翌日の夕刻。『長様が夕刻に御会いに来られるので部屋でお待ち下さい』と、今朝言われたアマリは狼狽えていた。非情な厄神と聞いていたが、何故か生かされているという不気味な現状……
 (ふすま)越しのカグヤの声掛けにもびくつく。急いで客人用の羽織を着込み、素顔のまま正座した。
「は、はい」
 返答と同時に襖が開き、慌てて頭を下げる。見覚えのある漆黒の履き物が、忍びやかな足取りで入って来た。
「顔は上げてよい」
 あの夜より落ち着きある口調で促す青年の声。その魅惑的な低音に惹かれるようにアマリは顔を上げ、息を呑んだ。
 素顔を晒している彼の()は、澄んだ琥珀色だった。あの夜は稲妻のような眼光を放っていたが、同じ藍鼠色の長着物に鋭利な眉、笹形の耳、非対称に分けられた濃灰の髪が、同一人物だと判別させた。
 黒地の首巻きで隠れていた肌は小麦色。すっ、と通った鼻筋、きつく結ばれた薄めの唇。腰元には日本刀。荒く野性的な気を纏うが、顔立ちや眼差しは涼やかという魅力を兼ねている。
 そんな妖厄神――荊祟の出で立ちに、アマリは状況を忘れ、見入ってしまった。
「回復したらしいな」
「は、はい…… お陰様でこの通り……」
 少し離れた場に胡座をかき、彼は声を掛ける。我に返ったアマリは、少し目を伏せ、なるべく丁寧に応えた。
「だな。この状況で踊る位、余裕綽々(しゃくしゃく)のようだ」
 容赦なく皮肉を投げる厄神。黎玄の存在には後に気づいたので、昨日の行いも知られているだろうとは思っていたが、決まり悪い。
「も、申し訳ありません。いつもなら仕事か稽古の刻だったので……どう過ごしたら良いか……」
()()、か」
 しまった、とアマリは迂闊(うかつ)さを呪った。この厄神は企てをどこまで感づいているのだろう。
「いえ、大した事では……」
「よい。どうせ、今回の件に関するのだろう」
 ふん、と彼は軽く鼻を鳴らす。図星の状況に最適な返答が判らず、アマリは俯く。元々、上手く誤魔化すという所業は苦手な性分だが、どんな小手先も彼には通じない、殺伐した気が漂っている。

「あの…… (おさ)様」
 妖厄神とも、『ケイスイ』とも、さすがに口にしづらく、アマリは無難な呼び方をした。
「何だ」
「あの夜、助けて頂きありがとうございました」
 改めて、両手を前に頭を下げた。荊祟は胡散臭げに猜疑(さいぎ)の眼差しを向ける。
「その後も看病して、生かして下さり……驚きました」
「お前の為ではない。奴らの所業を見逃すと、界の秩序が乱れる。故に処罰したまで」
「お察ししております。ですが、身を守れたのは事実でございますから」
 あくまで義務で不本意な行いなのは理解していたが、それだけは礼を言いたかった。
「めでたい頭だな。お前が厄介な存在なのも事実だ」
 ばっさり辛辣に返し、珍妙な生物を見るように、荊祟はアマリを凝視する。
「承知しております」
「……お前は、民に崇められる『尊巫女』なのだな。どこまでも」
 皮肉めいた口調で呟き、口角を歪める。
「お前を襲った奴らから聞いた。あの尊巫女は、俺を『妖厄神()』と呼んでいたと。わざわざ此処に送り込む位だ。相当、狡猾か酔狂な女を寄越したのだろうと考えていたが……」
 一呼吸した後、言い放つ。
「『清廉な尊巫女』として、髪から爪先に至るまで培養された人族の女、だな」
 内心、情けなく思っていた自身の在り方を見抜かれ、言い当てられてしまった。惨めな思いがアマリの胸を締め付け、いたたまれなくなる。この相手に遠慮は要らぬとふんだのか、煽って試しているのか……
 一転、少し腹立たしくなり、ずっと問いたかった事を吐き出す。
「あ、貴方こそ……変わった神様でいらっしゃいます。喰う事も、殺す事もなさらない。私の存在などお邪魔でしょう?」
 一寸の沈黙が流れた後、ぽつり、と荊祟は呟く。
「どんなに忌まれようが疎まれようが、神族の長だ。無意味な殺生はしない」
 彼の答えに驚き、アマリは彼の琥珀の瞳を凝視した。嘘偽りを()く眼差しではない。彼は無差別に人族の地や命を脅かす厄神……禍神(まががみ)ではなかったのか。
「厄界の者に悪影響が出るやも知れぬし、亡き者にしても人族共への後始末が面倒だ」
 彼女の心中を見抜いたように、ふ、と自虐的な笑みをこぼす。その瞬間、琥珀の瞳に微かな陰りが入ったのが、アマリには見えた。

「とりあえず、もう暫く屋敷に身を置け。お前の処遇については、もっと家臣と話し合う必要がある」
 またアマリは意外に思った。この長は、重要事項を独断で決めない。少なくとも、彼は暴君では無いという事実に、想像していた()()()の像が薄れ、崩れていく。
 再び唖然とした面持ちで彼を凝視したアマリを、また不審そうに眺めた後、荊祟は改まった厳格な口振りで告げた。
「カグヤ同伴なら、今後は屋敷内をうろついて良い。(ただ)し、妙な真似はするな」

 その命令を最後に、荊祟は部屋を出て行った。あの夜は、もっと非情で義務的、主らしい冴えた威厳を纏っていたが、さっきの彼は少し違う者のようにも感じる。妖厄神についてますます解らなくなり、アマリは混乱した。


 夕餉(ゆうげ)時。膳の皿が空になった頃、恐る恐る、アマリは切り出した。
「……カグヤさん。出過ぎた問いである事を承知で、お尋ねしたいのですが」
「はい」
「――あの方は、人族の地に何を、なさったのでしょう……?」
 予期せぬ問いに驚いたのか、あの厄神と同じ琥珀の瞳をカグヤは見開く。
「それは、あまりお知りにならない方が良いかと。きっと貴女様にとっては、気分の良い話ではありません」
 神妙な声色で返すくノ一の言葉に、アマリは息を詰める。ある程度の予想はしていた。家族や従者から見聞きしてきた、人族を襲った数々の災厄――火災、飢饉、空き巣、殺し等の治安の悪化。どこまでが彼の仕業なのか知らない。
 ずっと社から出ていなかったアマリに、外の状況はわからなかった。しかし、願掛けの為にわざわざ遠方から訪れる、悲痛な面持ちの民の姿は、数え切れない程見てきた。
 だが、少なくとも人族を不幸にして楽しむ邪神ではないように見えたのだ。彼にとっても不本意な行いではないのか。あの夜、自分を助けたように。
 先程感じ取った、自身の何かと共鳴している……そんな未知の衝動が、アマリの内で主張している。
「……ありがとうございます。すみません……こんな事」
 気まずい空気が流れたが、改まるように願い出る。
「あの、早速ですが…… 明日、少しご一緒願えますか?」


 翌昼過ぎ。アマリはカグヤと共に、窓から見えた池囲いの庭園を訪れた。
 離れから少し歩いた先にある、対岸は木々が埋めている場所。外敵を避ける為か、囚人の脱走を防ぐ為か、規模の大きな池だ。だからか、一つも花が咲いていない事に、アマリは驚いた。
 花能の事だけは知られていないようなので安堵していたが、あの厄神には馴染みが無いのかもしれない。石造りを基調にした庭園は、静寂で厳かだが、哀しげで殺風景に見えた。
「私は少し離れた場所にいます」
「あ、ありがとうございます」
 気を利かせてくれたのか、カグヤは一人にしてくれた。