莉子は悠臣に謝るのも失礼な気がして、黙ってしまった。
 逆の立場なら、きっと悠臣は場の空気をよくしてくれただろうに。

「なんて、最後になってこんな湿っぽいの嫌ですよね。莉子さんが仕事辞めるのを俺に一番に話してくれたのは嬉しかったです。まだ年明け少しは一緒に仕事できるし、悲しむのは莉子さんが引っ越した後にします」
「悠臣には本当に感謝しかない。正論しか言えない私のフォローを他に出来る人なんていないし、悠臣がいなかったら、下の子たちと仲良くなれなかった。いっぱい、ありがとう」
「やめて下さい。莉子さんは前からアシスタントやスタイリストの憧れでしたよ。俺も含めて」
 照れ臭くて、優しさに泣きそうで、話題を変えた。

「難しいとは思うけど、いつか遊びに来てね。友達のご飯、本当に美味しいから」
「行きます! 絶対行きます! 実はもうカフェのSNSフォローしてるんで。たまには莉子さんの自撮りも投稿してください」
「美容師じゃない私は需要ないよ。その代わり、キーの写真上げる」
「お客さんに話してた猫ですか?」
「そう。引っ越して一番の目標はキーを手懐けることなの。あとね、知り合った人の子供に赤ちゃんがいてね……」
 九月に撮った写真を今頃になって見せた。
 今でも鮮明に思い出せる。カフェのテラス席から眺める海が好きだった。
 悠臣は「いーなー」とか「これ食べたい」とか、写真の一枚一枚に感想を添えていく。他愛のない会話で時間が緩やかに流れていった。

 年が明けると、あっという間に美容師としての最後の日。
 スタッフ全員で集合写真を撮った。アシスタントの子が泣いてくれたのが嬉しかった。
 一緒にサロンを出るのが気恥ずかしくて、先に外に出る。
「莉子さぁん!!」
 階段を降りて悠臣から呼び止められた。
「あの、最後に一つだけ我儘いいですか?」
「うん、なんだろう」
「莉子さんのハサミ、一本ください。お守りにしたいんです」
「じゃあ、一番使い込んだやつあげる」
「ありがとうございます。お礼は、引越し先に送りますね」
「そんなの要らないよ。気にしないで。必要なくなったら処分してね」
「しませんって」

 気の利いた言葉を送りたかったが、何も出てこなかった。頑張っても、応援してるも、違う気がした。
 結局「またね」と手を触り合って、店を後にした。

 殺風景になった自宅マンションに戻ったタイミングで、サロンの動画が投稿されたと通知が届く。
「今日は動画投稿ない日だけどな」
 間違えて予約したのかと思い、アプリを開く。

『莉子さん、お疲れ様でした』
 いきなりテロップが流れ、これまでの莉子の動画や、サロン内での思い出の映像の総集編が流れた。
 次にスタッフ一人一人の手書きメッセージが映し出され、最後に今日撮ったばかりの集合写真で締め括られた。
 悠臣の編集だ。
「いつの間に……ズルいなぁ」
 リビングに蹲り、思い切り泣いた。

♦︎♢♦︎

 冬の海は夏とは別物のようだった。
 綺麗な碧はどこへやら、絵の具で塗り替えられたようなグレーの景色が広がっている。心地よく吹いていた風も、今は狂気のように鋭く突き刺すように莉子の鼻先を吹き抜ける。
 寒さで自然に流れる涙を指で拭いながら、カフェへと入っていった。
 冬の間はテラス席も締め切り、室内は暖房だけでは温かみが感じられないからとレトロな石油ストーブが置かれていた。
 メニューも冬季限定のビーフシチューやパングラタンが追加されていた。
「おかえり、莉子」
「ただいま。本当に、帰ってきたって感じがする」
「先に届いた荷物は部屋に運んでくれたよ。木谷さんが」
「助かる〜、お礼言わなきゃ」
「荷物少なくて驚いてた」
「私もびっくりした。でもスッキリしてるんだぁ。これからの私に鎧は要らない」
 美里の作ってくれたポトフを堪能しながら、一つ莉子から提案させてもらう。
「あのね、キーってここで飼っちゃだめ?」
「それはキー次第じゃない? 野良の方が案外気楽でいいかもしれないよ。でも最近見てないんだよね。最後に来たのはいつだろう……」
 カレンダーに目をやるが、年末あたりには見かけなくなった気がすると続けた。

「猫って冬眠しないよね?」
「ないない、どこかに雨風を凌げる場所を見つけたのかもね」
「えぇ……早く会いたかったのに」
「ところで莉子はなんでキーを飼い猫にしたいの?」
「あのさ、猫通のお客様から聞いたんだけど、猫愛好家の人は『猫吸い』っていうのをするんだって。すんごく幸せになれる匂いがするんだって。やってみたいと思わない?」
「興味あります!」
「でしょう? 猫って見た目だけじゃなくて匂いでも癒してくれるなんて、有難い存在ですねってお客様とも話してたんだ」
「カフェに来たとしても捕まえるのが難しそう」
「そう? テラス席側のドアを少し開けてたら入ってくるんじゃない?」
「明日やってみる? 店休むし」

 莉子の荷物が多いと予測していた美里は、一日臨時休業にしてくれていた。実際はダンボール数箱しかなく拍子抜けしたのだと言った。そんなものだから予定外に余った一日を『キーを捕獲するDAY』と命名し作戦会議を始める。
 作戦と言えば聞こえがいいが、要するにドアを開けて室内にいつもあげていた猫缶を置いておく……という単純なものだ。
「キーは朝イチに私が朝食を食べるタイミングが一番割合高いよ」
「オッケー。じゃあ明日は七時には起きないとね」
「丁度、明日来てくれるといいけど」

 結果的にキーの捕獲は意外なほどスムーズに成功した。朝散歩にでも出かけていたのか、テラス席に現れたキーは餌を探すようにカフェへと近づいてきた。空いていたドアから室内の暖房に吸い寄せられるようにのっそりと入ってきたのだ。
 美里が静かにドアを閉めるとキーはご飯を食べ、ストーブの前で丸くなる。
「かわいい」
「かわいいね」
「もともと、美里が餌付けしてたのが良かった気がする」
「まさかこんなに上手く行くとは思わなかった」
 性急に距離を縮めようとするのは逆効果だと教わっている。とにかく自然に、最初からそこにあったかのように当たり前に存在しておくのが肝心だ。なるべく姿勢を低く構え、正面から見てはいけない。
 野良猫は特に警戒心が強いから動き回ったり、大きな音を立てないように細心の注意を払う。

「それで、どうすればキーから寄ってきてくれるの?」
 美里が小声で訊く。
「無視するらしい」
「そんなの可哀想じゃない」
「でも猫は構われると嫌がるんだって。ツンデレのツンの方が発動するって。でも無視されると構って欲しくてデレが優勢になるんだって。私もまだ半信半疑ではある」
「とにかくやってみよう」
 用意してあった本をそれぞれ読み始める。忙しくて読む暇がなく、積読してあったミステリ小説を開くと、冒頭から事件が立て続けに起こり、莉子は本当にキーの存在を忘れて物語の中に入り込んでしまった。
 三十ページほど読んだ時、アクションが見られた。キーが立ち上がり莉子の膝に前足を乗せたのだ。
(わっ! びっくりした。本当に来た!! 先ずは第一ステージクリアね。次は……)
「キー、今は本読んでるから後でね」
 せっかく来てくれたキーを床に下ろす。美里が目で疑問を投げかけてきたが、まぁ見ていろと言わんばかりに続ける。
 すると不思議なことにキーは莉子の膝を執拗に狙い続け、遂には本の上に座ったのだ。
「なんで? いつもは触らせてもくれないのに?」
「猫はデレが発動すると、冷たくあしらわれる程構ってちゃんになるって。でもこんなに効果覿面とは思わなくてビックリしてる」
 スマホで膝に乗ったキーを撮影する。
 初膝乗り記念日だ。

 その後、猫吸いを成功させるまでは半月ほどかかったが、本当に猫からは幸せな匂いがするという研究報告をSNSに投稿した。
 キーはカフェの看板猫となり、訪れる客が沢山写真を撮って帰る。

 木谷ファミリーは莉子が移住してきたと知るとカフェまで駆けつけてくれた。以前会った時は抱っこされていた赤ちゃんが、今ではハイハイで動き回っているのに感動し、動画を撮る手が止まらない。
 そして保育園の入園が決まった後は、木谷の奥さんもランチタイムだけカフェでバイトをすることが決まっていた。
 喜びを分ち合う。同年代の友達と楽しく働けるなんて、なんという贅沢だ。
 新しい環境に、莉子は感極まりそうになってしまう。自分がずっと笑顔でいることも、大きな声ではしゃぐのも、大学生以来のような気がした。
 頑張っていた頃の自分を否定する気はない。それはそれで貴重な時間だったと思える。
 美容師としての思い出も、きっといつかは辛いことも苦労したことも含めて良い経験だったと、胸を張って言えるようになるだろう。

 春にはまた海の景色が変わる。少しずつ碧を取り戻していく様を、莉子は肌で感じられて嬉しかった。
まだテラスで食事をするのは寒すぎるが、天気の良い日は散歩をするにも気持ちいい。淡いブルーに広がる海に、また少しずつ人が戻ってきた。

「莉子、そろそろコーヒー豆が届くんだけど、買い出しに行かなきゃだから受け取りお願い」
「了解。じゃあ美里が帰ったら休憩しよう」
 莉子がお土産に持ってきたコーヒー豆を美里は随分と気に入ってくれ、あれ以来お取り寄せをしてカフェに出している。
 豆の香りがふわりと漂う瞬間は、何度味わっても飽きることはない。

 好きなものに囲まれて、好きな人が増えていく。
 莉子の新しい人生は、まだ始まったばかりだ。