――……

 朧気な意識が覚醒していく。頭は鉛のように重い。身体は柔らかな布団に包まれ、白無垢は襦袢(じゅばん)らしき寝間着に変わっていた。髪もほどかれている。
 どうやら冥土ではなく、まだ生きている事にアマリは戸惑う。

 強烈な視線を感じ、反射的に眼球を動かす。朱の瞳と目が合いおののいた。あの夜、妖厄神の青年が連れ、黎玄と呼んでいた鷹がいたのだ。半分が障子で閉じられた、円形の窓の縁に留まっていたが、やがて翼を羽ばたかせ、外へ飛び立った。
 あれから何日経ったのか、此処はどこなのか不安に駆られる。八畳程の畳部屋という事位しか判らない。
「失礼致します」
 暫し後、凛とした声が、(ふすま)の向こうから聞こえた。
「お身体の具合はいかがですか?」
 入って来たのは、菖蒲(ショウブ)色の忍装束の若い女性だった。艶やかな黒髪を後ろに団子に束ね、琥珀(こはく)色の猫目に笹形に尖った耳をしている。小鍋や急須を乗せた盆を手に佇んでいた。
「貴女は……? ここは、どこですか……?」
「厄界の長……荊祟様の御屋敷の離れでございます。私は警護などを担っている者。貴女様が目覚められたと伺い、お食事と薬をお持ちしました」
 颯爽と傍に寄って正座し、くノ一のような女性は礼儀正しく頭を下げる。
「長様より、貴女様の看病と身の回りの世話、護衛を申し付けられました。今後は私がなるべく同行させて頂きます。どうぞよろしくお願い致します」
「せ、世話? 護衛⁉」
 予想外の単語の連続に耳を疑い、困惑する。
「この界には……貴女様を良く思わぬ者もおります故……ご容赦を」
「そ、そうでしょう……⁉ 妖……長様は、私を生かしておかれるのですか……?」
 錯乱したアマリは、まくし立てた。覚醒し切っていない頭が追いつかない。
「……殺される、と思っていらしたのですか?」
 静かに頷く尊巫女に女性は初めて表情を崩し、眼を見開いた。
「あの方がお決めになられた事ですので……ご自分でお尋ね下さい。貴女様のお身体が回復次第、お会いされるそうです」
 何故、自分と今更対面するのか、アマリには解らない。
「私は隣室に住まいます。御用がありましたらお呼び下さい。……多少の異変は察知できますが」
 つまり、何か仕掛けても判るという事だ。おそらく、このくノ一の仕事は、妖厄神への()()も兼ねてなのだろう。

 膳を布団の側まで運び、改めて正座した女性は、小鍋の中の湯気立つ物を椀によそい始める。
「玉子粥です。長様も召し上がっておられる、人族の身体に合わせた物です。毒などの類いは入っておりませんのでご心配なく」
「……わかりました」

 ――確かに、今更改めて……なんて無意味よね

 ()()()、彼は、確実に自分を殺せたはずなのだから。
「あの……」
「何か?」
「お名前を、伺ってもよろしいですか?」
 作業の手を止め、女性は驚いたように眼を見開き、戸惑いが混じる声色で問い返す。
「何故でしょう?」
「お世話になるのですから、知っておかなくては……と思って。その、貴女のご迷惑にならなければ、ですが」
 彼女があの厄神に叱られるのなら知らなくてもいい。だが、尊敬の意を抱き始めたのだ。
 アマリの返答に女性は微かに和らぎを見せた。
「――カグヤと申します」
「まぁ、綺麗な名……お似合いだわ」
「私共からしたら貴女様の方が、異星からいらしたようなものですよ」

 ――違うわ……

 自虐的に哀しく思った。自分は歓迎されていない。
「あ、申し訳ありません。私は……アマリと申します」
「アマリ様。了解致しました」
 薬膳茶を差し出され、アマリは反射的に口を付ける。今度は、しっかりと苦味を感じた。


 同刻。屋敷の主人である荊祟、側近数名が、奥座敷の一室で神妙に話し合っていた。勿論、議題はアマリの件だ。この百年程、尊巫女の輿入れが皆無だった彼らにとって、彼女が献上されるという知らせは、それこそ天変地異並みの大事件だったのだ。
「くノ一の報告ですと、随分な心身の疲労で未だ衰弱しているようです。何も看病などしなくとも」
「そうですよ。そのうち死にます。厄介払いになり、結構ではないですか」
 行灯の灯りに照らされた素顔の主人に、家臣達はそんな非情な行いを促す。荊祟は深いため息を吐いた。
「どんなに忌み嫌われようが、汚れ腐ろうが、我らは神族の者。神々に仕える女……増して尊巫女。見殺しにする訳にはいかないだろう」
「長様…… まさか、情を(いだ)かれたなんて事はあ……」
 側近の言葉は途切れた。切り裂くような黄金(こがね)の眼光が向けられ、ヒッ、と喉奥が引きつる音が鳴る。
「全く……本当に面倒な事になったものだ。相も変わらず、人族共はいらぬ事ばかりする」
 心底うんざりしたように、一族の長は、鋭利な眉を思い切りしかめた。


 厄界……この離れに住んでから、一週間程が過ぎた。カグヤの看病の甲斐あり、具合は良くなってきたが、布団でぼんやりする毎日だった。
 始めの数日は、体の怠さに耐えるだけだったが、回復してきた今は落ち着かなくなっている。『無理の無い程度に過ごして下さい』とカグヤに言われたが、どうしたら良いかわからない。自害させない為か、布団とちゃぶ台、衣装箪笥(だんす)以外、何もなかった。
 今までは『施し』か勉学、稽古の時間だったが、ここには仕事を促す者も、依頼者もいない。唄は目立つだろう。
 窓から見えた池囲いの庭園に出てみようか……と少し思ったが、カグヤは別任務で数時間不在と聞いている。勝手に出て良いのかわからない。帰る場所も頼れる者も無い今、逃げ出す事も不可能……
 途方に暮れるアマリだったが、これは長である荊祟の罠だった。あえて彼女を一人にし、どう動くか試したのだ。

 そんな事はつゆ知らずの当人は、狼狽えるしか出来ずにいる。だが、明らむ部屋で刻々過ぎる独りの時が、今までの事を(よみがえ)らせてきた。良からぬ考え、情が奥底から湧き始めてしまう。痛みの治まった脳が、(わめ)き出した。忌まわしい(ささや)きが、耳元で鳴る。
『――何故、まだ生きている? お前はもう用無しだろう。息する理由があるのか? お前を真に案ずる者などいない』
 眼を閉じ、振り切ろうと深呼吸を繰り返す。孤独感、憤り、悲しみ…… そんな情が吹き出してしまいそうになった時、今まで行っていた鎮静法だった。
 だが、深みにはまり、奈落の底へ堕ちていく……

 ――……怖い。怖い。気を紛らわさないとおかしくなりそう……何でもいい。何か……!

 布団を出て手足を動かし、習慣で身に染み着いた動作を始めた。しなやかに、両腕を宙に舞わす。稽古で習った舞だ。
 おぼつかない足取りは、手順を間違えた。師範の叱咤が飛んでくると、反射的に動きを止め、思わず身を縮めた。が、何も聞こえない。

 静まり返る室内の中、どく、どく、という鈍い心音だけが聞こえる。戸惑いと怯えに加えてやってくる、奇妙な安堵感。
 そんな様子を、あの円い窓から、朱の眼の鷹がまた見ていた。