「お前がここに来たのは、ひとならざる者に恋をしたからだろう?」
幼い声が問う。澱んで聞き心地が悪い、少女の声だった。その声は、一華の目の前にある祠の中から聞こえてくる。どこにでもありそうな、石の祠。台座の石は風化し、辺りには草が生い茂っているというのに、その祠には苔どころか、汚れひとつ付いていない。まるでいま完成したような真新しさがあった。
だが、そこから漏れ出す神力については尋常ではない。あまりの濃さに、むせかえりそうだ。病弱な人間がこの気に触れたら、卒倒してしまうかもしれない。
「ひとと神。許されぬその恋を叶えたいのであらば……」
あたりに漂う神力が、徐々に形になってゆく。自分よりも頭ひとつ背の低い人間の形だ。顔のらしきところに、三日月型の穴が現れる。それが口だと気づいたときには、それが一華の体に纏わりついていた。
「禁断の果実を口にし、お前がひとならざる者になればよい」
「……」
「いくら呪い師とは言え、所詮は人間。神への恋なんて許されない」
ならどうするか。幼い声が続ける。
「その逆を突いて、ひとならざる者になってしまえばよい! 神と同等の力を得ればよい」
幼い声は、一華を誑かそうとしている。こんな安い口八丁に、呪い師は絶対に乗らない。
だが、いまの一華は違う。
この、ひととしての汚れ無き身を捨て、彼を愛して生きられるのならば、地位も名誉も、なにもいらない。
もう止められない。
どれだけ家族や村の人々との思い出を並べても、つい先ほど出会った男の前では、すべてが無に帰すのだ。
——あたしは彼を愛している。
もう狂おしいほどに。あの一瞬の出来事が、一華の心を縛るのだ。彼がいまもどこかで蔑まれ、悲しんでいるところを想像すると、本当に死にたくなる。そして彼が、他の信者からの信仰によって救われることもまた、気がおかしくなるほどいやなのだ。
——彼を愛するのはあたしだけ。
皆から愛されぬ分、自身が彼を愛するのだ。それだけで、それだけでよい。
一華はゆっくりと、祠の戸に手をかける。ゆっくりとその戸を開く。
中にはたったひとつ、熟れた桃が収められていた。
♢
神域とは、いわば異界だ。神が、自身の居住区域とするために作りだした、ひとは決して立ち入れない禁則地だった。なぜ父が、そんなところに入れたのか、そんなことはもう、どうでもいいことだ。
どうせもう、あのひとに会うことはないのだから。
神域内の雨熊大王の屋敷は、一華の住んでいた地域に多い様式のものではなく、寝殿造り風のものだった。
大きな敷地内の中央に主人の住む寝殿が置かれ、東西北の三方に家族の住む対の屋が置かれている。寝殿と対の屋の間は渡殿や透渡殿という渡り廊下で結ばれており、そこから見える広い庭には大きな池が鎮座し、空に浮かぶ月の虚像を映している。東西の対の屋の南には釣殿と泉殿が置かれている。典型的な寝殿造りの屋敷である。
一華はその中の、寝殿に通された。客人は、そこに通されるのが基本だからだ。
——客人じゃなく、生贄だろうに。
と、一華は思う。雨熊大王の、ひとの好さがうかがえる。
人々からは邪神だと罵られているのに、である。
——彼はきっと、優しいひと。
孤独であっても、誰かに手を指し伸ばさずにはいられないひと。
「……っと」
雨熊大王は一華の向かいに置かれた座臥具に腰かけ、頬杖をつく。彼の目元は垂れ気味で、あまり恐怖は感じないが、まとう神力は重く濃い。少し息を吸うだけでも息苦しいぐらいだ。こんなことは、怨霊の封印を解いた時以来だ。
「まあまあ、そんなに緊張するなって。ゆーっくり、だらけてくれてもいいからさ」
「……は、はあ」
流石にだらけるわけにはいかないので、一華は姿勢を崩し、楽な座り方に直した。
「そうそう、それでいいの。俺は知ってのとおり、怠惰を司る神だからさ、堅苦しいのは苦手なわけよ」
怠惰とは、すべきことを怠けていることだ。なるほど確かに彼は怠惰を司る神である。
その姿を見た一華は、思わず笑みをこぼした。頬が紅潮していることが、自分でもわかる。
「……なんだ?」雨熊大王は訝しげに問う。「なにか面白いことでも?」
「いえ……ただ、嬉しいの」
「嬉しい?」
眉間にしわを寄せ、雨熊大王は一華のかんばせを見る。それが妙に気恥しくて、一華は頬に両手を添える。
「あたしがこれまで知らなかったあなたを知れたから、それがたまらなくうれしいの……ふふっ、いまなら死んでもいいかもしれない」
「……死んでもいい、か」雨熊大王は、ますます怪訝そうな顔をしているが、一華にはまるで理解できなかった。むしろ、愛しいという感情が増すばかりだ。彼の声をもっと聞きたい、ひととなりを知りたい。そんな好奇心のような気持ちが、死への恐怖に勝っていた。
「それが本心だとすれば、正気の沙汰じゃないな。まだ、俺に殺されたくなくてついた嘘って方がしっくりくる」
はっきりと言い切った。
「……〝愛〟の証明って難しいね。どうすれば信じてもらえるのやら」
「……」
黙り込む雨熊大王に、本人にも見当がついていないことが察せられた。
「……俺があんたを生贄に望んだのは、あんたが壱与の——『原罪の怨霊』の封印を解いて、彼女にとり憑かれたからだ」
壱与は生前の行いから、呪い師の間では『原罪の怨霊』とも呼ばれている。
「……」
「お前を殺せば、あんたにとり憑いてる怨霊も消滅するからよ。だからお前を選んだ」
儚い瞳を揺らしながら、雨熊大王は言った。ふたりの間に弱い風が吹き抜け、彼の柔らかな髪を揺らす。その姿がひどく儚く見えて、一華は胸に薄い氷の刃が刺さったような感覚を覚えた。
それを聞いて、彼のそばから離れたくないと思った自分は、彼のすべてが欲しいと思った自分は、傲慢なのだろうか。
「‥‥‥あたしは、あなたを愛しているの。初めて会った時からだよ。あなたは覚えてないかもしれないけれど」
「えっと」頭を掻きながら、雨熊大王は一華を見る。「もしかして俺の勘違いじゃないのか? 見覚えがあるなって思ったのは」
一華は口許を袖で隠し、上品に笑ってみせる。
「うん、むかし一度だけね」一華の心に、すっと影がかかる。「その時からずっと、あなたがほしいの。殺されるのも、そのまま飼い殺されるのも、どちらも良い」
その言葉に、雨熊大王は力無く笑う。「これが『嫉妬の愛し子』か」
「愛しいひとのためなら、なんだろうと躊躇いなく実行する。それがたとえ、自身の命を失う結果になっても。そのくせに、相手の関心が違う相手のもとへと移れば嫉妬に狂い、徹底的に排除する」
不意に立ち上がり、雨熊大王は一華のそばへ寄る。目線を合わせ、一華の頬に手を添える。ほのかに温かい手だった。触れられたところから、その熱が伝わり、胸が痺れたような心地になる。
「面白いねえ‥‥‥すぐにでも殺してやろうと思ってたが、もう少しだけ生かしておくのもいいかもな」
そう言って、そっと頬から手を離そうとする。しかし、その手を一華は掴んだ。雨熊大王は目をしばたたく。「なんだよ」
「‥‥‥離したら、逃げてしまうかもしれないよ?」
「ここは俺の神域だ。出ることなんてできやしない」
「自分で言ったじゃない。あたしは稀代の呪い師だって。それに、あたしは一度神域に入ってる」
「‥‥‥」
「だから、離れないようにそばにいてくれないと‥‥‥ね?」
一華は真剣だった。せっかくこの機会を得たのだ。ようやく得たのだ。なにがあっても奪われたくない。奪いにくるものは、何人たりとて許すつもりはない。
いつか真実がその牙と爪で、この身と魂を引き裂いたとしても。
一華は、愛おしくてたまらないといった瞳で、雨熊大王を見つめる。彼はなにを思ったのか、一華を抱きしめ、
「‥‥‥ようこそ、我が神域へ」
とつぶやき、一華を歓迎するのだった。
幼い声が問う。澱んで聞き心地が悪い、少女の声だった。その声は、一華の目の前にある祠の中から聞こえてくる。どこにでもありそうな、石の祠。台座の石は風化し、辺りには草が生い茂っているというのに、その祠には苔どころか、汚れひとつ付いていない。まるでいま完成したような真新しさがあった。
だが、そこから漏れ出す神力については尋常ではない。あまりの濃さに、むせかえりそうだ。病弱な人間がこの気に触れたら、卒倒してしまうかもしれない。
「ひとと神。許されぬその恋を叶えたいのであらば……」
あたりに漂う神力が、徐々に形になってゆく。自分よりも頭ひとつ背の低い人間の形だ。顔のらしきところに、三日月型の穴が現れる。それが口だと気づいたときには、それが一華の体に纏わりついていた。
「禁断の果実を口にし、お前がひとならざる者になればよい」
「……」
「いくら呪い師とは言え、所詮は人間。神への恋なんて許されない」
ならどうするか。幼い声が続ける。
「その逆を突いて、ひとならざる者になってしまえばよい! 神と同等の力を得ればよい」
幼い声は、一華を誑かそうとしている。こんな安い口八丁に、呪い師は絶対に乗らない。
だが、いまの一華は違う。
この、ひととしての汚れ無き身を捨て、彼を愛して生きられるのならば、地位も名誉も、なにもいらない。
もう止められない。
どれだけ家族や村の人々との思い出を並べても、つい先ほど出会った男の前では、すべてが無に帰すのだ。
——あたしは彼を愛している。
もう狂おしいほどに。あの一瞬の出来事が、一華の心を縛るのだ。彼がいまもどこかで蔑まれ、悲しんでいるところを想像すると、本当に死にたくなる。そして彼が、他の信者からの信仰によって救われることもまた、気がおかしくなるほどいやなのだ。
——彼を愛するのはあたしだけ。
皆から愛されぬ分、自身が彼を愛するのだ。それだけで、それだけでよい。
一華はゆっくりと、祠の戸に手をかける。ゆっくりとその戸を開く。
中にはたったひとつ、熟れた桃が収められていた。
♢
神域とは、いわば異界だ。神が、自身の居住区域とするために作りだした、ひとは決して立ち入れない禁則地だった。なぜ父が、そんなところに入れたのか、そんなことはもう、どうでもいいことだ。
どうせもう、あのひとに会うことはないのだから。
神域内の雨熊大王の屋敷は、一華の住んでいた地域に多い様式のものではなく、寝殿造り風のものだった。
大きな敷地内の中央に主人の住む寝殿が置かれ、東西北の三方に家族の住む対の屋が置かれている。寝殿と対の屋の間は渡殿や透渡殿という渡り廊下で結ばれており、そこから見える広い庭には大きな池が鎮座し、空に浮かぶ月の虚像を映している。東西の対の屋の南には釣殿と泉殿が置かれている。典型的な寝殿造りの屋敷である。
一華はその中の、寝殿に通された。客人は、そこに通されるのが基本だからだ。
——客人じゃなく、生贄だろうに。
と、一華は思う。雨熊大王の、ひとの好さがうかがえる。
人々からは邪神だと罵られているのに、である。
——彼はきっと、優しいひと。
孤独であっても、誰かに手を指し伸ばさずにはいられないひと。
「……っと」
雨熊大王は一華の向かいに置かれた座臥具に腰かけ、頬杖をつく。彼の目元は垂れ気味で、あまり恐怖は感じないが、まとう神力は重く濃い。少し息を吸うだけでも息苦しいぐらいだ。こんなことは、怨霊の封印を解いた時以来だ。
「まあまあ、そんなに緊張するなって。ゆーっくり、だらけてくれてもいいからさ」
「……は、はあ」
流石にだらけるわけにはいかないので、一華は姿勢を崩し、楽な座り方に直した。
「そうそう、それでいいの。俺は知ってのとおり、怠惰を司る神だからさ、堅苦しいのは苦手なわけよ」
怠惰とは、すべきことを怠けていることだ。なるほど確かに彼は怠惰を司る神である。
その姿を見た一華は、思わず笑みをこぼした。頬が紅潮していることが、自分でもわかる。
「……なんだ?」雨熊大王は訝しげに問う。「なにか面白いことでも?」
「いえ……ただ、嬉しいの」
「嬉しい?」
眉間にしわを寄せ、雨熊大王は一華のかんばせを見る。それが妙に気恥しくて、一華は頬に両手を添える。
「あたしがこれまで知らなかったあなたを知れたから、それがたまらなくうれしいの……ふふっ、いまなら死んでもいいかもしれない」
「……死んでもいい、か」雨熊大王は、ますます怪訝そうな顔をしているが、一華にはまるで理解できなかった。むしろ、愛しいという感情が増すばかりだ。彼の声をもっと聞きたい、ひととなりを知りたい。そんな好奇心のような気持ちが、死への恐怖に勝っていた。
「それが本心だとすれば、正気の沙汰じゃないな。まだ、俺に殺されたくなくてついた嘘って方がしっくりくる」
はっきりと言い切った。
「……〝愛〟の証明って難しいね。どうすれば信じてもらえるのやら」
「……」
黙り込む雨熊大王に、本人にも見当がついていないことが察せられた。
「……俺があんたを生贄に望んだのは、あんたが壱与の——『原罪の怨霊』の封印を解いて、彼女にとり憑かれたからだ」
壱与は生前の行いから、呪い師の間では『原罪の怨霊』とも呼ばれている。
「……」
「お前を殺せば、あんたにとり憑いてる怨霊も消滅するからよ。だからお前を選んだ」
儚い瞳を揺らしながら、雨熊大王は言った。ふたりの間に弱い風が吹き抜け、彼の柔らかな髪を揺らす。その姿がひどく儚く見えて、一華は胸に薄い氷の刃が刺さったような感覚を覚えた。
それを聞いて、彼のそばから離れたくないと思った自分は、彼のすべてが欲しいと思った自分は、傲慢なのだろうか。
「‥‥‥あたしは、あなたを愛しているの。初めて会った時からだよ。あなたは覚えてないかもしれないけれど」
「えっと」頭を掻きながら、雨熊大王は一華を見る。「もしかして俺の勘違いじゃないのか? 見覚えがあるなって思ったのは」
一華は口許を袖で隠し、上品に笑ってみせる。
「うん、むかし一度だけね」一華の心に、すっと影がかかる。「その時からずっと、あなたがほしいの。殺されるのも、そのまま飼い殺されるのも、どちらも良い」
その言葉に、雨熊大王は力無く笑う。「これが『嫉妬の愛し子』か」
「愛しいひとのためなら、なんだろうと躊躇いなく実行する。それがたとえ、自身の命を失う結果になっても。そのくせに、相手の関心が違う相手のもとへと移れば嫉妬に狂い、徹底的に排除する」
不意に立ち上がり、雨熊大王は一華のそばへ寄る。目線を合わせ、一華の頬に手を添える。ほのかに温かい手だった。触れられたところから、その熱が伝わり、胸が痺れたような心地になる。
「面白いねえ‥‥‥すぐにでも殺してやろうと思ってたが、もう少しだけ生かしておくのもいいかもな」
そう言って、そっと頬から手を離そうとする。しかし、その手を一華は掴んだ。雨熊大王は目をしばたたく。「なんだよ」
「‥‥‥離したら、逃げてしまうかもしれないよ?」
「ここは俺の神域だ。出ることなんてできやしない」
「自分で言ったじゃない。あたしは稀代の呪い師だって。それに、あたしは一度神域に入ってる」
「‥‥‥」
「だから、離れないようにそばにいてくれないと‥‥‥ね?」
一華は真剣だった。せっかくこの機会を得たのだ。ようやく得たのだ。なにがあっても奪われたくない。奪いにくるものは、何人たりとて許すつもりはない。
いつか真実がその牙と爪で、この身と魂を引き裂いたとしても。
一華は、愛おしくてたまらないといった瞳で、雨熊大王を見つめる。彼はなにを思ったのか、一華を抱きしめ、
「‥‥‥ようこそ、我が神域へ」
とつぶやき、一華を歓迎するのだった。