***
ランニングや飼い犬の散歩をしている人たちしか見かけない早朝の通学路。
紫乃は、祖父の書庫ではなく学校へと向かっていた。
書庫へも行くつもりだが、その前に学生がいない校内で確かめたいことがあるのだ。
以前から学校で噂されていたドッペルゲンガーを見たという話。
昨日のように噂話に聞き耳を立てたり、紫乃なりに調べた結果一つの結論に至った。それが正解なのかを確認するために、人の目がない時間帯に学校へ行っておきたいのだ。
「……別に、私が解決する必要はないのだけどね」
呟くが、謎があると知りたいと思ってしまうのだ。好奇心が疼くというよりは、ただ知りたいという欲求が強いかもしれない。
これは性分なのだろう。読書をしているときの、この先を知りたいという欲求と似ている。その欲求を解消するために、自分には関係ないと思いつつ首を突っ込まずにはいられないのだ。
それに、もし予想通りならば無垢なモノを守れるかもしれないという思いもあった。
学校に着くと、真っ直ぐに生徒玄関から校舎内に入る。
部活の朝練のために登校している生徒はいるだろうが、大体が運動部。外か体育館を使用するので、目的の場所にほぼ人は来ないだろう。
校内に入り、静かな廊下を進みながら今までドッペルゲンガーを見たと主張した生徒のことを思い出す。
はじめは一年の可愛らしいタイプの女子だった。可愛さだけで競えば莉乃と張り合えるほどの子で、自分の容姿を自覚しているのかよく手鏡をのぞき込んでいるらしい。
二人目は三年生の男子で、女子の人気はあるものの少々軽い印象の先輩だ。彼の友人たちの話を聞いたことがあるが、いつも女の尻を追っかけているのだという。ちなみに今は莉乃を追っかけているのだとか。莉乃には細賀慧という婚約者がいるというのに……無謀なことをするのだな、と紫乃は呆れ混じりに思った。
三人目はまた一年の女子だ。人気雑誌の読モをしているとかで、一部の生徒たちから崇拝に近い憧れを向けられているらしい。
そして、四人目は昨日の真面目なタイプの女子。身だしなみをキッチリとするような子だとクラスメートは言っていた。放課後に軽く調べたところ、彼女も一年生だった。
四人の共通点は一年生、もしくは一年生に関わっている者だ。
三人目までであれば、人気のある生徒というのが共通点だったがそれも四人目で崩れた。
真面目な生徒でも人気がある、ということもあるかもしれないが、昨日調べた限りではそのような話は聞かなかった。本人の姿も確認したが、キッチリと髪を一本に結んでいる真面目そうな子という印象しかなく、誰かに憧れを向けられているという様子もなさそうだ。
なので共通点となるキーワードは【一年生】となる。
だが、四人の特徴を何度も思い浮かべているうちにもう一つ共通点を見つけた。それは、見た目や身だしなみに気をつけている人物ということ。
一年生、身だしなみを気にしている、そしてあやかしが関わっているかもしれないという情報を線で繋ぎ、いくつかの可能性を考えた。その中で矛盾点がなく、確実に必要な要素を含んでいるものを残したとき一つの仮説が生まれた。
それを確かめるため、紫乃は一年の教室がある三階へと向かう。ただ、三階に到達する前――二階から三階へと上る階段の踊り場で足を止めた。
そして、壁に貼付くように備え付けられている大きな鏡を見る。
足下まで映るような大きな姿見。紫乃は、そのまま鏡に映る自分を見た。
真っ直ぐな伸ばしきった黒髪。肌は色白で、日陰にいると青ざめているようにも見える。可愛らしい莉乃とは違い、切れ長な目は冷たい印象を与えるだろう。
せめて愛想良く笑うことが出来ればいいのだろうが、意識して笑おうとすると頬が引きつってしまう。亡くなった祖父に『ちゃんと笑顔になれば可愛いのに』とよく残念がられたのを思い出して、鏡を見ながらニッコリと笑ってみる。
だが、鏡に映る自分はどう頑張って見ても笑顔を浮かべているようには見えない。せいぜい薄ら笑いといったところだろうか。怖いだけで、『可愛い』のかの字もない。
笑顔の練習は諦め、代わりにスカートの丈を気にしてみたり前髪を整えるような仕草をしてみた。それを続けていると、鏡の中の自分が突然不自然な動きをはじめる。
腕を上げているのに、鏡の中の自分は下げたままになっているのだ。
見た瞬間は驚いたが、それは自分の仮説が正しかったことの証明でもある。
紫乃は軽く目を細め、後退りするように鏡から離れた。
すると鏡の中の自分は離れるどころか近づいて来て、そのまま鏡から出て来てしまう。
(……わかっていても、実際に見ると異様な光景ね)
鏡に映ったモノが実体を持って出てくるなどあり得ないことだ。何故このような現象が起きているのか理解している自分でも異様だと思うのだ。遭遇したという生徒たちが倒れたり騒いだりしてしまうのは仕方のないことだろう。
鏡から出てきた紫乃は、本物の紫乃を見てニタリと笑う。その顔は先ほど笑顔の練習をしていたときと同じもので、紫乃は恐ろしさよりも恥ずかしさが勝った。
(ちょっ! その顔は止めてぇ!)
失敗した笑顔の練習を真似られて、紫乃は耳を赤くさせ足を動かす。鏡の自分の横を通り抜け、また鏡の前に来るとしゃがみ込んだ。
そして視えたモノに恥じらいをぶつけるように手刀を打ち込んだ。
「ぽむぅ!」
悲鳴なのか鳴き声なのか、よくわからない声を上げてソレは叩かれた頭を小さな手で押さえる。目にはほんのり涙が滲んでいるようだ。
同時に、後ろにいる鏡の紫乃の姿が消えた。
「う、うわぁん! なにするんだよぉ!」
中型犬ほどの大きさの、どこからどう見ても狸にしか見えないソレは思ったよりも流暢な言葉を口にする。
現世に入り込んできて悪さをするあやかしなど、人語を操れないくらい低位のモノだろうと思っていた紫乃は僅かに驚いた。驚いて、ポカンとしている間に狸は叫び続ける。
「そうか、おまえハライシってやつだろ!? オレをハラいにきたんだな!?」
しかもなにやら勘違いをし始めた。
(これは……どう説明するべきかしら?)
「私は祓い師ではないわ」
ひとまず、勘違いを正すことにした。
「私が持っている力は見鬼よ。祓い師が祓うのは、厄災となったあやかしだけ」
淡々と説明すると、狸はキョトンとするようにまん丸の黒目で紫乃を見上げる。そのまま数秒固まっていたかと思うと、突然飛び跳ねた。
「え? え? ほんとうに? ほんとうにケンキのヒトなのか?」
「当たり前でしょう? だから今こうして、厄災になっていなくてもあなたが視えているのよ?」
今こうして視て話しているのが証拠だと伝える。
すると狸は、今度は目を潤ませ感動の声を上げた。
「うわ、うわぁ! すごい! ほんとうにミえるんだ!? うれしいなぁ!」
狸の姿なのに、くるくると感情が移り変わるのがよくわかる。
あまりの無邪気さに、紫乃は思わずクスリと笑った。
(まさかこんな子がドッペルゲンガーの原因だなんてね)
そう、ここ最近あったドッペルゲンガーの正体はこの狸だ。
一年の教室に向かう途中にあるこの鏡。ここに潜み、よく鏡を見ている生徒の姿を真似て幻影を作り出していたのだろう。
ドッペルゲンガーを見たという一年の女子生徒たちは、よく通るここで身だしなみを整えたのだ。足下まで見える姿見は他にはないから。
二人目の三年男子は、莉乃に会いに行くためにここを通り身だしなみを整えていたと思われる。気になっている異性に会おうとする前に見た目を気にするのは、男女共通だろうから。
そうして作り出された幻影は、見鬼の力を持ちあやかしが視える自分以外には見破ることはできない。他の生徒たちは、得体の知れないモノとして恐れるしかなかったのだ。
とはいえ今はまだ悪戯の範囲で、厄災となるほどではない。だが、請われた祓い師が形式だけでも祓う行為をしてしまうと、あやかしは居場所を追われまた別の場所に根付くだけ。
祓われたと傷ついたあやかしが厄災となる一助をしてしまうだけなのだ。
「うれしいな! ミてもらえてる! きづいてくれた!」
狸のあやかしはひたすら喜び、しゃがんでいる紫乃の周りを踊るように回っている。
喜び過ぎではないだろうか? と思うが、紫乃が幼い頃から度々視てきたあやかしは人懐っこいモノばかりだった。
紫乃が視えると告げると、人に認知されたことをあやかしは喜ぶ。
あやかしは人が好きなのだろう。それが幼い頃からの紫乃の認識だった。
だが、あやかしといえば厄災のイメージしかない他の人々は紫乃の意見を拒絶する。
人が好きなあやかしが嫌われていることを可哀想に思い訴え続けると、今度はあやかしに魅入られたのだと哀れまれた。
厄災になる前のあやかしの姿が見えない人々には、この愛らしさを想像することも出来ないのだろう。
あやかしと人の溝は、埋められないのだ。
自分の贄としての運命と共に、どうにも出来ないことなのだと諦めるしかなかった。
とはいえ、この狸のように厄災になる前のあやかしを密かに助けることは出来る。
「ねえ、あなた名前はある?」
「おう! カガミっていうんだ。……もしかして、よんでくれるのか?」
名前を呼ぼうとしているだけで感動に打ち震えている狸――もとい、カガミ。
本当に人に認知されるのを喜びとしているのだとわかる。
「ええ。……カガミ、ここではなくて外に行かない? この学校には一人優秀な祓い師がいるの。私の妹なのだけど、このままではあの子に祓われてしまうわ」
だから今のうちに逃げなさい、と伝える。
だが、カガミはオロオロと右往左往し始めた。
「そ、そとにか? いけるのか? まよわずにでられるかな……」
あまりの狼狽えように話を聞くと、どうやらカガミは門をくぐり抜けた後現世をはしゃいで飛び回り、いつの間にかここにたどり着いたらしい。
そして校舎から出られなくなったと。
「……方向音痴?」
思わず言葉にする。いくら迷ったとはいえ、校舎から出る場所はたくさんある。重度の方向音痴でもなければ脱出出来るだろう。
なんにせよ、そういうことなら自分が連れて行くしかない。
「いいわよ、私も外に出るところだから。おいでカガミ」
手を差し出すと、カガミはするりと腕の中へ入ってくる。両手で抱えると丁度腕の中に収まった。モフモフが気持ちいい。
そのまま人気の少ない校舎から出て、登校しはじめた生徒たちとあまり会わないように学校から離れた。
カガミを下ろすと、紫乃はひとまず当初の予定通り祖父の書庫へと向かう。何も言わずともついてきたカガミにそういえば、と質問した。
「ねえ、どうして鏡に映った人の幻影を作り出していたの?」
「ん? だって、あのヒトたちジッとジブンのすがたをミてるんだ。それってジブンがすきだからだろ? だからおなじすがたをミせればよろこぶとおもったんだ」
「そう……」
(やっぱりか)
説明に頷きながら、顔を覆いたくなるような心地になる。
あやかしの人好きを思うと、そうなのではないかなと思っていた。だが、実際に聞くと無邪気すぎて……。
ひとまず、同じ間違いだけはしないように「人はそういうの、怖がってしまうから止めた方がいいわ」とだけ伝えた。
四本の足でトテトテとついてくるカガミは「そうなのか?」と器用に首を傾げている。その仕草を可愛いな、と見ているとカガミは突然足を止めた。そして前方を威嚇するように歯を見せる。
「……お前が、弦治の孫か?」
「え?」
低く、少々尊大さもあるような男の声が響く。
弦治の孫、という言葉にも反応する。弦治というのは亡くなった祖父の名だ。その孫ということは、自分が呼ばれたのだろう。
紫乃はカガミに向けていた視線を前方にもどし、突然現れた男を見た。
濡れ羽色で紗綾形模様の着流し姿の男性。漆黒の髪は後頭部は短いが、前髪は長く作られている。その長い前髪から覗く切れ長な目は、黒耀のように濃い色をしていた。通った鼻筋に、口には力強さを感じる笑みを浮かべている。
一見細身に見えるが、着流しから覗く腕にはしっかりと筋肉がついていた。
美丈夫、という言葉がピッタリ当てはまりそうな姿は、ただそこに佇むだけで人を魅了する。
だが、紫乃は魅せられるよりも警戒した。
なぜならその男は人ではなかったから。人の姿をしているが、紫乃の見鬼の力で視えた彼の姿は人とは言えなかった。
一瞬だが、重なるように本来の姿が視える。そのしっかりとした体躯の背中部分に、黒鳥のような翼が視えた。
その姿は祖父の蔵書で見たことがある。何百年も前に高位のあやかしの姿を描いたものだと聞いた。
「……天狗?」
零れ落ちるようにそのあやかしの種族を口にすると、目の前の男は美しく微笑んだ。
「ほう……お前も見鬼の力を持つか。そうだ、俺は烏天狗。名を嵐果という」
ランニングや飼い犬の散歩をしている人たちしか見かけない早朝の通学路。
紫乃は、祖父の書庫ではなく学校へと向かっていた。
書庫へも行くつもりだが、その前に学生がいない校内で確かめたいことがあるのだ。
以前から学校で噂されていたドッペルゲンガーを見たという話。
昨日のように噂話に聞き耳を立てたり、紫乃なりに調べた結果一つの結論に至った。それが正解なのかを確認するために、人の目がない時間帯に学校へ行っておきたいのだ。
「……別に、私が解決する必要はないのだけどね」
呟くが、謎があると知りたいと思ってしまうのだ。好奇心が疼くというよりは、ただ知りたいという欲求が強いかもしれない。
これは性分なのだろう。読書をしているときの、この先を知りたいという欲求と似ている。その欲求を解消するために、自分には関係ないと思いつつ首を突っ込まずにはいられないのだ。
それに、もし予想通りならば無垢なモノを守れるかもしれないという思いもあった。
学校に着くと、真っ直ぐに生徒玄関から校舎内に入る。
部活の朝練のために登校している生徒はいるだろうが、大体が運動部。外か体育館を使用するので、目的の場所にほぼ人は来ないだろう。
校内に入り、静かな廊下を進みながら今までドッペルゲンガーを見たと主張した生徒のことを思い出す。
はじめは一年の可愛らしいタイプの女子だった。可愛さだけで競えば莉乃と張り合えるほどの子で、自分の容姿を自覚しているのかよく手鏡をのぞき込んでいるらしい。
二人目は三年生の男子で、女子の人気はあるものの少々軽い印象の先輩だ。彼の友人たちの話を聞いたことがあるが、いつも女の尻を追っかけているのだという。ちなみに今は莉乃を追っかけているのだとか。莉乃には細賀慧という婚約者がいるというのに……無謀なことをするのだな、と紫乃は呆れ混じりに思った。
三人目はまた一年の女子だ。人気雑誌の読モをしているとかで、一部の生徒たちから崇拝に近い憧れを向けられているらしい。
そして、四人目は昨日の真面目なタイプの女子。身だしなみをキッチリとするような子だとクラスメートは言っていた。放課後に軽く調べたところ、彼女も一年生だった。
四人の共通点は一年生、もしくは一年生に関わっている者だ。
三人目までであれば、人気のある生徒というのが共通点だったがそれも四人目で崩れた。
真面目な生徒でも人気がある、ということもあるかもしれないが、昨日調べた限りではそのような話は聞かなかった。本人の姿も確認したが、キッチリと髪を一本に結んでいる真面目そうな子という印象しかなく、誰かに憧れを向けられているという様子もなさそうだ。
なので共通点となるキーワードは【一年生】となる。
だが、四人の特徴を何度も思い浮かべているうちにもう一つ共通点を見つけた。それは、見た目や身だしなみに気をつけている人物ということ。
一年生、身だしなみを気にしている、そしてあやかしが関わっているかもしれないという情報を線で繋ぎ、いくつかの可能性を考えた。その中で矛盾点がなく、確実に必要な要素を含んでいるものを残したとき一つの仮説が生まれた。
それを確かめるため、紫乃は一年の教室がある三階へと向かう。ただ、三階に到達する前――二階から三階へと上る階段の踊り場で足を止めた。
そして、壁に貼付くように備え付けられている大きな鏡を見る。
足下まで映るような大きな姿見。紫乃は、そのまま鏡に映る自分を見た。
真っ直ぐな伸ばしきった黒髪。肌は色白で、日陰にいると青ざめているようにも見える。可愛らしい莉乃とは違い、切れ長な目は冷たい印象を与えるだろう。
せめて愛想良く笑うことが出来ればいいのだろうが、意識して笑おうとすると頬が引きつってしまう。亡くなった祖父に『ちゃんと笑顔になれば可愛いのに』とよく残念がられたのを思い出して、鏡を見ながらニッコリと笑ってみる。
だが、鏡に映る自分はどう頑張って見ても笑顔を浮かべているようには見えない。せいぜい薄ら笑いといったところだろうか。怖いだけで、『可愛い』のかの字もない。
笑顔の練習は諦め、代わりにスカートの丈を気にしてみたり前髪を整えるような仕草をしてみた。それを続けていると、鏡の中の自分が突然不自然な動きをはじめる。
腕を上げているのに、鏡の中の自分は下げたままになっているのだ。
見た瞬間は驚いたが、それは自分の仮説が正しかったことの証明でもある。
紫乃は軽く目を細め、後退りするように鏡から離れた。
すると鏡の中の自分は離れるどころか近づいて来て、そのまま鏡から出て来てしまう。
(……わかっていても、実際に見ると異様な光景ね)
鏡に映ったモノが実体を持って出てくるなどあり得ないことだ。何故このような現象が起きているのか理解している自分でも異様だと思うのだ。遭遇したという生徒たちが倒れたり騒いだりしてしまうのは仕方のないことだろう。
鏡から出てきた紫乃は、本物の紫乃を見てニタリと笑う。その顔は先ほど笑顔の練習をしていたときと同じもので、紫乃は恐ろしさよりも恥ずかしさが勝った。
(ちょっ! その顔は止めてぇ!)
失敗した笑顔の練習を真似られて、紫乃は耳を赤くさせ足を動かす。鏡の自分の横を通り抜け、また鏡の前に来るとしゃがみ込んだ。
そして視えたモノに恥じらいをぶつけるように手刀を打ち込んだ。
「ぽむぅ!」
悲鳴なのか鳴き声なのか、よくわからない声を上げてソレは叩かれた頭を小さな手で押さえる。目にはほんのり涙が滲んでいるようだ。
同時に、後ろにいる鏡の紫乃の姿が消えた。
「う、うわぁん! なにするんだよぉ!」
中型犬ほどの大きさの、どこからどう見ても狸にしか見えないソレは思ったよりも流暢な言葉を口にする。
現世に入り込んできて悪さをするあやかしなど、人語を操れないくらい低位のモノだろうと思っていた紫乃は僅かに驚いた。驚いて、ポカンとしている間に狸は叫び続ける。
「そうか、おまえハライシってやつだろ!? オレをハラいにきたんだな!?」
しかもなにやら勘違いをし始めた。
(これは……どう説明するべきかしら?)
「私は祓い師ではないわ」
ひとまず、勘違いを正すことにした。
「私が持っている力は見鬼よ。祓い師が祓うのは、厄災となったあやかしだけ」
淡々と説明すると、狸はキョトンとするようにまん丸の黒目で紫乃を見上げる。そのまま数秒固まっていたかと思うと、突然飛び跳ねた。
「え? え? ほんとうに? ほんとうにケンキのヒトなのか?」
「当たり前でしょう? だから今こうして、厄災になっていなくてもあなたが視えているのよ?」
今こうして視て話しているのが証拠だと伝える。
すると狸は、今度は目を潤ませ感動の声を上げた。
「うわ、うわぁ! すごい! ほんとうにミえるんだ!? うれしいなぁ!」
狸の姿なのに、くるくると感情が移り変わるのがよくわかる。
あまりの無邪気さに、紫乃は思わずクスリと笑った。
(まさかこんな子がドッペルゲンガーの原因だなんてね)
そう、ここ最近あったドッペルゲンガーの正体はこの狸だ。
一年の教室に向かう途中にあるこの鏡。ここに潜み、よく鏡を見ている生徒の姿を真似て幻影を作り出していたのだろう。
ドッペルゲンガーを見たという一年の女子生徒たちは、よく通るここで身だしなみを整えたのだ。足下まで見える姿見は他にはないから。
二人目の三年男子は、莉乃に会いに行くためにここを通り身だしなみを整えていたと思われる。気になっている異性に会おうとする前に見た目を気にするのは、男女共通だろうから。
そうして作り出された幻影は、見鬼の力を持ちあやかしが視える自分以外には見破ることはできない。他の生徒たちは、得体の知れないモノとして恐れるしかなかったのだ。
とはいえ今はまだ悪戯の範囲で、厄災となるほどではない。だが、請われた祓い師が形式だけでも祓う行為をしてしまうと、あやかしは居場所を追われまた別の場所に根付くだけ。
祓われたと傷ついたあやかしが厄災となる一助をしてしまうだけなのだ。
「うれしいな! ミてもらえてる! きづいてくれた!」
狸のあやかしはひたすら喜び、しゃがんでいる紫乃の周りを踊るように回っている。
喜び過ぎではないだろうか? と思うが、紫乃が幼い頃から度々視てきたあやかしは人懐っこいモノばかりだった。
紫乃が視えると告げると、人に認知されたことをあやかしは喜ぶ。
あやかしは人が好きなのだろう。それが幼い頃からの紫乃の認識だった。
だが、あやかしといえば厄災のイメージしかない他の人々は紫乃の意見を拒絶する。
人が好きなあやかしが嫌われていることを可哀想に思い訴え続けると、今度はあやかしに魅入られたのだと哀れまれた。
厄災になる前のあやかしの姿が見えない人々には、この愛らしさを想像することも出来ないのだろう。
あやかしと人の溝は、埋められないのだ。
自分の贄としての運命と共に、どうにも出来ないことなのだと諦めるしかなかった。
とはいえ、この狸のように厄災になる前のあやかしを密かに助けることは出来る。
「ねえ、あなた名前はある?」
「おう! カガミっていうんだ。……もしかして、よんでくれるのか?」
名前を呼ぼうとしているだけで感動に打ち震えている狸――もとい、カガミ。
本当に人に認知されるのを喜びとしているのだとわかる。
「ええ。……カガミ、ここではなくて外に行かない? この学校には一人優秀な祓い師がいるの。私の妹なのだけど、このままではあの子に祓われてしまうわ」
だから今のうちに逃げなさい、と伝える。
だが、カガミはオロオロと右往左往し始めた。
「そ、そとにか? いけるのか? まよわずにでられるかな……」
あまりの狼狽えように話を聞くと、どうやらカガミは門をくぐり抜けた後現世をはしゃいで飛び回り、いつの間にかここにたどり着いたらしい。
そして校舎から出られなくなったと。
「……方向音痴?」
思わず言葉にする。いくら迷ったとはいえ、校舎から出る場所はたくさんある。重度の方向音痴でもなければ脱出出来るだろう。
なんにせよ、そういうことなら自分が連れて行くしかない。
「いいわよ、私も外に出るところだから。おいでカガミ」
手を差し出すと、カガミはするりと腕の中へ入ってくる。両手で抱えると丁度腕の中に収まった。モフモフが気持ちいい。
そのまま人気の少ない校舎から出て、登校しはじめた生徒たちとあまり会わないように学校から離れた。
カガミを下ろすと、紫乃はひとまず当初の予定通り祖父の書庫へと向かう。何も言わずともついてきたカガミにそういえば、と質問した。
「ねえ、どうして鏡に映った人の幻影を作り出していたの?」
「ん? だって、あのヒトたちジッとジブンのすがたをミてるんだ。それってジブンがすきだからだろ? だからおなじすがたをミせればよろこぶとおもったんだ」
「そう……」
(やっぱりか)
説明に頷きながら、顔を覆いたくなるような心地になる。
あやかしの人好きを思うと、そうなのではないかなと思っていた。だが、実際に聞くと無邪気すぎて……。
ひとまず、同じ間違いだけはしないように「人はそういうの、怖がってしまうから止めた方がいいわ」とだけ伝えた。
四本の足でトテトテとついてくるカガミは「そうなのか?」と器用に首を傾げている。その仕草を可愛いな、と見ているとカガミは突然足を止めた。そして前方を威嚇するように歯を見せる。
「……お前が、弦治の孫か?」
「え?」
低く、少々尊大さもあるような男の声が響く。
弦治の孫、という言葉にも反応する。弦治というのは亡くなった祖父の名だ。その孫ということは、自分が呼ばれたのだろう。
紫乃はカガミに向けていた視線を前方にもどし、突然現れた男を見た。
濡れ羽色で紗綾形模様の着流し姿の男性。漆黒の髪は後頭部は短いが、前髪は長く作られている。その長い前髪から覗く切れ長な目は、黒耀のように濃い色をしていた。通った鼻筋に、口には力強さを感じる笑みを浮かべている。
一見細身に見えるが、着流しから覗く腕にはしっかりと筋肉がついていた。
美丈夫、という言葉がピッタリ当てはまりそうな姿は、ただそこに佇むだけで人を魅了する。
だが、紫乃は魅せられるよりも警戒した。
なぜならその男は人ではなかったから。人の姿をしているが、紫乃の見鬼の力で視えた彼の姿は人とは言えなかった。
一瞬だが、重なるように本来の姿が視える。そのしっかりとした体躯の背中部分に、黒鳥のような翼が視えた。
その姿は祖父の蔵書で見たことがある。何百年も前に高位のあやかしの姿を描いたものだと聞いた。
「……天狗?」
零れ落ちるようにそのあやかしの種族を口にすると、目の前の男は美しく微笑んだ。
「ほう……お前も見鬼の力を持つか。そうだ、俺は烏天狗。名を嵐果という」