあとはお決まりの流れよ。『ごめんね、僕はきみのことを愛してるんだ』と泣いて謝る。それに絆されて、私だって彼のことを好きなんだと錯覚していた。暴力を振るわれてるのに馬鹿だって思うでしょ。そんなことが数年続いて、二十代になり、二十代半ばに差し掛かった頃——彼は私を棄てた」

「え……?」

 予想外の展開に理解が追いつかない。憎しみの滲む表情で、先生は続けた。

「正確には、男友達に私を売り飛ばした。『昔馴染みの友達に会いにいくんだ。一緒に行こう』と私を誘い、彼の友人宅で私を泥酔させて、そのまま彼だけがいなくなった。残された私がどうなったか——高校生のあなたたちに想像しろというのは酷な話ね。とにかく酷い目に遭わされたの。彼の男友達の一人が言ってたわ。私の愛した先生は、十代の女の子しか愛せない性質なんだって。先生にとって、二十代半ばの私はとっくに用済みだったの。だから棄てた」

「そんな……ひどすぎる」

 想像するだけで吐き気が込み上げる。見れば、和真も悲痛な表情を浮かべてわなわなと震えていた。

「ごめんなさい。二人には刺激が強すぎたかしら。とにかく愛していた人に騙されて、裏切られて、棄てられて。もちろんそのあと離婚したわ。必死にお金を貯めて大学にも入り直して、教員になった。私みたいな被害者が生まれないように、生徒たちには平気で嘘をつく人間になってほしくなかったの」

 それが先生の全てだった。
 私は先生のことを勘違いしていたのかもしれない。
 先生は確かに誰かが嘘をつくことを徹底的に嫌い、嘘をついた人に制裁を加えてきた。まるで恐怖政治のようなその所業に、クラスのみんな、嫌気が差していたのは事実だ。でも、先生の抱えるトラウマの大きさを知ってしまった私は、今まで先生に感じていた恐怖心がすーっと消えていくのが分かった。

 先生も同じだった。
 私は先生の心の深淵に触れて、もっと先生と分かり合いたいという気持ちさえ芽生えた。

 隣で呆然と立ち尽くしている和真の方を見やる。彼は複雑な表情で俯いていた。

「和真」

 彼が私の方へ顔を上げる。目の淵に水滴が溜まっているのが見えて、ズキンと胸が鳴った。

「和真、私と、別れてください」

 たった一言、それだけを彼に告げる。彼は、抵抗することなくゆっくりと深く、だけど悔しそうに頷いた。
 そんな私たちの様子を見て、用済みだと悟ったのか、志摩先生が教室から出て行った。私も荷物を持って、先生の後に続こうとした。

「……あのさ」

 背中に和真の声が降りかかる。本心ではなかったとはいえ、好きになりたいと願った元恋人の声を、私は無視することができなかった。

「心音はずっと、溺れそうだったんだな。俺が心音に告白した日から今まで、あの雪に呑み込まれそうだって怖がってた心音のこと、結局俺はすくってあげられなかった。本当に情けないな」

「和真……」

「俺は本気で心音のことを好きだった。だから今……すげえ悔しい。でも先生の言う通り、心音が自分に嘘をつき続けて、不幸せになるのは嫌なんだ。だから受け入れる。俺は心音に、心から幸せになってほしいと思う」

 あまりにも他人想いな彼の言葉に、身体が震えた。振返った先で一筋の涙を流す彼に向かって、深く深く頭を下げる。

「和真、本当にごめんなさい。今まで私を好きでいてくれてありがとう。私も、和真が私以上に好きになれる相手といつか出会って、幸せになることを願ってる」

「それは、当分先の未来になりそうだ」

 泣き笑いを浮かべる彼の顔を脳裏に焼き付ける。
 こんなにも優しい彼を傷つけてしまった自分が恨めしい。でもだからこそ、これからは自分の気持ちに嘘をつくことはないと心に誓うのだった。