「ねえ、また見た子がいるんだって!」
 ガラリとドアを開け入ってきた女子生徒が、すぐさま友人たちに歩み寄る。その表情は、面白い情報を仕入れたと言わんばかりに喜色を浮かべていた。
「またって、あのドッペルゲンガー?」
 教室内にいた彼女の友人たちの一人が呆れたように受け答えすると、机二つ分ほど離れた席にいた紫乃(しの)は耳をピクリと動かした。
「そうそう! 昼休みに見ちゃったって子が保健室に運ばれたらしいよ」
「でもさぁ、それってただ単に見た目が似てたってだけじゃないの? 大体見たって言ってる人たち、派手目な人ばっかりじゃん」
 友人たちはあまり信じていないのか、口々に気のせいなのではないかと話し出す。
 開いたままの本のページをめくることなく、聞き耳を立てていた紫乃もその言葉に内心頷いた。
(今までの子たちは、たしかに洒落っ気がある人ばかりだものね)
 実際ドッペルゲンガーを見たと主張しているのは派手な子ばかりで、学生の一部には彼らのようになりたいと髪型やファッションを真似る子もいる。
 そうして頭の先からつま先まで完璧に真似たコーデをした子がいたというだけではないか、というのが一番多い意見だ。
 だが、今回は違ったらしい。
「それがさあ、今日見たって言ってるのはむしろ地味な子なんだって! 真面目で身だしなみもキチッとしているような子!」
(……へぇ?)
 今までとは違う新たな情報に、紫乃は思わず顔を上げた。聞き耳を立てるだけでなく、話している彼女たちを見る。
「ふーん……ってことは、あやかしの仕業ってこと? 厄災になってるのかな?」
「やだぁ! それって本気でヤバイじゃん」
 厄災とは、現世と呼ばれるこちら側に入り込んだあやかしが、時を経て人々に害をなす存在に成り果てたモノのことだ。
 人の目に見えぬあやかしだが、厄災となるとその身が黒ずみ見えるようになる。
 原理はわかっていないが、あやかしが住む幽世で人が生きていけないのと同様、現世はあやかしにとって生きていけない環境なのだろうと予測されている。それ故、長く現世にいたあやかしは死へと向かう苦しみにより厄災を撒き散らす存在になってしまうのだろう、と。
 そうして生まれたモノだからだろうか、厄災は小さなモノでも事故を起こす原因になる。大きなモノだと災害級にもなり、人への被害は甚大だ。
 それらに対抗するのは、祓い師と呼ばれる職業の人たち。厄災を祓う才を持つ者達だ。
 そんな祓い師が、この学校にも一人いる。
 騒ぎ立てていた彼女たちも気づいたのだろう、その祓い師の存在を。
「あ、でも大丈夫でしょ。一年に優秀な祓い師の女子生徒がいるんだから」
莉乃(りの)さんのこと? 確かにね。祓い師の筆頭である細賀(さいが)家の次期当主に見初められたほどだもん。かなり優秀な祓い師なんじゃない?」
 厄災の話題で恐々となりかけた雰囲気も、莉乃の話となると明るい話題へと変わる。
 そして莉乃の話となると、決まって紫乃にも矛先が向くのだ。
「本当、彼女の姉とは大違い」
「そうだね、視えるだけ(・・・・・)なんてなんの役にも立たないし」
(ああ、またか)
 軽くうんざりした紫乃は、こちらに視線を向けてくる彼女たちに気づかれないように変わり映えのしないページの本に視線を落とす。読んではいなかったが、パフォーマンスでページを捲った。
 そう、一年の優秀な祓い師の莉乃とは、紫乃の妹でもあるのだ。
 気づかないふりをし、視線は文字をなぞる。聞きたいことは聞けたのでもう読書に集中しようとするが、それでも嘲笑の声は聞こえてきた。
「見鬼の力だっけ? 視えて祓えるなら厄災も事前に消せるんだろうけど。祓えないなら役立たずには変わりないよね」
「まあまあ、一応門の維持のための生け贄っていう役割があるじゃん」
「それは可哀想だけどねー」
 嘲笑の合間にとってつけたような哀れみが混じる。
 この現世とあやかしが住む幽世の間には世を隔てる門がある。その門は神と呼ばれる存在か力の強いあやかししか開けることが出来ないため、厄災の元となるあやかしたちが現世に入り込むのを防いでくれている。
 ただ、稀に力の強いあやかしが門を開けた際その隙間をくぐり抜けて少々入り込んで来てしまうが。
 その門の維持のため、あやかしを見ることが出来る見鬼の力を持ち生まれてきた者は十八になると贄として命を落とす。
 人が捧げるわけではない。門そのものが見鬼の力の持ち主を呼ぶのだという。
 ある者は門の維持ためとあやかしに連れ去られ、またある者は門に呼ばれているとフラフラ自ら向かう。
 どういう経緯だとしても、最終的には門に吸い込まれるように消え二度と戻ってこないのだ。
 一部の残された者は門の向こうで生きているかもしれないと言うが、門の向こう――幽世は人の住めない場所である。ほとんどの者は門に喰われて死んだのだと判断した。
(……いずれ、私も)
 見鬼の力を持って生まれてきた紫乃は、今十七になったばかり。
 門に喰われてしまうまで、あと一年もなかった。
 幼い頃からわかっていたことなので取り乱すことはないが、寿命を意識してしまうと心が昏く濁る。
 心の奥で(こご)ってしまうほど蓄積された濁りから意識を逸らすように、紫乃は物語の世界へと没頭した。

***

 早朝、早くに目覚めた紫乃は寝間着代わりの浴衣からすぐ制服に着替え台所へと向かった。
 古めかしい木造の家は、手入れされているとはいえところどころ床板が軋む。紫乃はあまり音を鳴らさないようにとすり足で歩いた。
 この家・和泉(わいずみ)家は、かつて有力な祓い師を輩出していた歴史を持つ。だが、徐々に力ある者が生まれなくなり、現代では老舗呉服店を生業にしていた。
 老舗であるため顧客も多くそれなりに裕福な家庭ではあるが、かつては祓い師の家系だったという矜持があるのだろう。久方ぶりにその才を持ち生まれた莉乃は、両親からたっぷりと愛情を注がれている。
(私とは真逆だわ)
 幼い頃からすり切れるほど何度も思ったことを頭に浮かばせると、丁度台所に着いた。
 そっと覗き込むと、トントントンと小気味よく包丁を鳴らす着物姿の母の背中が見える。早くも朝食を作り終え、昼と夜の仕込みをしているようだ。
 紫乃は母に声を掛けることなく、盆に載せられた自分用の朝食を持ち部屋に戻った。
 食事は用意してもらえるが、共に食卓を囲むことは許されていない。特に母には出来る限り顔を見せるなと言われている。
 幼いころには何故? と泣きながら訴えたこともあったが、母は自分と目を合わせることもなく言ったのだ。
『お前はいずれいなくなるのに、愛したら辛くなるでしょう?』
 と……。
 だから愛さないのだ。だから顔も合わせたくないのだと、紫乃を拒絶した。
 母の立場になってみればその心持ちはわからないでもないが……だからと言って納得出来るものでもない。
 受け入れられないと訴えぶつかっていくことも出来たかもしれないが、最終的に自分がいなくなってしまうことは変えることの出来ぬ未来。ぶつかってもその怒りや悲しみを受けることすらしてくれない母に、紫乃はいつしか傷つくことを恐れ顔を合わせることもしなくなった。
(食事を用意してもらえるだけ、マシなのかもしれないわね)
 いつものように部屋で寂しく朝食を食べ終えた紫乃は、そのまますぐに家を出る準備を始めた。

「あら? 早いのね、姉さん」
 玄関に向かう途中、起きて着替えたばかりという出で立ちの莉乃と鉢合わせしてしまう。
 制服のネクタイはまだ緩められている状態で、いつも結い上げている明るい色の柔らかな髪は今はまだ下ろされている。そんな少々だらしのない格好でも、目鼻立ちがハッキリとして可愛らしい印象を受ける莉乃は、美少女といっても差し支えのない少女だ。
 細賀家次期当主の(けい)に見初められたのも、祓い師の才だけでなくこの美しさあってのことだろう。
 紫乃も、普通に育っていれば両親と同じく彼女を自慢の妹と思えただろう。だが、見鬼の力を持ち生まれてしまった故に普通とは言えない少女時代を過ごしている紫乃は、莉乃のことを素直に自慢に思うことが出来ない。
 莉乃自身も、いずれいなくなるからと蔑ろにされてきた紫乃を敬う姉とは思っていない。
 とはいえ、紫乃が家族の中でまともに会話できるのは莉乃だけだ。母は話すどころか滅多に顔すら合わせないし、父は用事があるときしか話しかけては来ない。紫乃の方から声を掛けても無視をするのだから。
「ええ、おじいちゃんの書庫に寄りたくて」
「ふーん。ま、私は興味ないけど……お父さんに処分するよう言われてたでしょう? 少しくらいは進んだの?」
「それは……おじいちゃんの蔵書、貴重なものもあるから」
 ひと月と少し前に亡くなった紫乃たちの祖父は大の読書家だった。祖父の書庫には、最近のラノベから純文学、自己啓発やビジネス書、とうに絶版となった資料本までと幅広い蔵書がある。
 親族の中で紫乃に優しくしてくれたのはその祖父だけだったこともあり、必然的に共に過ごす時間が多かった。紫乃が祖父と同じく本好きになるのは必然だろう。
 そんな状態だったのと、両親や他の親族が蔵書の処分を面倒がったことで管理を紫乃が一任された。
 とはいえ、紫乃に残された時間も約一年。その間に処分しろというのが父の命令だった。
「貴重なものなら、さっさと売っちゃえばいいじゃない。他はどうせ捨てることになるんだし」
「……」
 本にそこまでの価値を持っていない莉乃にとって、気になるのはせいぜい売れるかどうかくらいだ。売れない物は捨ててしまえなどと、本好きの紫乃からすればなんて酷いことを! と思うようなことを気軽に口にする。
 何か反論したい気分になるが、姉を下に見ている莉乃がまともに取り合うことなどない。
「早くしないと時間切れになるわよ」
 と言い残した莉乃は、家族で朝食を取るために父と母が待つ部屋へと行ってしまった。
 老舗呉服店の娘として、そして祓い師を目指す者として真っ直ぐ背筋を伸ばし歩く莉乃。甘やかされ、我が儘な性格ではあっても美しく自信に満ちた彼女を見送った紫乃は、言えなかった全ての言葉を吐き出すようにため息をつき家を出た。
 外は晴れ渡っていたが、まだまだ春先という時期。早朝ということもあり、まだ肌寒さが残っていてカーディガンでも羽織ってくれば良かったと後悔した。
 戻って取ってくることも出来なくはないが、いま中では紫乃だけを外した家族三人が仲良く食卓を囲んでいる。そんな家の中に入りたいとは思えなかった。
 あの三人に家族の情を求めても無駄なのだ。わかりきっている。彼らとの繋がる糸は血だけだが、何よりも強いはずのそれは辛うじて家族と言える理由にしかなっていない。
 奥底で凝った濁りに、また昏さが積もりそうになった紫乃は胸元からペンダントを引っ張り出した。
 琥珀を加工したペンダントは祖父がいつも身につけていたものだ。亡くなる前に預かって欲しいと渡されたのだが、そのまま形見となってしまった。
 返せなかったな、と思う反面、預かったままでいて良かったとも思う。
 祖父と、祖父に読ませてもらった本たちだけが自分を支えてくれた。祖父が亡くなり支えが減ってしまった今、祖父を思い出せる琥珀のペンダントが紫乃を現世(ここ)に繋ぎ止めてくれている。
 辛うじて残ったこの糸は、いつまで持つのだろうか?
 贄としての運命が先か、凝った濁りの重さに耐えかねた糸が切れて、早々に旅立ちを選んでしまうのが先か。
 晴れた薄青の空を見上げる。どこまでも遠く広い空が、今は水面のように見え自分が沈んでいっているかのように感じた。