四日目、木谷ファミリーが来店してくれた。
 奥さんの腕には生後四ヶ月の赤ちゃんがすやすやと眠っている。四歳と六歳のお姉ちゃんは世話を焼きたい年頃で、家事をしている間も遊んでくれるから助かっていると言っていた。

「莉子さんも抱きます?」
「良いんですか? 赤ちゃんなんて初めて抱っこするから、ちょっと怖い」
「首も座ってるから大丈夫。腕をこう曲げて……」
「わっ、わっ、。軽い。可愛い。天使」
「莉子って感動すると語彙が単語になるよね」
 美里がケラケラと笑っている。
「だって本物の赤ちゃんなんて初めて見たし触れたんだもん。仕事忙しくて、誰の赤ちゃんにも会えないまま今まで来ちゃった」
 人生損をしてきたと思うくらいには、赤ちゃんという存在を特別なものに感じた。小さな体から力強いエネルギーを感じる。
 頬を指先でツンツンとつつくと、無意識なのか莉子の指をぎゅっと握った。
「握った! 握ったぁ!」
 小声で叫び、興奮が頂点に達する。

 木谷ファミリーがご飯を食べている間、莉子は赤ちゃんと戯れ、幸せ指数マックスまで充電が完了した。
「また連れてきてくださいね」
 美里とお見送りをする。
 お姉ちゃん二人も懐いてくれて楽しい時間はあっという間に終わってしまった。
「あーあ、もう赤ちゃんに会えないかと思うと寂しい」
 明日は午前中には出発しなければならない。
 ここでの出会いや経験が刺激的で、現実に戻れるのか不安になってくる。
 美容師として着飾って気を張って生きていくのが自分の生きる道だと思っていたが、もっと違う人生を切り開きたくなってしまった。

 カフェの掃除が終わるとテラス席で休憩するのが二人の定番だ。今日は莉子が持ってきたコーヒー豆を挽き、美里に振る舞った。
 木谷が手土産にくれたクッキーと共に味わう。
「良い香り」
「でしょ。お気に入りの豆なの。置いて帰るから飲んでね」
「明日、とうとう帰るんだね」
「うん。帰りたくないけど、お客さんが待ってくれてるから」
 スタッフで莉子の帰りを待っているのは悠臣くらいな気がするが、最低限の居場所があるだけでも救われる。

 素でいることに慣れてしまい、元の生活に戻れる自信はない。
 配信された動画で見た自分は、全くの別人のように思えて現実味が感じられなかった。

「仕事、辞めようかな」
「何言い出すのかと思いきや、そこまで思い詰めてたの?」
「ここに来る前はさ、ストレス発散できたらいいな……くらいにしか考えてなかったんだけどね。実際地元の人たちと交流していくうちに、私の求めていた関係性ってもっとラフに付き合えることだったのかなって。相手の顔色を伺ったり、思考を読み取ったり、そういうんじゃなくて、お互いが自然体でいられるのが一番良いって思った」
「それ、分かる。一人で引越しや開店準備をするのは大変だったけど、OLの頃より断然楽しいと思えた。大袈裟だけど、生きてるって感じられる。この場所が私を救ってくれたんだ」

 少し暮れかけてきた海岸を見ると、大型犬を散歩させている人がいた。小さな子供と砂で山を作って遊んでいる親子もいる。
 眺めているうちにコーヒーが冷めてしまった。

「ねぇ、美里。人手足りないよね?」
「まぁね。運よく誰か来てくれると良いけど」
「私、ここに来てもいい?」
「本気で言ってる?」
 美里は半信半疑という顔をしている。元の生活に戻れば、やっぱり流行の最前線でいたいと思うのではないかと、きっとそう思っている。

「年末年始までは辞められないけど、帰ったらすぐに退職届け出す。それで、成人式が終わったらここで住みたい」
「莉子……私は大歓迎だけど、店が許してくれるの?」
「許すも何も、私の人生を決めるのは私だもん。だって美里が言ったんだよ。自分の代わりなんて他にいるって」
「言ったけど、私と莉子じゃ状況が違いすぎるよ」
「美里は、私が引っ越してきたら迷惑?」
「迷惑なわけない。むしろ嬉しい。独身同盟組んでるし、カフェだって四日間、本当に助かった。こんな即戦力になる人なかなかいないし、莉子に甘えて明日から不安って思うし……」
「だったら良いよね?」
 食い気味に美里に詰め寄る。
「まぁ、一度は帰るんだし、もう一度冷静になって考えた方が良いよ。それでも決意が変わらなければ連絡して」
「分かった」
 美里は夕食を作りに厨房へと移動した。

 荷物をまとめないといけないけど、そういう気分にもなれず、また海に視線を移して目に焼き付ける。
 手持ち無沙汰を感じると無意識でスマホを手にしていたが、今日もその存在すら忘れていた。

(赤ちゃんの写真も美里のご飯も写真撮ればよかった)
 そういえば悠臣から写真を送れと言われていたことを思い出し、自室からスマホを持ってきて海の写真を撮って送った。
 それから店の写真、タイミングよく現れたキーの写真も送った。
『予定通り明日帰ります』
 一言だけメッセージを添えておく。
 向こうはまだ忙しい時間帯だろうから、返事は夜中だろう。

 今日こそご飯の写真を撮りながらゆっくり味わって食べた。
 次に来るときは季節が変わっている。ここがどんな景色になっているのか楽しみだ。

 悠臣から深夜0時を回った頃に返事が届いた。
『もう寝てますか?』
『仕事お疲れ様。起きてるよ。今、荷物まとめ終わった』
『写真、ありがとうございます。本当に素敵な所ですね。明日は気を付けて』
 メッセージの後でおやすみのスタンプが続いた。
 この気遣い魔人は、莉子が帰って来やすいように先回りして対応してくれているのだ。お節介と思いながらも、やはり有難い。

 帰る当日の朝、美里がたまごサンドを作って持たせてくれた。
「飛行機、何時だっけ?」
「十一時に空港に着いてれば余裕だよ。帰りは流石に電車使うわ」
「木谷さんが駅まで送ってくれるって、メッセージ届いてた」
「良い人〜! ついでに奥さんの連絡先も教えてもらおう」
「赤ちゃんの写真、送ってもらう気満々じゃない」
「戦場で生きる糧にするんだもん」

 名残惜しいが一旦お別れ。
 迎えに来てくれた木谷の車に乗り込み、駅まで送ってもらった。
 電車に揺られ、流れゆく景色を眺めて過ごす。合間で学生や会社員の人が乗り降りしながら、またいつの間にか車内は空いていた。
 空港で美里の作ってくれたサンドウィッチを食べ、飛行機に乗り込んだ。