幾年分の涙を流し続けたその夜明け――アマリは発熱して体調を崩し、再び休養する事になった。凍てついた中を薄着で飛び出し、回復して間もない身体で花能を使った為だ。
が、前回とは様々な事が変わった。対面の度に警戒し、探り合っていた荊祟は、時間が出来ると離れにやって来て、様子を見に来るようになった。
長である彼は、やはり多忙らしいが、そんな中に来てくれる事が不思議だったが、ほのかな嬉しさも感じていた。眠っている間の来訪だった時は、若干残念に思う位に……
戻って開口一番に詫びたアマリを許し、優しく迎えてくれたカグヤとの食事の時間も和やかになった。
実家での食事はいつも独りだったが、今は務めとはいえ傍にいてくれて、心から自分を案じてくれる者と一緒だ。それだけでより美味しく感じ、感謝の念さえ覚え出す。共に『いただきます』と手を合わせ、箸をとる瞬間が、アマリには貴重だった。
脱走した夜から、ずっと混乱している。尊巫女としての自分と、この界の者達に救われた自分が、同時に存在する事実……
そんな中、新たな暮らしがぎこちなくも始まった。
一週間弱が経ち、体調が回復した頃、荊祟からの伝言を聞いた。御用達の呉服屋を呼ぶから、着物を仕立てる布地を選べという事だった。居候の身だと遠慮するアマリに、カグヤは苦笑しながら付け足す。
「ずっと客人用のお着物でしたからね。ですが、噂が広まっているので、暫くは迂闊に外に連れてゆけないので申し訳ないとの事です」
そもそも、この屋敷には女物の着物が一枚も無かった。くノ一は忍装束、女中は通いの者だからだという。荊祟の親姉妹はおらず、貸せる物は無いらしい。
彼は人族との混血だ。おそらく、母親は尊巫女……先に厄界に出され、伴侶になった者。どんな人柄、異能を持っていたのかが気になる。神族、特に長の寿命は長いと聞いていたが、何故、父である先代もいないのだろう……
――あの方は、どのくらいの年月を、たったお一人で過ごしていらしたのかしら……
彼にも事情があるのだろうと察していたが、以前の自分の生き方と比べてしまう。種族も環境も、生まれ持った能力も違う。しかも、人族の天敵……
それでも、妖厄神――荊祟の在り方を、そんな風に捉えている自分に戸惑う。『もっと彼の事を知りたい』と、無意識に願っていた。
二日後。呉服屋の主人と共に、荊祟が離れまでやって来た。貫禄ある年配の彼は、大きな荷物を抱えた従者を連れている。
「長様。この度のお気遣い、誠に感謝致します」
「気にするな。大した品を与える訳ではない」
丁重に頭を下げ、礼を述べるアマリに、荊祟は素っ気なく返す。上等な晴れ着ではなく、日用の小袖を数着作るとの事だが、それでも居たたまれなかった。
「はは、荊祟殿。こちらは仰天致しましたぞ。久方ぶりのお呼びでございました故、何事かと思いましたら、女の着物をご所望との事。しかも、噂の尊巫女様ではないですか」
主人に言われ、居心地悪そうに目を反らした彼に、不覚にもアマリの胸は高鳴り、じわり、と温もる。尊巫女の存在をよく思わない者もいると聞いていたが、この男からは敵意を感じない。
現れた鮮やかな反物の数々に視界が彩られ、アマリは圧倒された。梅、水仙、椿などの旬の花柄で、更に華やぐ。
「さあ、いかがなさいます? 貴女様でしたら……桃や淡い紫、瞳のお色……瑠璃を基調にしたのやら、花を刺繍した衣が、大変お似合いかと存じます」
「……申し訳ございません。何を選べば良いか……」
饒舌に品を勧めてくる主人に、アマリは困り果てた。申し訳なさと情けなさで小さくなっている。
「それに……本当に似合うでしょうか……」
「合う合わないは気にするな。好む色や柄で良い」
「好む、色……」
荊祟の言葉に、更に頭の中が真っ白になった。考えられない、浮かばない以前に、停止して動かない。ずっと、正装から日常の衣、装飾品まで全て、母や侍女の選択に任せていた。
自分が何を好むか、どんな趣向かなど、気にした事もなかった。そんな自由すらなかったのだ。
「……暫くは、屋敷内でしか着ない代物だ。好きに選べ」
珍しく優しい言葉をかけてくれる荊祟に、アマリはますます困惑する。色とりどりの反物を、一つ一つ、丁寧に凝視するしかなかった。
ふと、柔らかな麹色の布地に、薄紅の山茶花が所々、控えめに刺繍されている反物が目にとまった。見る事が叶わなかった、憧れの花……
「これが良いのか?」
じっ、と憑かれたように見入るアマリに気づき、荊祟は尋ねる。我に返り、慌てて頷く彼女に、主人と傍にいたカグヤが微笑む。
その後は、いつまで経っても選べなかったので、荊祟が残り二着を選んだ。曙色という、淡い桃色に白梅が刺繍された衣と、葵色と月白の格子柄の衣だ。
「暫くかかりますが、なるべく早くお届け致します故、どうかご容赦を」
丁寧に詫びつつ、満足したように帰って行く主人等を見送った後、アマリは恐る恐る、切り出した。
「あの方……私に敵意を向けられていませんでした」
「あれとは父の代から付き合いがある。信頼関係のある男だ。これまでの事、お前の人となりを話した所、少なくとも、自ら我らに害をなす事は無いと理解してくれた」
自分を信用してくれた事がわかり、不意に胸の奥が温まる。だが、暗に自害を促した側近始め、ここに滞在する事を懸念する者もいるだろう。
「……お前と話した側近の件は、カグヤから聞いた。あの男も父の代から仕えている者だ。俺と界を案じてだろうが……」
そんなアマリの心境を読んだように、荊祟は苦い顔で続ける。
「いえ……致し方ない事だと考えております。私がこの界の不安要素である事には変わりませんから」
「災厄を免れたくお前を差し出した者達が、戦という大惨事を自ら引き起こすとは思えん。何か苦言は申してくるだろうがな。奴らが余程の阿呆でなければ、の話だが」
はっ、と厄神を見た。少なくとも、最悪の事態を招かず済むなら、まだ救いがある。
「奴には同じ事を言い含めた。お前が何か仕出かさない限り、ここに居る事は許可するだろう」
「長様…… 本当にありがとうございます。どうお返ししたら良いか……」
「決めたのは俺だ。お前が気に病む必要は無い。それより」
深々と頭を下げ、改めて礼を言うアマリに、荊祟は不可解な意を向ける。
「自分の着物一つ選べないのは、相当だな」
心底情けなくなったアマリには、返す言葉がない。
「これから少しずつ訓練したら良い。自分の意思を持て、と言ったろう」
「はい……ありがとうございます」
言葉は厳しいが、気遣いや優しさが含まれている事に気づいてから、彼に安堵を抱き始めていた。
が、前回とは様々な事が変わった。対面の度に警戒し、探り合っていた荊祟は、時間が出来ると離れにやって来て、様子を見に来るようになった。
長である彼は、やはり多忙らしいが、そんな中に来てくれる事が不思議だったが、ほのかな嬉しさも感じていた。眠っている間の来訪だった時は、若干残念に思う位に……
戻って開口一番に詫びたアマリを許し、優しく迎えてくれたカグヤとの食事の時間も和やかになった。
実家での食事はいつも独りだったが、今は務めとはいえ傍にいてくれて、心から自分を案じてくれる者と一緒だ。それだけでより美味しく感じ、感謝の念さえ覚え出す。共に『いただきます』と手を合わせ、箸をとる瞬間が、アマリには貴重だった。
脱走した夜から、ずっと混乱している。尊巫女としての自分と、この界の者達に救われた自分が、同時に存在する事実……
そんな中、新たな暮らしがぎこちなくも始まった。
一週間弱が経ち、体調が回復した頃、荊祟からの伝言を聞いた。御用達の呉服屋を呼ぶから、着物を仕立てる布地を選べという事だった。居候の身だと遠慮するアマリに、カグヤは苦笑しながら付け足す。
「ずっと客人用のお着物でしたからね。ですが、噂が広まっているので、暫くは迂闊に外に連れてゆけないので申し訳ないとの事です」
そもそも、この屋敷には女物の着物が一枚も無かった。くノ一は忍装束、女中は通いの者だからだという。荊祟の親姉妹はおらず、貸せる物は無いらしい。
彼は人族との混血だ。おそらく、母親は尊巫女……先に厄界に出され、伴侶になった者。どんな人柄、異能を持っていたのかが気になる。神族、特に長の寿命は長いと聞いていたが、何故、父である先代もいないのだろう……
――あの方は、どのくらいの年月を、たったお一人で過ごしていらしたのかしら……
彼にも事情があるのだろうと察していたが、以前の自分の生き方と比べてしまう。種族も環境も、生まれ持った能力も違う。しかも、人族の天敵……
それでも、妖厄神――荊祟の在り方を、そんな風に捉えている自分に戸惑う。『もっと彼の事を知りたい』と、無意識に願っていた。
二日後。呉服屋の主人と共に、荊祟が離れまでやって来た。貫禄ある年配の彼は、大きな荷物を抱えた従者を連れている。
「長様。この度のお気遣い、誠に感謝致します」
「気にするな。大した品を与える訳ではない」
丁重に頭を下げ、礼を述べるアマリに、荊祟は素っ気なく返す。上等な晴れ着ではなく、日用の小袖を数着作るとの事だが、それでも居たたまれなかった。
「はは、荊祟殿。こちらは仰天致しましたぞ。久方ぶりのお呼びでございました故、何事かと思いましたら、女の着物をご所望との事。しかも、噂の尊巫女様ではないですか」
主人に言われ、居心地悪そうに目を反らした彼に、不覚にもアマリの胸は高鳴り、じわり、と温もる。尊巫女の存在をよく思わない者もいると聞いていたが、この男からは敵意を感じない。
現れた鮮やかな反物の数々に視界が彩られ、アマリは圧倒された。梅、水仙、椿などの旬の花柄で、更に華やぐ。
「さあ、いかがなさいます? 貴女様でしたら……桃や淡い紫、瞳のお色……瑠璃を基調にしたのやら、花を刺繍した衣が、大変お似合いかと存じます」
「……申し訳ございません。何を選べば良いか……」
饒舌に品を勧めてくる主人に、アマリは困り果てた。申し訳なさと情けなさで小さくなっている。
「それに……本当に似合うでしょうか……」
「合う合わないは気にするな。好む色や柄で良い」
「好む、色……」
荊祟の言葉に、更に頭の中が真っ白になった。考えられない、浮かばない以前に、停止して動かない。ずっと、正装から日常の衣、装飾品まで全て、母や侍女の選択に任せていた。
自分が何を好むか、どんな趣向かなど、気にした事もなかった。そんな自由すらなかったのだ。
「……暫くは、屋敷内でしか着ない代物だ。好きに選べ」
珍しく優しい言葉をかけてくれる荊祟に、アマリはますます困惑する。色とりどりの反物を、一つ一つ、丁寧に凝視するしかなかった。
ふと、柔らかな麹色の布地に、薄紅の山茶花が所々、控えめに刺繍されている反物が目にとまった。見る事が叶わなかった、憧れの花……
「これが良いのか?」
じっ、と憑かれたように見入るアマリに気づき、荊祟は尋ねる。我に返り、慌てて頷く彼女に、主人と傍にいたカグヤが微笑む。
その後は、いつまで経っても選べなかったので、荊祟が残り二着を選んだ。曙色という、淡い桃色に白梅が刺繍された衣と、葵色と月白の格子柄の衣だ。
「暫くかかりますが、なるべく早くお届け致します故、どうかご容赦を」
丁寧に詫びつつ、満足したように帰って行く主人等を見送った後、アマリは恐る恐る、切り出した。
「あの方……私に敵意を向けられていませんでした」
「あれとは父の代から付き合いがある。信頼関係のある男だ。これまでの事、お前の人となりを話した所、少なくとも、自ら我らに害をなす事は無いと理解してくれた」
自分を信用してくれた事がわかり、不意に胸の奥が温まる。だが、暗に自害を促した側近始め、ここに滞在する事を懸念する者もいるだろう。
「……お前と話した側近の件は、カグヤから聞いた。あの男も父の代から仕えている者だ。俺と界を案じてだろうが……」
そんなアマリの心境を読んだように、荊祟は苦い顔で続ける。
「いえ……致し方ない事だと考えております。私がこの界の不安要素である事には変わりませんから」
「災厄を免れたくお前を差し出した者達が、戦という大惨事を自ら引き起こすとは思えん。何か苦言は申してくるだろうがな。奴らが余程の阿呆でなければ、の話だが」
はっ、と厄神を見た。少なくとも、最悪の事態を招かず済むなら、まだ救いがある。
「奴には同じ事を言い含めた。お前が何か仕出かさない限り、ここに居る事は許可するだろう」
「長様…… 本当にありがとうございます。どうお返ししたら良いか……」
「決めたのは俺だ。お前が気に病む必要は無い。それより」
深々と頭を下げ、改めて礼を言うアマリに、荊祟は不可解な意を向ける。
「自分の着物一つ選べないのは、相当だな」
心底情けなくなったアマリには、返す言葉がない。
「これから少しずつ訓練したら良い。自分の意思を持て、と言ったろう」
「はい……ありがとうございます」
言葉は厳しいが、気遣いや優しさが含まれている事に気づいてから、彼に安堵を抱き始めていた。