学校を休んだ日の翌日、私は重たい足取りで教室の扉を開けた。

「心音、おはよう。昨日は大丈夫だったか?」

 真っ先に和真が声をかけてくれる。「う、うん。もう大丈夫」と頷いて自分の席についた。
 昨日、志摩先生が家に来て和真の名前を出してきたのを思い出す。違う、あれは偶然だ。先生は私たちのこと、いや私のことなんて何も知らない——そう言い聞かせることでしか、自分を保っていられそうになかった。
 和真は「大丈夫」という私の言葉を聞いてもあまり腑に落ちなかったのか、「無理すんなよ」と気遣ってくれる。優しい彼氏の存在に、胸がずきんと疼く。
 あれ、私、どうして。
 基本的に優しくて、彼女想いの和真の存在に、何度も救われている。今だって彼の言葉の端々から滲み出る気遣いに感謝しているはずなのに。
 優しくされればされるほど、私の心臓を覆っているガラスの壁にひびが入っていくような心地がした。

「みなさんおはようございます。席についてください。HRを始めます」

 志摩先生が教室にやって来ると、それまで友達同士で団欒していたみんながさっと自分の席に戻った。いつもそうだ。私は緊張しながら先生の顔を見上げた。先生は私と目を合わせない。淡々と出欠確認をしていく。昨日の欠席の件で、みんなの前で咎められる覚悟はできている。背中を冷や汗が伝う。けれど結局先生は私の方を見向きもしなかった。

「それではみなさん、今日も清く正しい一日を送ってください」

 清く正しい一日を。
 毎日口癖のようにそう唱えてHRを終える志摩先生に支配されてから、何日経っただろうか。二学期が始まって二ヶ月。教室の窓の外に見える木々の葉はすっかり秋色に染まっている。
 昨日のズル休みの件で、私は宙ぶらりんにされたまま今日という日を送ることになった。これまで、私と同じように体調不良だと嘘をついて休んだ人たちはもれなく学校に復帰した日の朝のHRで吊し上げられていたというのに。一体どういう心境の変化だろうか。
 
——そうやって自分に嘘をつき続けて、一番苦しいのはあなたですよ。

 自宅で先生の口から出てきた警告が頭の中で反芻される。授業中、何度も何度も。苦しいのは私。違う。私は嘘なんかついていない。私は嘘つきじゃない。小学生の頃に嘘をつかれた経験から嘘が大嫌いになった。だから正直であろうと思っていた。自分にも、他人にも。そう思っていたのに。

 六時間目、数学の時間がやってきた。先生となるべく目を合わせないように黒板を凝視する。問題を解けと言われればノートにペンを走らせる。教科書と黒板と。シャーペンを握りしめる手に自然と力が入り、ぽきりとシャー芯が折れた。
 残り時間、五分。額から自然と汗が流れ落ちる。ノートにポタポタと雫が落ちて、ブレザーの袖口で必死に拭う。ノートがぐしゃりとよれて、そのページごと破り取った。ビリビリ、ビリビリ。授業中には聞こえないはずの音に、周囲の生徒がちらりとこちらを見ている。その中の一人、和真と目が合った。彼の目は驚きで見開かれる。熱い。頭が熱い。息が苦しい。先生が私の名前を呼んだ。はい。かろうじて返事をして答えを言う。正解です。先生が私の答えをそのまま黒板に記す。ノートに赤丸をつけようとした手が震えた。
 正解です。
 先生に正解と言ってもらえたことにようやく気がついてすっと汗が引いていく。
 私、今先生に肯定してもらえた。
 違うと分かっている。先生はただ私の答えに対して正解と言っただけ。私の人生そのものを肯定してくれたわけじゃない。それなのに、不可解な息苦しさの中で、志摩先生の一言は私という存在に丸をつけてくれているようだった。
 六時間目の授業が終わる。そのまま流れで志摩先生が帰りのHRを始めた。また、昨日の欠席の件に関して何も言われなかった。先生はもう私には興味がないのだろうか。
 私は、もっと先生に見てほしいと思っているのに。

「……ね、心音、大丈夫か!?」

 肩を揺さぶられる感覚に、はっと我を取り戻す。
 私の席の前に、肩からエナメル鞄をかけた和真が立っていた。周囲を見回すと、他には誰もいない。みんなもう部活に行ってしまったようだ。

「え、私いつの間に……」

 志摩先生が帰りの挨拶をしたところまでは覚えている。けれどその後、自分が帰宅の準備をした記憶がない。どうやらそのまま机に突っ伏して眠ってしまったようだ。

「お前、ずっと寝てたぞ? 何かあったのか。やっぱりまだ体調悪いのか?」

 和真が泣きそうな声で問う。
 体調が悪い。確かにそうだ。六時間目の最中に動悸がして身体中に熱がこもるのを感じた。もしかしたら本当に発熱しているかもしれない。けれどそれ以上に、自分の心に訪れた変化に、身体がついていけていないようだった。

「体調はたぶん、一時的なものだから大丈夫。それより和真、部活は?」

「友達に言って遅刻するって伝えてある。心音のことが心配で」

「それは……心配かけてごめん。もう大丈夫だから」

 そう強がってみせたものの、本調子ではなかった。けれど、今一番自分の醜態を晒したくない人は間違いなく目の前にいる和真だ。

「大丈夫大丈夫って言ってるけどさ、心音、本当は大丈夫なんかじゃないだろ。俺には分かるんだ。今日ずっと様子がおかしいぞ。話しかけても上の空で、志摩先生のことずっと監視してるみたいに睨みつけてて。さっき寝言でも志摩先生の名前呼んでたし。……なあ、先生と何かあったのか?」

 和真の言葉が核心に触れる。
 私が思っている以上に、彼は私のことを見ていてくれていた。その事実に、胸に込み上げるものがあった。と同時に、私の中で芽生えたのは言いようのないほどの恐ろしさだった。
 私の嘘が見破られるかもしれない。
 真実にグッと踏み込もうとする彼の目に、畏怖を覚える。
 違う、だから違うよ。私は嘘なんかついてないんだって。
 言い訳をする自分と、嘘を認めて恐怖する自分が混在していた。
 あ、と声にならない吐息が漏れる。和真が私から本音を引き出そうと、もう一度口を開こうとした。しかし何を思ったのか、やっぱり口を噤んだかと思うと、私の方に顔を近づける。え、何? と考える暇もなかった。私の目は自然と閉じられて、彼の息遣いは間近に聞こえる。教室には誰もいない。誰もいない。誰も——。
 彼の唇が私のそれに触れようとしたその瞬間、教室の扉がガラガラと開かれる音がした。私と和真は肩を震わせて同時に入口の方を振り返った。