「ああ、外の景色が気になるのか」
 
 悠真(ゆうま)様は些細な変化に、とても敏感だった。

「空気を入れ換えるために少し開けていたんだが……全開にすると、さすがに身体に堪えると思ってな」

 空気が澄み渡り、朝晩の冷え込みが一層厳しくなってきた今日この頃。
 息が白くなることで冬の訪れを感じられるようになって、ああ、手足の先が凍える毎日が始まるのかと恐れを抱いていた。

「病み上がりに無理をさせたくないんだ。これくらいの隙間で我慢してくれ」

 でも、今年は久しぶりに暖を取ることができる。
 凍てつくほどの冷たい空気に怯え、手足の感覚がなくなることもない。
 彼の優しい微笑みは、私のことを守ってくれる。
 そんな自惚れに酔いしれながら、赤らめた頬の熱が早く引くように両手で頬を覆った。

「身支度ができたら、外に出よう」
「どこへでもお供いたします」
「ははっ、いちいち堅苦しいな」

 せっかく私の相手をしてくれるのだから、私と接してくれる方にも心地のよい時を過ごしてもらいたい。
 欲を出すのなら、悠真様を大きな優しさで包み込んであげられるような人間でありたい。
 そうは思っていても、悠真様は私よりも大きな愛をくださるから困ってしまう。

「先程、中途半端な生き方と言ったが……」
「はい」
「綺麗な髪だな」
「……ありがとうございます」

 私の髪が綺麗なのは、筒路森(つつじもり)家に来てから、とても良くしてもらっているからだと思う。
 外の世界には、こんなにも大きな贅沢が待っていたのかと驚かされるほど、筒路森(つつじもり)家の財力の高さには感謝をしている。

「痛くないか?」
「こんなの、痛みのうちに入りません」

 悠真様の手がそっと伸び、私の髪へと触れた。
 綺麗な髪とおっしゃってくれたものの、筒路森のご当主様に触れてもらうほどの価値があるとは思えない。

「この髪を、もっと引き立てるには……」

 私の髪に触れている間、悠真様は一人きりの世界に没頭されていた。
 ときどき発せられる言葉に何かを返したいと思っても、何を返していいのかさえ分からない。でも、彼の声で伝わってくる言葉の数々に勇気づけられていく。その言葉の数々を受け入れると、自分の口角が上がっていくのが感じてしまって恥ずかしい。

(今なら、勇気を出せるかもしれない……)

 たとえこの婚約に何か裏があったとしても、自分が大切にされていることに変わりはない。
 悠真様が与えてくれる優しさに、応えられる人間でありたい。
 そんな小さな夢を実現させるために、閉じたままだった唇を動かすことを私は選んだ。

「悠真様の手の温もりが、とても心地よいです」

 優しく穏やかな悠真様の熱が、髪の上で動きを止める。

「……悠真、様?」

 心の中で呟くだけで、肝心の言葉が出てこなかった。
 彼の名前を呼びたいのに、緊張で声が出ない。
 心の中では何度も練習をしていて、それをやっと自分の声に乗せることができたのに、悠真様の返事はなかった。

「あ……やはり突然、お名前でお呼びして失礼……」
「違う、そうじゃなくて……」

 鏡越しに映る悠真様の表情だけでは満足いかなかったらしくて、私は後ろを振り返りたい気持ちに駆られる。でも、髪が乱れることを恐れて、それができない。

「悠真さ……」
「想像していたよりも、嬉しいものだな……」
「……何、が……」
「結葵に名を呼んでもらうことだよ」

 悠真様が丁寧に私の髪を梳かすことで、私の髪には艶やかさが増していく。
 悠真様の手には、魔法みたいな力が宿っているのかもしれない。

「悠真様……」
「あ、悪い。痛かったか?」
「想像していたよりも、嬉しいものですね……」
「結葵?」

 悠真様がくださるお言葉にも、魔法のような力が宿っているのかもしれない。
 
「悠真様に、名前を呼んでもらえることが……です」

 さっきから、自然に上がっていく口角。
 こんなにも楽しくて、こんなにも幸福を感じられるのは、人生で初めてのことだった。

「ふふっ、ははっ」

 満面の笑みという言葉が、どういう笑みを指すのか分からなかった。
 でも、今日という日に。

(悠真様が見せてくれる、その表情を……)

 私は人生で初めて、満面の笑みという言葉の意味を知ることができたかもしれない。

(とても愛おしく思う)

 悠真様から伝わってくる優しさと、髪に触れる一生懸命さが、私に極上の幸せを運んできたような気がする。

「よし、完璧だな」

 華族に嫁ぐ人間として育てられていた頃は、見た目を気遣うように言われていた。
 没落寸前の北白川家にお洒落を決め込む余裕などなかったけれど、それ相応に相応しい格好をしなければいけないと思っていた。

「美しすぎて、言葉もでないか?」

 そんな生活は終わりを迎え、髪は伸びていく一方のみすぼらしい生活が始まった。
 一度は華族の婚約者にもなれないほど落ちぶれたはずなのに、こうして私は悠真様の手で美しく着飾っていただけた。

「……調子に乗ってしまいそうになります」
「君は調子に乗るくらいが、ちょうどいいんじゃないか」

 妹から奪い取った、筒路森(つつじもり)悠真様の婚約者の座。
 妹が悠真様に好意を抱いていたかは分からないけど、筒路森のご当主様に(すが)った妹の最後の姿が目に焼きついて離れない。
 妹の中に、彼への未練は確実に残っている。
 どんなに多額のお金を北白川に送ったところで、私は妹に許してもらうことはできない。