あれから、数十年の年月が流れたが、(さく)は相変わらず千年桜の下にいて、春水(しゅんすい)は枝の上で寝そべっている。ふたりの間に会話はない。ないが、眼が合えば笑みを返す程度の情が湧いているのは、確か。

 あの時、(さく)が紡いだ言葉とともに過去を"見て"しまった春水(しゅんすい)は、人間の業の深さというモノを思い知る。

 "業"とは。

 身、口、意の三つの行為のこと。三業とも呼ばれ、その行為が未来の苦楽の結果を導くと言われている。善悪の行為は因果の道理によって、後に必ずその結果を生む。
 (さく)はまさにその"業"に縛られている。

 父と子。兄と弟。血縁関係のある者たちに愛され、自分の意思がそこにあろうがなかろうが情を交わした時点で、その身は穢れてしまっている。

 兄がこの木の下に埋めた(さく)の身体は、すでに朽ちて千年桜の養分となってしまっていた。これではもはや、ここから離れることは叶わないだろう。

 たとえ約束を交わした兄が、それを果たすためにここにやって来たとしても。
 (さく)は、共に逝くことは叶わないのだ。

 数十年という付き合いの中で、言葉を必要としない(さく)との関係は楽なものだった。たまにこうして見下ろして覗き見れば、いつもの如く色とりどりの小鳥たちと戯れている。

 まるでこの千年桜の止まり木みたいに。

 寝そべっていた身体を起こし、軽い身のこなしで、ひらりと木の枝から舞い降りる。(さく)春水(しゅんすい)を見上げ、小さく笑みを浮かべる。

(さく)、春は好きか?」

 春夏秋冬、すべての季節をここで待つ(さく)にとって、唯一自分に話しかけてくれる、春を告げる神である春水(しゅんすい)

 春は、あのひとの季節。
 (さく)春水(しゅんすい)の右手を取って、手の平に文字を描く。

『す』『き』『で』『す』

 春水(しゅんすい)は自分で訊いておいて果てしなく後悔する。

(俺は馬鹿なのか?そんなの、わかっていただろう、)

 いつまでも離れない、添えられた手と指先が、春水(しゅんすい)の胸の辺りをじんわりと侵蝕した。その感情は、神である春水(しゅんすい)には覚えのない感情であり、なんだか胸が痛むのだ。

「······そうか、なら良かった」

 春水(しゅんすい)は誤魔化すように口元を不自然に緩め、そのまま(さく)の横に腰を下ろした。座っても立っても、(さく)の方が少しだけ背が高い。狐の面があって良かったと、この時ばかりはそう思うのだった。

 のんびりと、ふたり。春の心地の良い陽気の下。ひらひらと舞い落ちてくる、薄紅色の花びらを眺めていた。小鳥たちも羽を休める。

「あれから数十年経つが、お前はなにも変わらないな。普通なら、自分を殺した者を恨んで呪って、悪い霊になるだろうに」

 ついでに"待ちびと"をこちら側に引きずり込むという選択だってあっただろう。
 春の頃にその者が姿を現したことはない。それどころか、一度もここに来ることはなかった。

 きっと、その者にとっては一時的な感情だったのだ。この地の領主の息子だ。良い伴侶を得、新しい家族を持ち、長い年月を経れば、自ずと過去の過ちなど薄れていってしまうだろう。

 約束は、果たされない。
 (さく)を縛る、モノ。

「お前は、この鳥たちにとっての止まり木で、俺にとって······」

 途中まで言って、春水(しゅんすい)は口を噤む。
 一体、何を言うつもりだった?

 (さく)は不思議そうにこちらを見つめている。ぼんやりとしたその瞳には、春水《しゅんすい》が映っていた。

「――――なんでもない!」

 勢いよく立ち上がると、小鳥たちが驚いてばさばさと飛び立っていった。
 ばつが悪そうに、春水(しゅんすい)はそのまま枝の上に飛び乗った。ひとり残された(さく)は、しばらく首を傾げていたが、ゆっくりと澄み渡った青空へと視線を移す。

(······私にとって、春水(しゅんすい)様はかけがえのない方。でも、春水(しゅんすい)様にとって、私は、)

 なんでもない、らしい。

 しゅん、と(さく)は見上げていた視線を落とす。
 春水(しゅんすい)が神サマであることを知ったのは、あの話を聞いてもらってすぐだった。あんな話を笑いもせずに真剣に聞いてくれて、その次の春からは挨拶を交わすようになった。

 そのまた次の春には不器用ながらも言葉をかけてくれ、その次もまたその次も、気にかけてくれるようになった。

 いつしか、笑いかけてくれるようになった。

(声が出ないことを、今まで不便だと思ったことはないのだけれど······こういう時に、不便ですね、)

 引き留めることすらできない。
 手を伸ばしても届かない。
 遠い存在なのだ。
 だって、あの方は神サマなのだから。

 二の兄様のことを、忘れたことはない。とても優しいひとで、なんでも教えてくれた。こんな自分を、いつも助けてくれて、望むこと、したいことを、一緒に考えようと言ってくれたひと。

 光をくれたひと。
 愛してくれた、ひと。

 でも。

 もうきっと、逢えないのだ。
 だって、これは、結ばれぬ縁。それくらいは、知っていた。

 おかあさま(・・・・・)が言った通り、恩知らずの馬鹿な自分。身の程を知らない、愚か者。

 これは、当然の報いなのだ。

(ずっと······ここで、あなたを待っています)

 春。春は、あたたかい。やさしい。
 だから、好き。
 陽だまりの中、ぼんやり、と。

 いつもの枝の上に寝そべっている春水(しゅんすい)に、視線だけをちらりと向ける。たまに視線が合うことがある。あの方も、自分を見てくれているのかな?
 細い指先を絡めながら、再び視線を戻す。なんだか、恥ずかしい。

 小鳥たちが戻って来て、肩と頭に止まった。身体がないのに、どうしてこの子たちは自分に触れられるのだろう。不思議だ。

 春も夏も秋も冬も。

(みんな好き······でも、一番好きなのは、)

 きっと。

 言葉にできたら、素敵なのに。
 この声は、もう······。

 沈んだり上がったりしながら、(さく)はひとりでぐるぐると感情を巡らせる。あのひとを想うと、心が揺らぐ。あの方を想うと、心がすぅっと澄み渡る。この違いはなんなのだろう?

 よく、わからない。
 好き、はよくわからない。
 でも、想えば心があたたかくなる。

 約束は、自分を今も縛り続けているけれど、構わない。だって、ここにいる理由にできるから。でもその約束が果たされたら、自分はどこに逝くのだろう。あのひとが迎えに来たら、約束だからついて行くの?

 よく、わからない。

(私が、したい、こと。望む、こと、は······、)

 あの日、兄がくれた言葉を思い出す。
 たくさんの知らないことを教えてもらった。言葉も、文字も、感情も。
 でも、どうしてもその答えは見つからず、今もこうやって、自分を悩ませている。

 いつか、わかるだろうか。

 (さく)は、ひとり、静かに瞼を閉じた。