目が合ったその瞬間に、一華の心は、呪いの楔に絡めとられてしまった。
倒れ込んだ一華を見下ろす、ひとりの男。癖のある短い髪に、少し垂れた目元とそこに収められた少しくすんだ瞳。血を浴びたように真っ赤なその瞳に、息をすることも忘れて釘付けになる。
美しい、ただそう思った。
「ありゃりゃ、人間が迷い込んじゃってら」
男は軽く言い放つ。一華は黙ったまま、男を見上げ続ける。
それを不思議に思ったのか、男はしゃがみ込み、大きな手をそっと差し出す。ただ大きいわけではなく、力強さも感じる手だった。
「ここは、お前さんみたいな人間が来るところじゃねえよ」
「……」一華は黙ったまま、その手を見つめる。いま見ているこれは、夢だろうか。まるで現実味がなかった。だからこの差し出された手も、結局は取ることはできず、くうを切ることにならないだろうか? そんなことを考えてしまう。
「……だよな。怖いよな、普通」
その言葉に我に返り、咄嗟に上を向く。男が儚い瞳で、口許にうっすらとした笑みを浮かべていた。哀愁漂う表情だった。その手を引っ込めようとした時、一華は慌ててその手を取り、立ち上がった。男が、鳩に豆鉄砲を食らったような顔をしている。
「そ、そんなことない……ありがとう」
慌てて礼を言うと、男は先ほどまでの表情を崩し、儚げながらも、微笑み返した。
その刹那、大きな音が響き渡る。少なくとも、一華にはそれが聞こえていた。なんだろう、時報の鐘だろうか。——もう、そんな時間なの?
「さて、じゃあな。可愛い呪い師さん」
男の言葉を合図に、一華の身体が、薄桃色の花弁に包まれていく。うっすらと漂う甘い香りに、それが桃の花だと分かった。
「待って……!」と叫ぶも、その声虚しく、一華はそのまま眠りにつく。
——会いたい、会いたい。彼に会いたい。
一華の脳裏に焼き付いた、あの男の顔。儚い瞳で笑う、不思議な男。彼のためなら、なにであろうといとわない。
恋に落ちた哀れな呪い師は、許されない想いを募らせ、やがて禁忌の扉に手をかける。
たとえそれが、魔に身を委ねるようなことでも。
♢
一華はあの後、三日三晩眠ったままで、目が覚めた時には四日目の朝だった。
あの時の雷は、一華を呪った怨霊による術だ。怨霊の名を壱与という。まだ、この地に呪い師の國があったころ、巫女王が産んだ神の子を誘拐し、巫女王を殺した大罪人だ。雷の術は、生前に壱与が最も得意としていたものだった。
一華は、怨霊となっていた彼女の封印を解いたのだ。それゆえに呪われ、こんな場所に閉じ込められている。
「一華、起きたのか……?」
政近の声だった。「起きてます」と答えると、彼はほっと息をついた。そしてまた、額を床にこすりつける。
「よ、よかった。今回は慎子が酷いことを……今後二度とないよう、あいつにはきつく言っておく。だから、許してくれ……」
「頭を上げて」一華は言う。「あたしが異端者なのは、本当の事なんだから」
「しかし……」
「くどい」
「……」
政近はおもむろに頭を上げ、手巾で額を拭う。冷や汗でもかいたのだろう。
「そ、そうだ。私はこれから、依頼でしばらく留守にする。なにか欲しいものはないか? なんでもいいんだ」
「なんでも、ですか?」
「ああ、なんでもだ。充希は着物だ簪だと騒いでいたが……お前はなにがいいんだ」
まくしたてるように、政近は訊いてくる。娘の機嫌を取るのに必死なのだ。気持ちはわかるが、なんとも情けない。
しかし、これはまたと無い機会だ。
「……桃がいい。桃が食べたい」
一華の言葉に、政近は「桃?」と鸚鵡返しをする。「もちろん構わんが、そんなもの、いつでも用意できるぞ」
「ただの桃じゃないの、特別な桃が食べたい。そう……〝あたしの呪いが解ける〟ぐらいの」
政近が息を呑む気配がした。呪いが解ける、その言葉に反応したのだ。
そう、一華がいま呪い師として仕事ができないのは、ひとえにこの呪いのせいなのだ。それさえなくなれば、一華はまた稀代の呪い師として、この古宮家を盛り立てることができるのだ。
政近が、これに乗らない手はない。
「わかった、わかったよ。絶対に持って帰ると誓おう」
「本当?」
喜ぶふりをして、一華は声を上げる。
「ああ、もちろんだとも」
政近は声音を弾ませながら答え、その場を後にした。
ひとりになって、一華はくすりと微笑む。
——そんな桃は、普通手に入らない。
そう、例えば、神が管理する神域に入らない限りは……。
政近が依頼を受けて出発し、戻ってきたのは、それから半月後の事だった。
——なんだか、外が騒がしい。
叫び声に泣き声、しまいにはなにかが倒れる音まで。ただ事ではなさそうだ。
「……」一華は行李の中にしまっていた面布をつけ、部屋を抜け出す。穴は空いていないが、呪いをかけているため、外の様子を見ることができる。普段ならこんなことはしないが、いまは一大事だ。
声がする方へ向かうと、そこでは狼狽する政近、いまにも彼に襲いかかろうとする慎子、そして、滂沱する慎太郎がいた。一華はそれに聞き耳を立てる。
「どうして大人しくあの異端者を差し出さないのですか! そうしないと、一族郎党皆殺しだというのに!」
「し、しかし……やはり、せっかくの『愛し子』、簡単に手放すわけには……それに」
「異端者ひとりと、わたくしたちの未来のどちらが大切かなんて、わかりきったことでしょう! その『愛し子』だって、またいつか生まれるでしょう? なぜあいつにこだわるのですか!」
「そ、それは……」
慎子の金切り声が、耳に痛い。——どういう状況だろう。
「いやだ! 姉上を生贄にするなんて……!」
——え……。
生贄、そう言ったか。確かにいま、慎太郎は生贄と言った。
「母上、お願いします。やめてください、やめてください……」
まだ幼い慎太郎は、母に縋りつき、必死に姉の命乞いをしている。状況がうまく理解できていないのか、分かったうえで言っているのか。どちらにしても、この状況では愚かな選択だ。
「黙りなさい!」そんな祈りもむなしく、慎子は彼の訴えを一蹴した。
「あいつを生贄にしないと、わたくしたちはみんな死ぬのよ! 姉弟愛で、どうにかできるものではないの!」
少しづつ、話が見えてきた。
「大体、なぜ神域なんかに入ったのですか! 入れば神の怒りを買うことくらいわかっていたでしょうに!」
「し、仕方なかったんだ! 一華の呪いが解けるほどの桃なんて、神域の近くにしかないのだ……」
「それでこうなってしまっては元も子もないでしょう! そのうえ〝あの〟邪神の神域だなんて……!」
「……」なるほど、そういう事かと、一華はすべてを察した。つまり政近は、雨熊大王の神域に入り、彼の怒りを買ったのだ。それで、一華を生贄にしろと言っているのだ。一華にとってとても都合がよい状況だという事だ。
一華はゆるりと、戸の影から姿を現す。
「そういうことなら、喜んで」
その声に、その場にいた三人が一気に顔を向けた。
耳が痛いような沈黙が続いたのち、慎子は、
「ほ、ほら見なさい! 本人がこう言ってるのよ! もういいじゃない、生贄にしてしまいましょう!」
「……」
苦虫をかみつぶしたような顔をする政近は、ひと言「くそっ!」と吐き捨てる。
しかし、幼い慎太郎はそうはいかない。
「い、いやです姉上! 行かないでください……! 行ったら……死んじゃうんですよ……」
「慎太郎」一華はその場にしゃがみ込み、慎太郎と目線を合わせる。呪いで彼に触れられないことが、唯一辛い。
「あたしは、慎太郎には元気に過ごしてもらいたいの。だから、あたしのためだと思って……ね」
本当は分かっているはずなのだ。これ以外に、一族を守る方法がないことくらい。だが、彼の幼さが納得させてくれない、それだけなのだ。
「姉上、あねうえぇ……!」
何度も名を呼びながら、慎太郎はその場に泣き崩れる。横目で見た両親の顔。父は悔しそうな顔をして静かに地団太を踏み、義母は顔を醜く歪ませながら、こちらを見ていた。
♢
その山に、道という道は存在せず、木が生えていないところをうまく進むといった具合だった。森閑とした山道に、草を踏みしめる音が響き、そしてまた静かな山へと還ってゆく。
月が綺麗な夜、一華は純白の単衣を身に纏い、道なき道を上っていた。無論、生贄になるためだ。標高はそれほど高くないが、夜中で視界が悪いことも相まって、なかなか前に進めない。
——目印ぐらい置いておいてもいいのに。
そう思いつつ、一華は歩を進める。家を追い出され、山に入れられてからもう半時は経つ。いい加減疲れてきた。
——少し休憩しよう。
そう思い、その場に腰を下ろした。慣れない道だったのと、長らく家から出ていなかったので、足が痛い。
その時、前からなにかの足音が聞こえてきた。人間ではない。鹿や猪でもない。あたりに良く響く、重たい足音。その正体は、木々から漏れる月明かりで明らかとなった。
「熊……」
茶色い毛を蓄えた巨体。一見人畜無害そうに見えるその瞳は、熊のそれだった。しかし、普通の熊ではないことは、容易にわかった。
「あなた、眷属ね」
雨熊大王の眷属である熊だ。雨熊大王が熊を眷属としているのは、有名な話だ。それに、この熊はまとっている神力が異常だ。
熊は一華の前で止まると、じっとこちらを見つめてきた。——乗れってこと?
まさかのお迎え付きとは、生贄に対してまで心優しいのか。
「じゃあ、遠慮なく」と言って、一華はその背に横乗りした。すると、ゆっくりと動き出す。本当に乗せていってくれるらしい。
「ありがとう、熊さん」
声をかけるが、無視されてしまった。それに少しむっとしたが、それで怒るのも馬鹿らしい。
ゆっくりと進み熊に揺られながら、一華は空を見上げる。
月がとっても、綺麗だった。
四半時ほどして、ようやく目的地へと到着した。礼を言って熊から降りたところで、一華は息を呑んだ。視線の先にいた人物に、目を奪われたのだ。
社の前に立つ、ひとりの男。その姿は、数年前に会った時と、なにも変わっていない。
——やっぱり、きれい……。
一華は、走り出したい気持ちを抑え、ゆっくりと歩を進める。男は冷ややかな視線を、こちらに向けている。それすら一華には愛おしい。
男の少し前で立ち止まり、一華は彼のかんばせを見る。
「ずっと、会いたかった」
思わず、言葉がこぼれた。男は訝し気に眉間にしわを寄せる。
そして、一華は言った。
「あなたをずっと……お慕いしていました」
倒れ込んだ一華を見下ろす、ひとりの男。癖のある短い髪に、少し垂れた目元とそこに収められた少しくすんだ瞳。血を浴びたように真っ赤なその瞳に、息をすることも忘れて釘付けになる。
美しい、ただそう思った。
「ありゃりゃ、人間が迷い込んじゃってら」
男は軽く言い放つ。一華は黙ったまま、男を見上げ続ける。
それを不思議に思ったのか、男はしゃがみ込み、大きな手をそっと差し出す。ただ大きいわけではなく、力強さも感じる手だった。
「ここは、お前さんみたいな人間が来るところじゃねえよ」
「……」一華は黙ったまま、その手を見つめる。いま見ているこれは、夢だろうか。まるで現実味がなかった。だからこの差し出された手も、結局は取ることはできず、くうを切ることにならないだろうか? そんなことを考えてしまう。
「……だよな。怖いよな、普通」
その言葉に我に返り、咄嗟に上を向く。男が儚い瞳で、口許にうっすらとした笑みを浮かべていた。哀愁漂う表情だった。その手を引っ込めようとした時、一華は慌ててその手を取り、立ち上がった。男が、鳩に豆鉄砲を食らったような顔をしている。
「そ、そんなことない……ありがとう」
慌てて礼を言うと、男は先ほどまでの表情を崩し、儚げながらも、微笑み返した。
その刹那、大きな音が響き渡る。少なくとも、一華にはそれが聞こえていた。なんだろう、時報の鐘だろうか。——もう、そんな時間なの?
「さて、じゃあな。可愛い呪い師さん」
男の言葉を合図に、一華の身体が、薄桃色の花弁に包まれていく。うっすらと漂う甘い香りに、それが桃の花だと分かった。
「待って……!」と叫ぶも、その声虚しく、一華はそのまま眠りにつく。
——会いたい、会いたい。彼に会いたい。
一華の脳裏に焼き付いた、あの男の顔。儚い瞳で笑う、不思議な男。彼のためなら、なにであろうといとわない。
恋に落ちた哀れな呪い師は、許されない想いを募らせ、やがて禁忌の扉に手をかける。
たとえそれが、魔に身を委ねるようなことでも。
♢
一華はあの後、三日三晩眠ったままで、目が覚めた時には四日目の朝だった。
あの時の雷は、一華を呪った怨霊による術だ。怨霊の名を壱与という。まだ、この地に呪い師の國があったころ、巫女王が産んだ神の子を誘拐し、巫女王を殺した大罪人だ。雷の術は、生前に壱与が最も得意としていたものだった。
一華は、怨霊となっていた彼女の封印を解いたのだ。それゆえに呪われ、こんな場所に閉じ込められている。
「一華、起きたのか……?」
政近の声だった。「起きてます」と答えると、彼はほっと息をついた。そしてまた、額を床にこすりつける。
「よ、よかった。今回は慎子が酷いことを……今後二度とないよう、あいつにはきつく言っておく。だから、許してくれ……」
「頭を上げて」一華は言う。「あたしが異端者なのは、本当の事なんだから」
「しかし……」
「くどい」
「……」
政近はおもむろに頭を上げ、手巾で額を拭う。冷や汗でもかいたのだろう。
「そ、そうだ。私はこれから、依頼でしばらく留守にする。なにか欲しいものはないか? なんでもいいんだ」
「なんでも、ですか?」
「ああ、なんでもだ。充希は着物だ簪だと騒いでいたが……お前はなにがいいんだ」
まくしたてるように、政近は訊いてくる。娘の機嫌を取るのに必死なのだ。気持ちはわかるが、なんとも情けない。
しかし、これはまたと無い機会だ。
「……桃がいい。桃が食べたい」
一華の言葉に、政近は「桃?」と鸚鵡返しをする。「もちろん構わんが、そんなもの、いつでも用意できるぞ」
「ただの桃じゃないの、特別な桃が食べたい。そう……〝あたしの呪いが解ける〟ぐらいの」
政近が息を呑む気配がした。呪いが解ける、その言葉に反応したのだ。
そう、一華がいま呪い師として仕事ができないのは、ひとえにこの呪いのせいなのだ。それさえなくなれば、一華はまた稀代の呪い師として、この古宮家を盛り立てることができるのだ。
政近が、これに乗らない手はない。
「わかった、わかったよ。絶対に持って帰ると誓おう」
「本当?」
喜ぶふりをして、一華は声を上げる。
「ああ、もちろんだとも」
政近は声音を弾ませながら答え、その場を後にした。
ひとりになって、一華はくすりと微笑む。
——そんな桃は、普通手に入らない。
そう、例えば、神が管理する神域に入らない限りは……。
政近が依頼を受けて出発し、戻ってきたのは、それから半月後の事だった。
——なんだか、外が騒がしい。
叫び声に泣き声、しまいにはなにかが倒れる音まで。ただ事ではなさそうだ。
「……」一華は行李の中にしまっていた面布をつけ、部屋を抜け出す。穴は空いていないが、呪いをかけているため、外の様子を見ることができる。普段ならこんなことはしないが、いまは一大事だ。
声がする方へ向かうと、そこでは狼狽する政近、いまにも彼に襲いかかろうとする慎子、そして、滂沱する慎太郎がいた。一華はそれに聞き耳を立てる。
「どうして大人しくあの異端者を差し出さないのですか! そうしないと、一族郎党皆殺しだというのに!」
「し、しかし……やはり、せっかくの『愛し子』、簡単に手放すわけには……それに」
「異端者ひとりと、わたくしたちの未来のどちらが大切かなんて、わかりきったことでしょう! その『愛し子』だって、またいつか生まれるでしょう? なぜあいつにこだわるのですか!」
「そ、それは……」
慎子の金切り声が、耳に痛い。——どういう状況だろう。
「いやだ! 姉上を生贄にするなんて……!」
——え……。
生贄、そう言ったか。確かにいま、慎太郎は生贄と言った。
「母上、お願いします。やめてください、やめてください……」
まだ幼い慎太郎は、母に縋りつき、必死に姉の命乞いをしている。状況がうまく理解できていないのか、分かったうえで言っているのか。どちらにしても、この状況では愚かな選択だ。
「黙りなさい!」そんな祈りもむなしく、慎子は彼の訴えを一蹴した。
「あいつを生贄にしないと、わたくしたちはみんな死ぬのよ! 姉弟愛で、どうにかできるものではないの!」
少しづつ、話が見えてきた。
「大体、なぜ神域なんかに入ったのですか! 入れば神の怒りを買うことくらいわかっていたでしょうに!」
「し、仕方なかったんだ! 一華の呪いが解けるほどの桃なんて、神域の近くにしかないのだ……」
「それでこうなってしまっては元も子もないでしょう! そのうえ〝あの〟邪神の神域だなんて……!」
「……」なるほど、そういう事かと、一華はすべてを察した。つまり政近は、雨熊大王の神域に入り、彼の怒りを買ったのだ。それで、一華を生贄にしろと言っているのだ。一華にとってとても都合がよい状況だという事だ。
一華はゆるりと、戸の影から姿を現す。
「そういうことなら、喜んで」
その声に、その場にいた三人が一気に顔を向けた。
耳が痛いような沈黙が続いたのち、慎子は、
「ほ、ほら見なさい! 本人がこう言ってるのよ! もういいじゃない、生贄にしてしまいましょう!」
「……」
苦虫をかみつぶしたような顔をする政近は、ひと言「くそっ!」と吐き捨てる。
しかし、幼い慎太郎はそうはいかない。
「い、いやです姉上! 行かないでください……! 行ったら……死んじゃうんですよ……」
「慎太郎」一華はその場にしゃがみ込み、慎太郎と目線を合わせる。呪いで彼に触れられないことが、唯一辛い。
「あたしは、慎太郎には元気に過ごしてもらいたいの。だから、あたしのためだと思って……ね」
本当は分かっているはずなのだ。これ以外に、一族を守る方法がないことくらい。だが、彼の幼さが納得させてくれない、それだけなのだ。
「姉上、あねうえぇ……!」
何度も名を呼びながら、慎太郎はその場に泣き崩れる。横目で見た両親の顔。父は悔しそうな顔をして静かに地団太を踏み、義母は顔を醜く歪ませながら、こちらを見ていた。
♢
その山に、道という道は存在せず、木が生えていないところをうまく進むといった具合だった。森閑とした山道に、草を踏みしめる音が響き、そしてまた静かな山へと還ってゆく。
月が綺麗な夜、一華は純白の単衣を身に纏い、道なき道を上っていた。無論、生贄になるためだ。標高はそれほど高くないが、夜中で視界が悪いことも相まって、なかなか前に進めない。
——目印ぐらい置いておいてもいいのに。
そう思いつつ、一華は歩を進める。家を追い出され、山に入れられてからもう半時は経つ。いい加減疲れてきた。
——少し休憩しよう。
そう思い、その場に腰を下ろした。慣れない道だったのと、長らく家から出ていなかったので、足が痛い。
その時、前からなにかの足音が聞こえてきた。人間ではない。鹿や猪でもない。あたりに良く響く、重たい足音。その正体は、木々から漏れる月明かりで明らかとなった。
「熊……」
茶色い毛を蓄えた巨体。一見人畜無害そうに見えるその瞳は、熊のそれだった。しかし、普通の熊ではないことは、容易にわかった。
「あなた、眷属ね」
雨熊大王の眷属である熊だ。雨熊大王が熊を眷属としているのは、有名な話だ。それに、この熊はまとっている神力が異常だ。
熊は一華の前で止まると、じっとこちらを見つめてきた。——乗れってこと?
まさかのお迎え付きとは、生贄に対してまで心優しいのか。
「じゃあ、遠慮なく」と言って、一華はその背に横乗りした。すると、ゆっくりと動き出す。本当に乗せていってくれるらしい。
「ありがとう、熊さん」
声をかけるが、無視されてしまった。それに少しむっとしたが、それで怒るのも馬鹿らしい。
ゆっくりと進み熊に揺られながら、一華は空を見上げる。
月がとっても、綺麗だった。
四半時ほどして、ようやく目的地へと到着した。礼を言って熊から降りたところで、一華は息を呑んだ。視線の先にいた人物に、目を奪われたのだ。
社の前に立つ、ひとりの男。その姿は、数年前に会った時と、なにも変わっていない。
——やっぱり、きれい……。
一華は、走り出したい気持ちを抑え、ゆっくりと歩を進める。男は冷ややかな視線を、こちらに向けている。それすら一華には愛おしい。
男の少し前で立ち止まり、一華は彼のかんばせを見る。
「ずっと、会いたかった」
思わず、言葉がこぼれた。男は訝し気に眉間にしわを寄せる。
そして、一華は言った。
「あなたをずっと……お慕いしていました」