飛行機から降りると、人の多さに圧倒された。どうってことない日常だったはずなのに、田舎基準に感覚が変わっている。
 人並みを掻き分け、電車に乗り込む。全然座れそうにない。人の熱気に酔いそうだと思った。
 最寄り駅で降りると、高いビルやマンションに囲まれて空が少ししか見えない。ここには抜けるような青空も、どこまでも続く碧い海も波の音もない。
 クラクションや行き交う人々の話し声が乱反射して耳を塞ぎたくなった。
 この荒波に飲まれて、気が付けば自分が壊れそうになっていた。立っているだけで息が詰まりそうになる。
 今すぐにでもUターンして美里の所に帰りたい。いや、違う。莉子の住む世界に帰ってきたのだ。

 マンションに入ると少しは呼吸が楽にできた。部屋の電気をつけると、生活感の感じられないモデルルームのようなリビングが照らし出される。
 誰を呼ぶわけでもないのに、ただSNSのために“映え”を意識したインテリアを置いている。全ては“莉子の作り上げた自分像”を壊さない為だ。

 キッチンの棚には大量のサプリメントに、殆ど使わない皿が少し。冷蔵庫には水くらいしか入っていない。
 なのにメイク道具やヘアケアグッズ、アクセサリーに服や靴は溢れるほど持っている。
「改めて見ると酷い生活だな」
 だだっ広い部屋に立ち尽くし、ベランダへと続く大きな窓の外に目をやっても、その向こうには色の薄い空しか見えなかった。

「改善できるところから、少しずつ始めよう」
 料理はできないけど、せめて手作りのものを食べようと決めた。サプリメントに頼って栄養は補えても心までは満たしてくれない。元気の源は食からだと、美里のご飯が教えてくれた。

 荷物を片付け、明日の仕事の準備をする。辞めるのは決心したが、かと言って莉子を頼ってくれている人に対して手抜きはしたくない。
 五日間もハサミを握っていない。ヘアアレンジもしなかったから、きっと手が鈍っている。
 カッティングウィッグを取り出し軽く練習をした。
 手の甲の傷が視界に入る度、キーを思い出して口元が緩む。
 次に会えた時は絶対に懐いてほしい。傷痕は消えてほしくないと思った。

 田舎で暮らしていた時の癖で、前ほど遅くまで起きていられなくなっている。
 大体、夕方の六時に莉子の仕事が終わるわけもない。終電ギリギリになることが珍しくなくあるくらいだ。

 大きな欠伸をしながら浴槽に湯を張る。好きなアロマの香りがする入浴剤を入れた。
 百合の香りがバスルームに広がり始め、思い切り鼻から息を吸い込む。
「癒される……」
 こういう時間がある時は都会でも充分楽しい。全てが嫌いなわけではない。少しずつ、感覚を取り戻していくのも嫌ではなかった。
 サロンで販売しているシャンプーとトリートメントも莉子にはなくてはならないアイテムだ。仕事上、カラーも頻繁に変える。ケアを怠ると、見るも無惨な髪になってしまう。これでは美容師として失格だ。
 海のすぐ近くで生活していたから、潮で乾燥している。
 入念にトリートメントを施し、明日に備えた。

 久しぶりの出勤は柄にもなく緊張した。
 いつもどんな風にサロンに入って行っていたのか思い出せない。
 しかも早めに来たのが間違いだった。店の鍵を持っていないと到着してから気付く。
「やっぱり、色々と忘れてる。気合い入れないと」
 とりあえずスタッフが来るまでここで待つしかないので、スマホを取り出しSNSを開く。流行が次から次へと映し出される。髪型、ファッションにネイル、新作コスメに芸能人のスクープ。話題の映画。海外セレブのゴシップまで、一通り目を通していく。
 田舎にいる間にも、新しい情報は次々に更新されていた。誰と誰が結婚したとか、アイドルの新曲とか、興味はなくてもネタとして覚えておかなければ、莉子の顧客の多くは噂が好きなお年頃の女性なのだ。

「おはようございます。お帰りなさい。今日は早く来そうだなと思って俺も早めに来たんですけど、結構待ちました?」
 顔を上げると、悠臣が階段を駆け登りながら今にも飛びつきそうな勢いで話しかける。
 ないはずの尻尾を忙しなく振っている幻覚さえ見えるようだ。
「おはよう。不在の間はお世話になりました。後でお土産渡すね」
「やったーお土産楽しみです。莉子さん、メイクが薄くなりましたね。俺はこっちも好きですよ」
「え、薄いかな? 自分では濃くしたつもりだったんだけど」
「アイシャドウの色変えたとか? 凄く似合ってます。新しい莉子さん誕生ですね! SNS用の写真撮っておきましょう」
 鍵を開けながら絶え間なく喋る。

 サロンに入るとロッカーに荷物を入れ、PCを立ち上げる。その間に悠臣がカーテンを開け、換気のために窓を開ける。
「いつ涼しくなるんですかね」
「今日も猛暑日になるって言ってたね」
 カウンターから店内を見渡した。見慣れた景色なのにソワソワして落ち着かない。悠臣が喋ってくれているから、少しは気が紛れているというだけだ。
「ねぇ、悠臣」
「なんですか?」
「まだ誰にも言ってないけど、先に言っておく。これから一番迷惑かけると思うから」
「……なんですか」

 嫌な雰囲気を悟ったのか、悠臣が窓際で振り向いて止まった。真っ直ぐに莉子を見る眸が動揺を隠しているように揺れる。
「私、美容師辞める」
「なっ!! なんでですか? 他のサロンに行くでもなく?」
「違う。完全にやめて、田舎に引っ越すの。友達の所に」
「俺は反対です。これまで頑張ってる莉子さんをずっと隣で見てきました。今のキャリアを捨ててまで、行く価値があるんですか?」
 莉子は静かに頷いた。
「仕事は好きだし天職だと思ってる……ううん、思ってた。でも最近は苦しいばかりで、逃げたくて、わけもなく泣き出したり、落ち込んだりを繰り返してた。友達はそんな私を見兼ねて、田舎で息抜きをするよう誘ってくれた。私も気分転換できればいいくらいにしか思ってなかったんだけど、向こうの生活が自然に溶け込んで、自分の居場所を見つけたって直感で分かったの」
「まさか、カフェをするなんて言い出したりしませんよね」
「そのまさかよ。友達のカフェを一緒にやる。って言っても、友達にも考え直せって言われてるけどね。話は今のところ保留。でも私の気持ちは揺るがない自信ある」
「……やっぱり、行かせるんじゃなかったです」
「朝からこんな話してごめんね。でも、後から知りませんでしたってなるのは嫌だから。悠臣は入社から一緒だし、唯一続いてる同士だし。正直、ここまで頑張れたのも悠臣の影響が大きかったと思うんだ」
「じゃあ考え直してくださいよ。友達も反対してるんでしょ? 俺は、莉子さんにここにいて欲しいです」

 答えに困っていると、他のスタッフが続々と出勤してきたので仕事へと気持ちを切り替えた。
 帰ったら愚痴を聞くと約束していたのに、結局は莉子の方が聞いてもらう側になってしまった。
 悠臣とは何度も話し合うことになりそうだ。