木谷から今度は家族でカフェに行くと、美里のスマホにメッセージが届いた。
元々は木谷も大学から都会へ出ていたらしく、老後まで地元に帰ってくる予定ではなかったそうだ。けれども結婚前に付き合っていた奥さんを連れて帰ってくると、奥さんの方が気に入ってしまい「ここに住みたい」「子育てはこういう環境が理想だった」「同居は嫌だけど、結婚と共に引っ越そう」と何度も木谷を説得し、根負けして帰ってきたのだと美里が教えてくれた。
奥さんの気持ちが凄く共感できた。
都会という場所も若い頃は刺激があって魅力的である。
少し落ち着いた年齢になると、自然豊かで、しかし田舎すぎない。そんな街が程よく気が抜けて心地の良さを感じるのかもしれない。人も暖かく余所者でも歓迎してくれる。
目の前の海がサーフスポットであることから、全国から人が集まる出会いの場でもあるのだと美里が教えてくれた。
都会暮らしに慣れ過ぎている莉子は、田舎で過ごす時間は直ぐに根を上げるかもしれないと懸念していたが、三日目には既に何年も住んでいる人のように溶け込んでいる。
自分でも適応能力の高さに驚きつつ、とにかく何をしてても何もしていなくても楽しい。
仕事を休んできたのに、仕事用の服ばかり選んでいたスーツケースは鍵をかけてクローゼットに押しやった。撮影の計画は破棄し、この時間に身を委ねようと決めた。
カフェに訪れる客は誰も温厚で人当たりが良い。
カウンター席は年配の人の溜まり場にもなりそうな気配がある。老若男女が集うカフェに莉子はどんどん惹かれていく。
美里とは起きている間ずっと一緒に過ごしているのに、不思議と一人になりたいとも思わなかった。一緒に寝ようなんて言われると、二つ返事で布団に潜り込めそうな勢いだ。
三日目の営業を終え、早めの夕食をテラスで食べる。
「今日もお疲れ〜」
柑橘系の果肉が入ったアイスティーで乾杯し、白身魚のムニエルに舌鼓を打つ。
「美味しい。美里のご飯は世界一だよ」
潮の匂いが風に乗って運ばれてくる。
テラス席の大きなソファーに凭れると、うつらうつらと睡魔がやってきた。
海風が心地よく、目を閉じると『にゃあ』と猫の声が聞こえてきた。
足元に尻尾の先が鍵型に折れ曲がっている茶色の猫がいた。
「キーちゃん、今日は来たのね」
「美里が飼ってる猫?」
「違う、この辺をウロウロしてる野良。尻尾が曲がってるからキーちゃんって勝手に呼んでるんだ」
よく見れば耳が三角にカットされている。これは保護団体により去勢手術を行いましたという証らしい。
「じゃあ、キーちゃんは女の子なんだ」
手を伸ばすと、頬を擦り寄せる。美里は店の中に戻り、猫用の缶詰を皿に入れてあげた。
キーは小さな舌でぺろぺろと味見をしながら平らげた。
見てるだけで癒される。仕事一筋だった時は、ストレスの発散や癒し方など考えもしなかった。成功することでしか満足感を得られなかった。力を抜くという概念が先ずなかった。
こんな生活があると知らないまま、一生を終えなくて良かったと本気で思っている。
「キーちゃん、抱いても良いかな」
「多分させてもらえないと思うよ。猫との距離感って難しいから」
「そうなの?」
とりあえずチャレンジしようと脇に手を差し込むと、驚いたキーが飛び上がり爪を立てた。
「痛っ」
右手の甲から血が出ている。キーはそのまま走って逃げてしまった。
「莉子、右手!! 商売道具!!」
「そんなに深い傷じゃないし平気。それより怖がらせちゃった」
「気まぐれにまた来てくれるよ」
「だと良いけど……」
毎日は会えるわけじゃないから、滞在中のリベンジは難しそうだ。
部屋に戻ると、スマホを一日放置していたと気付き自分に驚いた。必要不可欠。ないと生きていけないとまで思い、肌身離さず持っていたのに、今朝から一度も見ていなかった。
着信履歴が表示されていて、相手は悠臣だ。莉子が電話に出ないなどこれまでになかったので、変な心配をしているかもしれない。
「お疲れ様です、莉子です。電話すみません」
急いでかけ直すと、悠臣はやはり何かあったのでは……と考えていたようだ。
「元気にやってる。友達の家に泊めてもらう代わりにカフェの手伝いしてて、スマホ放置してた」
『カフェの手伝いって、それじゃあ休みにならないじゃないですか』
「仕事感覚じゃないし、良い息抜きにもなるし体も鈍らないし、ご飯は美味しいし海は綺麗だし、満喫しまくってる」
『やっぱり俺も行きたかったですよぅ! こっちは莉子さんいなくて寂しいんですからね』
「相変わらず上手いなぁ。口煩いのがいなくて、みんな羽伸ばしてるでしょ? そういえば、この間の動画の編集って悠臣がしてくれた?」
『あっ、気付いてもらえました? アシちゃんがやってたけど、莉子さんのクオリティを下げるわけにはいかないんで。データごと引き受けました。今日のも俺が編集したんで見てくださいよ』
「悠臣の仕事が増えてるじゃない。アシスタントにも勉強がてらやってもらってるから」
『それは追い追い俺が教えます。それより今一人ですか? ビデオ通話しません?』
悠臣がそんなことを言うとは思わなかった。
「ちゃんとメイクしてないから嫌だ」
『俺も今日はメイク落としてるからお互い様でしょ。切り替えますよ』
「え、ちょっと待って」
スマホの画面を見ると既にビデオ画面に切り替わっていて、そこにはあどけない少年が映っていた。
(この人、本当に三十二歳なの?)
疑いの目を向ける。逆年齢詐称しているのでないのか? 腕のタトゥーが不釣り合いすぎて浮いている。
『わぁ、莉子さんってメイク薄いと童顔ですね。Tシャツなんてレアだし、スタイリングもしてないとか初めて見ましたよ』
「童顔なんてあなたに言われたくない! すっぴんでも女子より可愛いなんて反則だ!」
『一応コンプレックスなんですよ。貫禄がなさすぎて、トップスタイリストなのに今だにアシスタントと間違われる時すらあるんで。メイクとタトゥーがないと、ガキにしか見えないから嫌なんです』
「へぇ。悠臣にもコンプレックスがあるとか意外だね」
無意識に前髪を弄ると猫に引っ掻かれた傷が見つかってしまった。
オーバーなまでに心配する悠臣は、画面いっぱいに顔を寄せて傷を見る。
『利き手じゃないですか!! 今日中に治ります? 帰ったら予約で溢れかえってるんですよ』
「大丈夫だって。あと二日なんて寂しいなぁ」
『だから寂しいのは俺なんですって! 莉子さん全然写真も送ってくれないし、電話もしてくれないし、SNSも投稿してないし。明日帰ってきてくれても良いんですよ?』
「やだぁ。休み延長したい」
『だーめーでーす!! 延長したらガチで迎えに行きますからね』
悠臣は店の様子を喋りながら段々と愚痴になっていった。ハイペースで缶ビールを開けていっているあたり、相当ストレスを抱えているのだろう。
莉子とは違い平和主義者故、叱るのが大の苦手だ。莉子が叱る役、悠臣が場の空気を和ませる役が成り立っているから店が回っている。どちらかが欠けてもバランスは崩れる。
帰ったらちゃんと話聞く約束をし、電話を切った。
動画が上がっていたので確認すると、やはりセンスが良い。莉子が休んでいる三日間でフォロワー数がぐんと伸びている。
お土産、いっぱい買って帰ろうと思った莉子だった。
元々は木谷も大学から都会へ出ていたらしく、老後まで地元に帰ってくる予定ではなかったそうだ。けれども結婚前に付き合っていた奥さんを連れて帰ってくると、奥さんの方が気に入ってしまい「ここに住みたい」「子育てはこういう環境が理想だった」「同居は嫌だけど、結婚と共に引っ越そう」と何度も木谷を説得し、根負けして帰ってきたのだと美里が教えてくれた。
奥さんの気持ちが凄く共感できた。
都会という場所も若い頃は刺激があって魅力的である。
少し落ち着いた年齢になると、自然豊かで、しかし田舎すぎない。そんな街が程よく気が抜けて心地の良さを感じるのかもしれない。人も暖かく余所者でも歓迎してくれる。
目の前の海がサーフスポットであることから、全国から人が集まる出会いの場でもあるのだと美里が教えてくれた。
都会暮らしに慣れ過ぎている莉子は、田舎で過ごす時間は直ぐに根を上げるかもしれないと懸念していたが、三日目には既に何年も住んでいる人のように溶け込んでいる。
自分でも適応能力の高さに驚きつつ、とにかく何をしてても何もしていなくても楽しい。
仕事を休んできたのに、仕事用の服ばかり選んでいたスーツケースは鍵をかけてクローゼットに押しやった。撮影の計画は破棄し、この時間に身を委ねようと決めた。
カフェに訪れる客は誰も温厚で人当たりが良い。
カウンター席は年配の人の溜まり場にもなりそうな気配がある。老若男女が集うカフェに莉子はどんどん惹かれていく。
美里とは起きている間ずっと一緒に過ごしているのに、不思議と一人になりたいとも思わなかった。一緒に寝ようなんて言われると、二つ返事で布団に潜り込めそうな勢いだ。
三日目の営業を終え、早めの夕食をテラスで食べる。
「今日もお疲れ〜」
柑橘系の果肉が入ったアイスティーで乾杯し、白身魚のムニエルに舌鼓を打つ。
「美味しい。美里のご飯は世界一だよ」
潮の匂いが風に乗って運ばれてくる。
テラス席の大きなソファーに凭れると、うつらうつらと睡魔がやってきた。
海風が心地よく、目を閉じると『にゃあ』と猫の声が聞こえてきた。
足元に尻尾の先が鍵型に折れ曲がっている茶色の猫がいた。
「キーちゃん、今日は来たのね」
「美里が飼ってる猫?」
「違う、この辺をウロウロしてる野良。尻尾が曲がってるからキーちゃんって勝手に呼んでるんだ」
よく見れば耳が三角にカットされている。これは保護団体により去勢手術を行いましたという証らしい。
「じゃあ、キーちゃんは女の子なんだ」
手を伸ばすと、頬を擦り寄せる。美里は店の中に戻り、猫用の缶詰を皿に入れてあげた。
キーは小さな舌でぺろぺろと味見をしながら平らげた。
見てるだけで癒される。仕事一筋だった時は、ストレスの発散や癒し方など考えもしなかった。成功することでしか満足感を得られなかった。力を抜くという概念が先ずなかった。
こんな生活があると知らないまま、一生を終えなくて良かったと本気で思っている。
「キーちゃん、抱いても良いかな」
「多分させてもらえないと思うよ。猫との距離感って難しいから」
「そうなの?」
とりあえずチャレンジしようと脇に手を差し込むと、驚いたキーが飛び上がり爪を立てた。
「痛っ」
右手の甲から血が出ている。キーはそのまま走って逃げてしまった。
「莉子、右手!! 商売道具!!」
「そんなに深い傷じゃないし平気。それより怖がらせちゃった」
「気まぐれにまた来てくれるよ」
「だと良いけど……」
毎日は会えるわけじゃないから、滞在中のリベンジは難しそうだ。
部屋に戻ると、スマホを一日放置していたと気付き自分に驚いた。必要不可欠。ないと生きていけないとまで思い、肌身離さず持っていたのに、今朝から一度も見ていなかった。
着信履歴が表示されていて、相手は悠臣だ。莉子が電話に出ないなどこれまでになかったので、変な心配をしているかもしれない。
「お疲れ様です、莉子です。電話すみません」
急いでかけ直すと、悠臣はやはり何かあったのでは……と考えていたようだ。
「元気にやってる。友達の家に泊めてもらう代わりにカフェの手伝いしてて、スマホ放置してた」
『カフェの手伝いって、それじゃあ休みにならないじゃないですか』
「仕事感覚じゃないし、良い息抜きにもなるし体も鈍らないし、ご飯は美味しいし海は綺麗だし、満喫しまくってる」
『やっぱり俺も行きたかったですよぅ! こっちは莉子さんいなくて寂しいんですからね』
「相変わらず上手いなぁ。口煩いのがいなくて、みんな羽伸ばしてるでしょ? そういえば、この間の動画の編集って悠臣がしてくれた?」
『あっ、気付いてもらえました? アシちゃんがやってたけど、莉子さんのクオリティを下げるわけにはいかないんで。データごと引き受けました。今日のも俺が編集したんで見てくださいよ』
「悠臣の仕事が増えてるじゃない。アシスタントにも勉強がてらやってもらってるから」
『それは追い追い俺が教えます。それより今一人ですか? ビデオ通話しません?』
悠臣がそんなことを言うとは思わなかった。
「ちゃんとメイクしてないから嫌だ」
『俺も今日はメイク落としてるからお互い様でしょ。切り替えますよ』
「え、ちょっと待って」
スマホの画面を見ると既にビデオ画面に切り替わっていて、そこにはあどけない少年が映っていた。
(この人、本当に三十二歳なの?)
疑いの目を向ける。逆年齢詐称しているのでないのか? 腕のタトゥーが不釣り合いすぎて浮いている。
『わぁ、莉子さんってメイク薄いと童顔ですね。Tシャツなんてレアだし、スタイリングもしてないとか初めて見ましたよ』
「童顔なんてあなたに言われたくない! すっぴんでも女子より可愛いなんて反則だ!」
『一応コンプレックスなんですよ。貫禄がなさすぎて、トップスタイリストなのに今だにアシスタントと間違われる時すらあるんで。メイクとタトゥーがないと、ガキにしか見えないから嫌なんです』
「へぇ。悠臣にもコンプレックスがあるとか意外だね」
無意識に前髪を弄ると猫に引っ掻かれた傷が見つかってしまった。
オーバーなまでに心配する悠臣は、画面いっぱいに顔を寄せて傷を見る。
『利き手じゃないですか!! 今日中に治ります? 帰ったら予約で溢れかえってるんですよ』
「大丈夫だって。あと二日なんて寂しいなぁ」
『だから寂しいのは俺なんですって! 莉子さん全然写真も送ってくれないし、電話もしてくれないし、SNSも投稿してないし。明日帰ってきてくれても良いんですよ?』
「やだぁ。休み延長したい」
『だーめーでーす!! 延長したらガチで迎えに行きますからね』
悠臣は店の様子を喋りながら段々と愚痴になっていった。ハイペースで缶ビールを開けていっているあたり、相当ストレスを抱えているのだろう。
莉子とは違い平和主義者故、叱るのが大の苦手だ。莉子が叱る役、悠臣が場の空気を和ませる役が成り立っているから店が回っている。どちらかが欠けてもバランスは崩れる。
帰ったらちゃんと話聞く約束をし、電話を切った。
動画が上がっていたので確認すると、やはりセンスが良い。莉子が休んでいる三日間でフォロワー数がぐんと伸びている。
お土産、いっぱい買って帰ろうと思った莉子だった。