「稀代の呪い師なんて名ばかりだわ」
庭に面した部屋の片隅で、膝を抱える一華を見ながら、充希は言い放つ。一華の義姉である彼女は、生まれつき雲のように柔らかい髪が、ハイカラな柄によく映える、華やかな美女だった。ふらりといなくなっては戻ってくる様に、一華は充希を、毛むくじゃらな猫のように思っていた。
一方の一華は、充希とはまた違った、可愛らしい容貌の少女だった。腰まで伸びる茶髪に、愛らしい茶色の瞳。やや幼げな顔立ちだが、その美貌は、同年代の少女から一線を画している。
それは、いまにも千切れそうなみすぼらしい着物を着ていても、変わらなかった。
「いまはこんな落ちぶれた部屋で、じっとしている他ないんだもの」
あなたは呪われいるから、そう付け足し、充希は目尻と口元を釣り上げて笑う。皮肉にも、そう笑っている時の彼女が、一番美しく見えてしまう。一華は、自身でもひねくれている節があると思っているからだ。
「大体ねえ、邪魔だったのよ、あんたが。妾腹の子のくせに、呪いの才能があって、そのうえ……」
充希が言い切る前に、廊下の角からふくよかな男が慌てた様子で駆け寄ってきた。ふたりの父親の政近である。
「いい加減にしないか。なぜそんなに、一華につらく当たるんだお前は」
声が震えている。焦っているのだ。彼には焦っていると声が震えるという癖があった。
「だって……」
「だってじゃない。頼むからやめなさい……!」
縋りつくように言われて興ざめしたのか、充希は大きな息を吐き、「わかったわよ」と言った。彼女にとって、一華は邪魔な存在かもしれない。だが、父と仲違いをすることは本意ではないのか、言われればすぐに言う事を聞いた。それは、他のきょうだいも同じだった。
「じゃあ、わたしは帝都に行くから。百貨店で着物を受け取らないといけないもの」
後ろ手に手を振りながら、充希はその場を後にする。やはり、猫のようなひとだ。
充希がいなくなった途端、政近は床に額どころか、顔をすべてこすりつけるように、頭を垂れる。その体は小刻みに震え、恐れが垣間見えた。
「す、すまなかった。すべて私の責任だ。だから頼む、頼むから……」
「……」なにを頼みたいというのか、一華はなにもわからなかった。ただ、頼む頼むと、頭を垂れるだけ。もう慣れたものだ。
慣れたと言えば、先ほどの嫌味にも慣れている。多くいるきょうだいたちが、なにかのはけ口のように、一華に嫌味や悪口、ときには石を投げてくることも、いまとなっては日常だ。
——そのたびに、父上が頭を垂れるのも。
そしてこの懺悔が、自身への愛からくるものではないということも、とうのむかしに気づいている。
こうなってしまえば最後、父の気がすむまで、懺悔の言葉を聞かされ続ける。そちらの方が、きょうだいたちからの罵詈雑言よりも、心に来るものがあった。
呪い師は、ひと言で言えば、本来は神が扱う力を扱える人間、その一族の者の総称だ。
その力は、無論、神に相当するもの。いつの時代でも、呪い師は、政の陰で暗躍していた。それどころか、はるか昔には、呪い師だけの國まであった。それだけ呪い師というのは、人智を超えた存在なのだ。
しかし、そんな呪い師も、いまはほとんど残っていない。そんな中、一華の生家である古宮家だけは、定期的に力を持った呪い師を排出し続けていた。
今代では、一華がそれだった。
一華には、呪い師として大成できる条件が、すべて揃っていた。そのうちのひとつが、彼女が『嫉妬の愛し子』だったから。
『愛し子』は、呪い師が信仰する、七柱の神から加護を受けた呪い師のことだ。一華はその中でも、『嫉妬』を司る神の加護を受けていた。彼らは呪い師としての素質が桁違いに高い代わりに、彼らの司る感情が、性格に顕著に現れる。ゆえに一華は、幼いころから嫉妬深い性格だった。
一華は、周りの期待を一身に背負い、呪い師としての研鑽を積んだ。それこそ、血のにじむような努力をした。
父は、前以上に優しくなった。当たり前だ。せっかくの『愛し子』である呪い師の原石なのだ。大切にしなければならない、失ってはいけないのだ。一華はそれが、気持ち悪くてしょうがなかった。
母は消えた。妾だった彼女は、呪い師の異常な風習に耐え切れず、子を産んですぐに心身を病み、実家に帰された。いまどうしているのかすら分からない。
努力が実を結んだのか、一華は数え十になるころには、稀代の呪い師として、その美貌も相まって、人々から愛される呪い師となっていた。
——そんなあたしも、いまはこんな状態だけど。
三年前、怨霊の封印を解き、呪われてしまった日から、一華はずっと、この落ち窪んだ部屋の中で暮らしていた。古い屋敷なので、こんな風に床が沈没している部屋はままあったが、ひとの私室として使われているのは、この場所だけだった。調度品も簡素で、まるでこの部屋だけ、ひとむかし前の貧乏な役人の自宅のようだった。
苦痛だと思うだろう。哀れに思うだろう。誰もが彼女に同情するだろう。
しかし、一華はこの生活を、苦痛だと思ったことは、一度たりともない。
だって、だって、だって——
「姉上!」と、ばたばたと部屋まで駆けてきたのは、今年で六つになる義弟、慎太郎だった。
物思いに耽っていた一華は、障子戸の方を見る。脇になにかを抱えた慎太郎の影が、障子戸に濃い影を写している。その影が微かに上下している。その様子が、一華にとっては愛らしい。ちなみに彼は、充希の実弟である。
ふたりの母は、父の正妻で、武家華族の出らしい。だからこそ、妾の子でその癖に才がある一華に、充希は劣等感を抱いているのだろう。
——根っからの性悪、というわけではなそうだけど。
「慎太郎、どうしたの?」
障子戸越しに、一華は問う。慎太郎を含めた幼子には、基本的には顔を出さない。障子を閉めるか、呪いがかかった布面をつける。力の制御がまだ未熟な幼子は、一華の身に宿る呪いの気で、体調を崩す可能性があるからだ。
その場に座って、慎太郎は話始める。
「新しいお話を教えてもらいました!」慎太郎は手を上に掲げ、力一杯叫ぶ。「なので、教えに来ました!」
「いつもありがとう。どんなお話なの?」
尋ねると、慎太郎は「七つの神様のお話です!」と答える。七つの神は、呪い師が信仰する七柱の神のことだ。
「聞かせておくれ」と答えると、慎太郎は持っていた書物のようなものを開き、嬉々として語り出す。
「『呪い師の國 この世の全てを司る 神の子を産んだ巫女王が、我ら呪い師を導く』」
子どもには難しいであろう言葉を、慎太郎は流暢に読んでいく。
♢
『呪い師の國 この世の全てを司る 神の子を産んだ巫女王が、我ら呪い師を導く
そんな國 ひと柱の神が滅ぼした 男も女も皆殺し そしてその地は荒れ果てた
その神を 呪い師は忌み嫌う みんなみんな大嫌い そんな邪神はいますぐに どこか遠くへ飛ばしちゃおう
呪い師 いまもその神を忌み嫌う だから山には近づくな 邪神に腹から食べられる ああ! なんて恐ろしい怠惰の邪神!』
こんな筋書きから始まるこの物語。
かつてこの地に存在していた呪い師の國を滅ぼした神。その正体は、呪い師たちが信仰する七柱の神のひと柱で、怠惰を司る神だと言われている。
七柱いる神々。その中で唯一邪神扱いをされているのが、この怠惰を司る神、雨熊大王だ。彼は物語の通り、呪い師の國を壊滅させた。
完全な悪として描かれている雨熊大王の物語は、一般人にまで広く普及しており、いまや彼は、すべての人々から忌み嫌われる邪神となっていた。
いまは遠く離れた山の山頂に建てられた社に祀られており、一部の呪い師からのみ信仰される存在となっている。しかし、その信仰している呪い師は異端扱いされ、迫害されてしまうのだ。
だから誰も、その社には近づかない。
それを神がどう思っているのは分からない。
ただひとつ、わかることは、非常に哀れだという事だけである。
♢
「……以上です! 姉上は知っていましたか?」
すべてを話し終えると、慎太郎は大きな声で訊く。
「うん、慎太郎と同じ年のころに聞いたよ」一華は答える。「これを聞いて、慎太郎はどう思った?」
「悲しいです」
即答だった。
「雨熊大王が、國を壊したのはいけないことだったと思います。でも、なにも知らないで、勝手に悪いというのは違うと思います」
こましゃくれたことを言う子だ、と一華は思う。
「だから、悲しいです。一度、彼の話をちゃんと聞きたいです。悪いかどうかは、その後でもいいはずです」
「‥‥‥」一華は返す言葉が見つからず、黙り込む。とても素晴らしい考えであると、賞賛するのも違う。間違っていると否定するのも違う。
——でも、あたしは‥‥‥。
哀れだと思う。救いたいと思う。たとえどんな事情があろうともだ。そういうところで、ふたりの意見は対立してしまう。だからなにも言えなかった。
「姉上?」
少し震えた声で、慎太郎が声をかける。——心配している。
「大丈夫。気にしないで」
一華は答える。慎太郎はほっと息をついた。
「とても素敵な考えだと思うよ。でも、だからって本当に行っちゃだめだよ。神の怒りを買うようなことがあったら大変だから」
「はい、わかっています」
「特に夜は危ないからね」一華のかんばせに、影がかかる。「夜には、怖い熊が出るから」
「熊、ですか?」
訝しげに聞き返す慎太郎に、一華は「ええ、熊よ」と答える。
「どうしてそんなに、熊を恐れるのですか?」慎太郎は身を乗り出して、障子戸越しにこちらを見つめる。「確かに熊は危ないです。でも、呪い師なら力でどうとでもなるでしょう。なのになぜ……」
「それはね——」
その続きを言おうとした時だった。
「慎太郎!」遮るように、甲高い女性の声が聞こえてきた。おそらく廊下の角からだ。一華はおもむろに、部屋の隅に身を寄せる。
慌ただしく女性の影が現れ、慎太郎の手を引く。そして、こちらの方を向く。
「おい! 言いつけを破って呪われた異端者が、わたくしの息子になにをしている!」
女性は、障子戸越しに一華を責める。見ずともわかる。充希と慎太郎の母、慎子だ。
「母上! 私は‥‥‥」
「あなたは黙ってらっしゃい! おい異端者! なにか言わないか!」
一華は黙ったまま、障子戸の義母の影を見つめる。幸か不幸か、政近は留守だった。
いつもならこれで終わる。しかし、
「こっちへ来い! 異端者!」
今日は腹の虫が悪かったのか、慎子は障子戸を蹴り破り、一華の髪を乱暴に掴み、部屋から引き摺り出す。
「姉上!」慎太郎の悲鳴のような呼びかけに応える間もなく、一華は庭へと放り出される。強い日の光に、目が潰れそうだった。
慎子はずかずかと一華の元へ歩み寄り、その体を蹴り付け、顔を踏みつける。
「お前のような異端者を、わたくしの好意で屋敷においてやっていると言うのに! 妾腹の子のくせに、あのひとから愛されて! わたくしを侮辱しているのでしょう!」
踏みつける力を強くしながら、慎子は一華を罵る。息をするのもままならず、一華は苦悶の表情を作る。
——華族の彼女は、わかっていない。
『愛し子』である一華の価値が。なにより、呪い師の〝闇〟が。
しまいには一華に馬乗りになり、両頬を平手打ちする。
いなくなれ、いなくなれ。そう繰り返しながら、一華の絹のような頬を打擲する。
「母上! もうやめてくださいっ!」
一華を打ち続ける慎子に、慎太郎はしがみついて制止させようとする。しかし、
「黙りゃ! 邪魔をするな!」
慎子はそれを振り払う。その衝撃で、慎太郎は倒れ込む。
総身が冷える思いがした。
「この異端者はあなたによくないものばかりを与えるのだ! もう金輪際近づくな!」
「母上‥‥‥!」
引きちぎれるような声音で、慎太郎は絞り出すように言う、
「‥‥‥」
一華は、ゆっくりとその手を掲げる。掲げた手に、神力が集中するのを感じる。しかしこれは、一華のものではない。手だけではない。一華の茶色の瞳が、上から塗料をこぼすように、桃色に染まってゆく。それと同時に、身体の奥底から、ひとつの声が聞こえてくる。
——委ねろ、すべてを。お前の感情のまま。
神力は、次第に陽炎を作り、一華の瞳を、完全に桃色に染める。そして——
その刹那、三人のすぐそばで、閃光が走った。光が炸裂し、地面を割くような轟音が響き渡る。それと同時に、慎子と慎太郎の悲鳴も耳に入る。
あたりには灰色の煙と、焦げ臭い匂いが漂う。それにやられたのか、身体が痺れている。
落雷だった。
雲ひとつない真昼間に、それも屋敷の庭に、一撃だけ落ちた雷。黒く焦げた地面と雷鼓の余韻だけが、この地に雷が落ちたことを示している。
「ひぃ、ひぃぃ‥‥‥っ」
慎子は怯えて、一華のすぐそばで座り込んでいる。慎太郎はその場で、呆然と立ち尽くしている。
それを最後に、一華の意識は泥沼の底へと沈んでいった。
庭に面した部屋の片隅で、膝を抱える一華を見ながら、充希は言い放つ。一華の義姉である彼女は、生まれつき雲のように柔らかい髪が、ハイカラな柄によく映える、華やかな美女だった。ふらりといなくなっては戻ってくる様に、一華は充希を、毛むくじゃらな猫のように思っていた。
一方の一華は、充希とはまた違った、可愛らしい容貌の少女だった。腰まで伸びる茶髪に、愛らしい茶色の瞳。やや幼げな顔立ちだが、その美貌は、同年代の少女から一線を画している。
それは、いまにも千切れそうなみすぼらしい着物を着ていても、変わらなかった。
「いまはこんな落ちぶれた部屋で、じっとしている他ないんだもの」
あなたは呪われいるから、そう付け足し、充希は目尻と口元を釣り上げて笑う。皮肉にも、そう笑っている時の彼女が、一番美しく見えてしまう。一華は、自身でもひねくれている節があると思っているからだ。
「大体ねえ、邪魔だったのよ、あんたが。妾腹の子のくせに、呪いの才能があって、そのうえ……」
充希が言い切る前に、廊下の角からふくよかな男が慌てた様子で駆け寄ってきた。ふたりの父親の政近である。
「いい加減にしないか。なぜそんなに、一華につらく当たるんだお前は」
声が震えている。焦っているのだ。彼には焦っていると声が震えるという癖があった。
「だって……」
「だってじゃない。頼むからやめなさい……!」
縋りつくように言われて興ざめしたのか、充希は大きな息を吐き、「わかったわよ」と言った。彼女にとって、一華は邪魔な存在かもしれない。だが、父と仲違いをすることは本意ではないのか、言われればすぐに言う事を聞いた。それは、他のきょうだいも同じだった。
「じゃあ、わたしは帝都に行くから。百貨店で着物を受け取らないといけないもの」
後ろ手に手を振りながら、充希はその場を後にする。やはり、猫のようなひとだ。
充希がいなくなった途端、政近は床に額どころか、顔をすべてこすりつけるように、頭を垂れる。その体は小刻みに震え、恐れが垣間見えた。
「す、すまなかった。すべて私の責任だ。だから頼む、頼むから……」
「……」なにを頼みたいというのか、一華はなにもわからなかった。ただ、頼む頼むと、頭を垂れるだけ。もう慣れたものだ。
慣れたと言えば、先ほどの嫌味にも慣れている。多くいるきょうだいたちが、なにかのはけ口のように、一華に嫌味や悪口、ときには石を投げてくることも、いまとなっては日常だ。
——そのたびに、父上が頭を垂れるのも。
そしてこの懺悔が、自身への愛からくるものではないということも、とうのむかしに気づいている。
こうなってしまえば最後、父の気がすむまで、懺悔の言葉を聞かされ続ける。そちらの方が、きょうだいたちからの罵詈雑言よりも、心に来るものがあった。
呪い師は、ひと言で言えば、本来は神が扱う力を扱える人間、その一族の者の総称だ。
その力は、無論、神に相当するもの。いつの時代でも、呪い師は、政の陰で暗躍していた。それどころか、はるか昔には、呪い師だけの國まであった。それだけ呪い師というのは、人智を超えた存在なのだ。
しかし、そんな呪い師も、いまはほとんど残っていない。そんな中、一華の生家である古宮家だけは、定期的に力を持った呪い師を排出し続けていた。
今代では、一華がそれだった。
一華には、呪い師として大成できる条件が、すべて揃っていた。そのうちのひとつが、彼女が『嫉妬の愛し子』だったから。
『愛し子』は、呪い師が信仰する、七柱の神から加護を受けた呪い師のことだ。一華はその中でも、『嫉妬』を司る神の加護を受けていた。彼らは呪い師としての素質が桁違いに高い代わりに、彼らの司る感情が、性格に顕著に現れる。ゆえに一華は、幼いころから嫉妬深い性格だった。
一華は、周りの期待を一身に背負い、呪い師としての研鑽を積んだ。それこそ、血のにじむような努力をした。
父は、前以上に優しくなった。当たり前だ。せっかくの『愛し子』である呪い師の原石なのだ。大切にしなければならない、失ってはいけないのだ。一華はそれが、気持ち悪くてしょうがなかった。
母は消えた。妾だった彼女は、呪い師の異常な風習に耐え切れず、子を産んですぐに心身を病み、実家に帰された。いまどうしているのかすら分からない。
努力が実を結んだのか、一華は数え十になるころには、稀代の呪い師として、その美貌も相まって、人々から愛される呪い師となっていた。
——そんなあたしも、いまはこんな状態だけど。
三年前、怨霊の封印を解き、呪われてしまった日から、一華はずっと、この落ち窪んだ部屋の中で暮らしていた。古い屋敷なので、こんな風に床が沈没している部屋はままあったが、ひとの私室として使われているのは、この場所だけだった。調度品も簡素で、まるでこの部屋だけ、ひとむかし前の貧乏な役人の自宅のようだった。
苦痛だと思うだろう。哀れに思うだろう。誰もが彼女に同情するだろう。
しかし、一華はこの生活を、苦痛だと思ったことは、一度たりともない。
だって、だって、だって——
「姉上!」と、ばたばたと部屋まで駆けてきたのは、今年で六つになる義弟、慎太郎だった。
物思いに耽っていた一華は、障子戸の方を見る。脇になにかを抱えた慎太郎の影が、障子戸に濃い影を写している。その影が微かに上下している。その様子が、一華にとっては愛らしい。ちなみに彼は、充希の実弟である。
ふたりの母は、父の正妻で、武家華族の出らしい。だからこそ、妾の子でその癖に才がある一華に、充希は劣等感を抱いているのだろう。
——根っからの性悪、というわけではなそうだけど。
「慎太郎、どうしたの?」
障子戸越しに、一華は問う。慎太郎を含めた幼子には、基本的には顔を出さない。障子を閉めるか、呪いがかかった布面をつける。力の制御がまだ未熟な幼子は、一華の身に宿る呪いの気で、体調を崩す可能性があるからだ。
その場に座って、慎太郎は話始める。
「新しいお話を教えてもらいました!」慎太郎は手を上に掲げ、力一杯叫ぶ。「なので、教えに来ました!」
「いつもありがとう。どんなお話なの?」
尋ねると、慎太郎は「七つの神様のお話です!」と答える。七つの神は、呪い師が信仰する七柱の神のことだ。
「聞かせておくれ」と答えると、慎太郎は持っていた書物のようなものを開き、嬉々として語り出す。
「『呪い師の國 この世の全てを司る 神の子を産んだ巫女王が、我ら呪い師を導く』」
子どもには難しいであろう言葉を、慎太郎は流暢に読んでいく。
♢
『呪い師の國 この世の全てを司る 神の子を産んだ巫女王が、我ら呪い師を導く
そんな國 ひと柱の神が滅ぼした 男も女も皆殺し そしてその地は荒れ果てた
その神を 呪い師は忌み嫌う みんなみんな大嫌い そんな邪神はいますぐに どこか遠くへ飛ばしちゃおう
呪い師 いまもその神を忌み嫌う だから山には近づくな 邪神に腹から食べられる ああ! なんて恐ろしい怠惰の邪神!』
こんな筋書きから始まるこの物語。
かつてこの地に存在していた呪い師の國を滅ぼした神。その正体は、呪い師たちが信仰する七柱の神のひと柱で、怠惰を司る神だと言われている。
七柱いる神々。その中で唯一邪神扱いをされているのが、この怠惰を司る神、雨熊大王だ。彼は物語の通り、呪い師の國を壊滅させた。
完全な悪として描かれている雨熊大王の物語は、一般人にまで広く普及しており、いまや彼は、すべての人々から忌み嫌われる邪神となっていた。
いまは遠く離れた山の山頂に建てられた社に祀られており、一部の呪い師からのみ信仰される存在となっている。しかし、その信仰している呪い師は異端扱いされ、迫害されてしまうのだ。
だから誰も、その社には近づかない。
それを神がどう思っているのは分からない。
ただひとつ、わかることは、非常に哀れだという事だけである。
♢
「……以上です! 姉上は知っていましたか?」
すべてを話し終えると、慎太郎は大きな声で訊く。
「うん、慎太郎と同じ年のころに聞いたよ」一華は答える。「これを聞いて、慎太郎はどう思った?」
「悲しいです」
即答だった。
「雨熊大王が、國を壊したのはいけないことだったと思います。でも、なにも知らないで、勝手に悪いというのは違うと思います」
こましゃくれたことを言う子だ、と一華は思う。
「だから、悲しいです。一度、彼の話をちゃんと聞きたいです。悪いかどうかは、その後でもいいはずです」
「‥‥‥」一華は返す言葉が見つからず、黙り込む。とても素晴らしい考えであると、賞賛するのも違う。間違っていると否定するのも違う。
——でも、あたしは‥‥‥。
哀れだと思う。救いたいと思う。たとえどんな事情があろうともだ。そういうところで、ふたりの意見は対立してしまう。だからなにも言えなかった。
「姉上?」
少し震えた声で、慎太郎が声をかける。——心配している。
「大丈夫。気にしないで」
一華は答える。慎太郎はほっと息をついた。
「とても素敵な考えだと思うよ。でも、だからって本当に行っちゃだめだよ。神の怒りを買うようなことがあったら大変だから」
「はい、わかっています」
「特に夜は危ないからね」一華のかんばせに、影がかかる。「夜には、怖い熊が出るから」
「熊、ですか?」
訝しげに聞き返す慎太郎に、一華は「ええ、熊よ」と答える。
「どうしてそんなに、熊を恐れるのですか?」慎太郎は身を乗り出して、障子戸越しにこちらを見つめる。「確かに熊は危ないです。でも、呪い師なら力でどうとでもなるでしょう。なのになぜ……」
「それはね——」
その続きを言おうとした時だった。
「慎太郎!」遮るように、甲高い女性の声が聞こえてきた。おそらく廊下の角からだ。一華はおもむろに、部屋の隅に身を寄せる。
慌ただしく女性の影が現れ、慎太郎の手を引く。そして、こちらの方を向く。
「おい! 言いつけを破って呪われた異端者が、わたくしの息子になにをしている!」
女性は、障子戸越しに一華を責める。見ずともわかる。充希と慎太郎の母、慎子だ。
「母上! 私は‥‥‥」
「あなたは黙ってらっしゃい! おい異端者! なにか言わないか!」
一華は黙ったまま、障子戸の義母の影を見つめる。幸か不幸か、政近は留守だった。
いつもならこれで終わる。しかし、
「こっちへ来い! 異端者!」
今日は腹の虫が悪かったのか、慎子は障子戸を蹴り破り、一華の髪を乱暴に掴み、部屋から引き摺り出す。
「姉上!」慎太郎の悲鳴のような呼びかけに応える間もなく、一華は庭へと放り出される。強い日の光に、目が潰れそうだった。
慎子はずかずかと一華の元へ歩み寄り、その体を蹴り付け、顔を踏みつける。
「お前のような異端者を、わたくしの好意で屋敷においてやっていると言うのに! 妾腹の子のくせに、あのひとから愛されて! わたくしを侮辱しているのでしょう!」
踏みつける力を強くしながら、慎子は一華を罵る。息をするのもままならず、一華は苦悶の表情を作る。
——華族の彼女は、わかっていない。
『愛し子』である一華の価値が。なにより、呪い師の〝闇〟が。
しまいには一華に馬乗りになり、両頬を平手打ちする。
いなくなれ、いなくなれ。そう繰り返しながら、一華の絹のような頬を打擲する。
「母上! もうやめてくださいっ!」
一華を打ち続ける慎子に、慎太郎はしがみついて制止させようとする。しかし、
「黙りゃ! 邪魔をするな!」
慎子はそれを振り払う。その衝撃で、慎太郎は倒れ込む。
総身が冷える思いがした。
「この異端者はあなたによくないものばかりを与えるのだ! もう金輪際近づくな!」
「母上‥‥‥!」
引きちぎれるような声音で、慎太郎は絞り出すように言う、
「‥‥‥」
一華は、ゆっくりとその手を掲げる。掲げた手に、神力が集中するのを感じる。しかしこれは、一華のものではない。手だけではない。一華の茶色の瞳が、上から塗料をこぼすように、桃色に染まってゆく。それと同時に、身体の奥底から、ひとつの声が聞こえてくる。
——委ねろ、すべてを。お前の感情のまま。
神力は、次第に陽炎を作り、一華の瞳を、完全に桃色に染める。そして——
その刹那、三人のすぐそばで、閃光が走った。光が炸裂し、地面を割くような轟音が響き渡る。それと同時に、慎子と慎太郎の悲鳴も耳に入る。
あたりには灰色の煙と、焦げ臭い匂いが漂う。それにやられたのか、身体が痺れている。
落雷だった。
雲ひとつない真昼間に、それも屋敷の庭に、一撃だけ落ちた雷。黒く焦げた地面と雷鼓の余韻だけが、この地に雷が落ちたことを示している。
「ひぃ、ひぃぃ‥‥‥っ」
慎子は怯えて、一華のすぐそばで座り込んでいる。慎太郎はその場で、呆然と立ち尽くしている。
それを最後に、一華の意識は泥沼の底へと沈んでいった。