古より語り継がれし伝説がある。
 山々が真紅に染まる時、一陣の風が道を吹き抜け、そこには鬼と天使が重なっていた――と。

 日本列島の中心部に位置する、とある村。
 四方を山に囲まれたこの村は数年前より過疎地域に指定され、今ではその人口も、およそ千五百人にまで減少していた。今後も人口の減少は進んでいくとみられており、数ヶ月後には近辺の村との合併が予定されている。
 人々はこの村のことを次のように呼ぶ。
 鬼と天使の住まう村――
 美しい人の容姿を成したその鬼は、前触れも無しに現れては様々な災いをもたらした。
 一方で、鬼は時として大きな羽をはためかせ、その身、まるで天使のように村に進むべき道を示したという。
 このもの鬼か天使か。二者は共存できるのか。人々の心が生み出した幻なのではないか。
 真相は遥か彼方、人々の手の届かないところで何百年もの間、眠り続けている。

 これは、そんな伝説を知った少女と、何かが目覚めた日の話である。




「行ってきまーす……って、誰もいないけど」
 赤羽静は部屋に響いた声に小さく微笑むと、勢いよく玄関を開けた。蝶番のオイルが切れた扉はぎぃぎぃと、この世のものとは思えない波長の音を奏でて、あるべき位置へと帰っていく。
「大丈夫……よね?」
 今日は一段と不愉快な音が出てしまった。この音に、怒りを覚えたアパートの住民が飛び出してくるかもわからない。
 しばらくその場で様子を見ていたが、どうやら問題ないようだ。もしかすると、このアパートに住む全員が同じ経験をしているから見逃してくれたのかもしれない。静は音を立てないようにシリンダーキーを回して鍵を掛けると、足早に階段へ向かった。
「早く新しい引っ越し先を見つけなきゃ」
 アパートを背に、静は呟くように言った。
 老朽化の進んだこのアパートは、村が合併するタイミングに合わせて取り壊しになることが決まっている。その通知が来たのが半年前。急遽決まったことなのでと、通知には取り壊しに至った経緯と、長々とした謝罪文が書かれていた。
 それ以来、休日に色々な物件を回るのが静の日課となっている。
 この村で生まれ育ったわけではないが、このアパートは静が社会人となり、初めての一人暮らしをした場所なだけあって思い入れがある。できればもう少し、せめて当初の契約満了日まではここに居たいと思う気持ちがあった。
 とはいえ、こればかりは致し方がない。と気持ちを切り替えたのは良いものの、今度は一人暮らしを始める前に考えていた、「引っ越しのたびに、今よりもいい物件に住む」という、自分を奮い立たせるために立てた目標が頭をちらついて、物件探しは難航していた。
「今日こそ、いい出会いがありますように」
 乗り込んだ自家用車のエンジンを掛けると、静は願を懸けるように口にする。
 この日、静が向かうのは、村の中心部から二十分、さらに山道を進んで十五分のところにある物件だ。所要時間は車での目安時間なので、それなりの距離とはなるが、静は密かに期待をしている。
 管理会社に聞いた話によると、元々はペンションだった物件らしく、人口減少に伴い入居者が減ったことを受けて中を改装し、数年前からルームシェアという形で貸しに出されたのだという。物件を探していたこのタイミングで、ちょうど利用者の一人が退去することになったと連絡が来たのは四日前。「これも、なにかのご縁かも」と、静は二つ返事で内部見学を希望した。
「すごい工事の音……。この辺の道路でも、綺麗になってくれたら良いんだけど」
 目的地に近づくにつれ、重機の稼働音のような音が大きく響き渡る。その音はまるで花火のように、身体の内側から轟いた。
 あまりの大きさに車のパワーウインドウに手を掛けたが、窓は隙間なく閉められている。
 工事の音から逃げるように十字路を左折すると、坂道の傾斜は静の心を表すように穏やかなものへと変わっていく。まもなくして道路の舗装された敷地が見えてくると、カーナビが目的地付近であることを告げた。
 駐車場に車を止めると、上着を手に車を降りる。
「うー……。やっぱり、山の中は寒いなぁ」
「赤羽様、お待ちしておりました。予定よりも随分と早いご到着ですね」
 その声の主が誰であるかわかっていながら、背後から急に聞こえた声に思わず身を竦ませる。静は上着を羽織るよりも先に振り返り、彼女と向き合った。
「宇佐美さん、こんにちは」
 ごめんなさい、驚かせてしまって、と眉根を寄せて口にするのは、この物件を紹介してくれた管理会社の宇佐美という女性だ。宇佐美は数ヶ月もの間、静の新居探しを手伝ってくれている。
「いえ、とんでもないです。直感なんですけど、今日はいい出会いがある気がして、実はちょっと気合いが入ってます。山もこんなに色付いていますし」
「ふふ、私もこちらは非常にいい物件だと思っています。空気も綺麗で、仕事とプライベートを完全に分かつ静けさもあって。職場から遠くなってしまうことを考慮しても、一押し物件のひとつです」
 管理会社の支店長を名乗る男性が言っていた、「ウチのエースにお任せください」という言葉がよくわかる頼もしい表情で宇佐美は言った。その優しくも力強い声には、この人が言うなら大丈夫、と思わせる不思議な力があった。
「ところで宇佐美さん。この近くでやっていた工事なんですけど、この物件に続く道を舗装する、みたいな工事だったりします?」
 静は期待を込めた眼差しを送る。そうであれば、通勤のたびに耳にするであろうあの騒音も、我慢ができるというものだ。
 だが、その答えは静の予想もしていないものだった。
「え、工事……ですか? それって、どの辺りのことですかね?」
 あの騒音が聞こえなかったのか、と思う気持ちは、宇佐美の純粋な表情にかき消される。
「どの辺りって、すぐそこの……。ほら、十字路を曲がる前の山道ですよ」
「十字路を曲がる前の……工事なんてしていたかな」
 静にもはっきり聞こえる声で、宇佐美は独りごちた。んー、と宇佐美が考えていると、内部見学を予定している家の玄関が開き、「どうも」と笑みを浮かべながら、細身で長髪の女性が姿を見せた。白色のワンピースにグレーのスウェットパーカーを羽織る女性は、会釈を繰り返して近づいてくる。
「あ、加賀谷さん。お世話になります」
 宇佐美の声に、加賀谷は「こちらこそ」とか細くも温かみを含んだ返事をして、肩まで伸びた髪の左側を耳に掛けた。
「こちらが今日の――」
 加賀谷が静を笑顔で見つめる。
「はい。内見希望の赤羽様です。赤羽様、こちら、この物件のオーナーの加賀谷さんです」
「初めまして。加賀谷紅葉です」
「初めまして。赤羽静と申します。本日はよろしくお願いします」
 そう言って、静は頭を下げる。そんなに硬くならないで、と笑う加賀谷に、静はもう一度頭を下げて応えた。
 年齢は十も違わないだろうか。ただ、決してそうとは思えないほどに品があり、透明感のある雰囲気を纏っている。紅葉という可愛らしい名前もピッタリだと、静は思った。
「少しお時間が早いですが、もう――」宇佐美が加賀谷の顔色を窺うように尋ねる。
「もちろん、構いませんよ。どうぞこちらへ」
 加賀谷は笑みを絶やさず口にして、玄関へと歩き出す。その所作までもが美しい。
「赤羽様? どうかしましたか?」
「あ、すみません」
 加賀谷に見惚れていた、と気付かれてしまうのが恥ずかしくて、静は視線を伏せると、すぐに二人の後を追った。
 室内は木造で、趣のある古民家のような造りとなっている。ところどころにペンションの名残を感じられる箇所が残されていて、まるで家全体が出迎えてくれているようだった。
 玄関には、大きさの異なる三足の靴が置かれている。ここでルームシェアをしている人たちのものだろうと、その靴の形から静は住居者の姿を想像した。
「入ってすぐが、リビングです」
 加賀谷が扉を開けると、三十帖あるという広々とした部屋が露わになる。吹き抜けになっているので、見た目以上に広く感じる。部屋の隅には暖炉があり、天井にはシーリングファンがゆっくりと回っていた。
「ここは共有スペースとしているので、誰でも自由に使えます。夜になると自然にみんながここに集まって、談笑しているんです」
「中央に置かれたソファがテレビ側ではなく、あえて大きな窓の方を向いているのは、夜景を楽しむことはもちろん、なにより会話を大切にするためなんだそうです」
 宇佐美がすかさず補足する。「ルームシェアに大切なのは程よいプライベート空間と、話を共有できる時間」というのが、加賀谷がペンションからルームシェアへと切り替えた際に掲げたコンセプトなのだという。
「話し相手がいたら良いな」と思っていた静には、その想いは強く共感できた。ルームシェアに抵抗がまるでないのも、このためだ。
 リビングの見学が終わると、キッチンとバスルームを見て、二階へと向かう。二階は住民それぞれの部屋、プライベート空間となっている。トイレは共有だ。
 廊下を行き止まりまで進み、加賀谷が部屋の扉を開ける。
「この部屋が退去予定のお部屋です。まだ荷物が少しあるけれど、内見許可は貰っているから、どうぞ入って」
 失礼します、と静は宇佐美に続く形で入室する。中は八帖ほどの大きさで、家具などを入れたとしても、一人で過ごすには充分な広さがありそうだった。
 そのまま部屋を見学していると、窓側の壁に置かれた一冊の本に目が留まる。
「鬼と天使が魅せる道――?」
 静は無意識に、本のタイトルを口にしていた。その声が聞こえたのか、表情が気になったのかはわからないが、加賀谷はその本を手に取ると、ベッドの上に腰を下ろした。
「赤羽さんは、ご出身はどちら?」
 本のページを捲りながら、加賀谷は言う。艶のある髪が風になびく。
「え……っと、群馬の西側、なんですけど」
「あら、じゃあここから言うほど遠くはないのね。こちらに来たのは、お仕事で?」
 そうです、と答えると加賀谷は本を閉じ、吸い込まれてしまいそうなほどに大きな瞳で静を見据える。
「ここに来る前に……、この村について、聞いたことはある?」
「村についてですか? いえ、特にはなにも……あ、でもこの村が『鬼と天使が住まう村』って呼ばれていることは、村に来てから聞きましたけど――」
 迷信や信仰の類だろうと、静は気にも留めていなかった。それでも転入届を出しに役所へと行った際、担当の年配女性がペラペラと話をしていたので、その言葉だけは耳に残っていた。まさか、それに似たタイトルの本が存在するとは夢にも思わなかったが。
 静が首を傾げていると、加賀谷は手に持った本を静の方へ向けた。
「そうそう、そのこと。この本のタイトル、『鬼と天使が魅せる道』っていうのはね、この村が題材になって書かれている本なの」
「ま、まぁ、タイトルからして、なんとなくそうではなかとは思いましたが……。それにしても、悪魔と天使、ではなくて、鬼と天使、なんですね」
 深く考えもせずに静が口にすると、加賀谷は少し驚いた顔を見せてから、「この村の歴史に興味はあるかしら?」と笑顔で言った。普段であれば、言葉を濁しながらやんわりと「ありません」という方向へ持って行こうとしたはずだ。だが、この日は違った。
「あります。実はわたし、今日はなにかのご縁があるんじゃないかと感じていて。もしかしたらそのお話を聞くことも、一つのご縁であるような気がするんです……変ですよね、お家を探しに来ているのに、こんなことを考えて」
「そんなことない。嬉しいわ」
 加賀谷は大きな目をさらに見開いて立ち上がる。
「もし良かったら近隣散策も兼ねて、少し外に出てみない? この本に出てくる、『鬼が眠る場所』が近くにあるの」
 興奮気味に話す加賀谷の圧力に押されながら、静は「はい」と小さく同意した。
「宇佐美さんも、少しだけよろしいかしら?」
「構いませんよ。ぜひ、ご一緒します」
 こうして新居探しもそこそこにして、静は「鬼の眠る場所」とやらに足を運ぶことになった。

 建物の裏手から、舗装のされていない山道を進んでいく。季節柄、静の苦手な虫が姿を現すことはなかったが、昼間だというのに太陽の光が充分に届かず薄暗い。
 色鮮やかな落ち葉の上、一歩ずつ足元を確かめながら、静は前を歩く加賀谷を追った。
 静寂に包まれる山道に、葉や枝を踏む音だけが響く。
「加賀谷さん。この道はよく来られるんです? 道が無いのに、迷わず進んでいらっしゃるので……」
 十分ほど歩いたところで、静が加賀谷の背中に問い掛ける。日頃の運動不足がたたってか、呼吸はすでに乱れ始めている。
「ええ、定期的にね。それが私の仕事のひとつでもあるんですよ」
 仕事ですか、と返す前に、「あ、見えましたよ」と加賀谷は声を上げた。加賀谷が指差す先に、小さな祠のようなものが見える。
「鬼も祠に眠るんですね」
「鬼とは本来、死者の魂を指すと言われていますから」
「へえ、そうなんですね。ではその魂はまた、どこかへ行くのでしょうか?」
 唐突に、宇佐美が問う。静は思わず、宇佐美を睨むように見つめた。
「ちょ、ちょっと宇佐美さん。怖いこと言わないでくださいよ」
「鋭いですね、宇佐美さん。たしかに、いつ出てきても、おかしくはないんです」
「もう、加賀谷さんまで」
 静が振り返ると、加賀谷は祠の前で、部屋に置かれていた本を片手に微笑んでいた。部屋の中ではタイトルだけが印刷された表紙が見えていたが、今は裏表紙が見えている。
 裏表紙には鬼と天使が並んで歩く背中が描かれていて、その背中は暗く限りなく続いていく道を、照らしているようにも見える。それはまるで、何かを誘おうとしているようでもあった。
「本当に『鬼と天使』なんだ。やっぱり変な組み合わせ……」
 イラストを見て静は言う。
「諸説あると思うけど、鬼は悪魔とは違って、必ずしも悪い存在というわけではないの。例えば……ほら、鬼が地獄で生前の行いを償わせたりするシーンを漫画かなんかで見たことはない? あれはね、その人に二度と悪さをさせないよう更生させるためにしているの」
「一方で、悪魔は人々を悪に誘い込むような悪霊と言われたりします。言うならば、悪魔が人を悪魔の道へと進ませている、ということです。ややこしい部分もありますが、つまり鬼という存在の根本は、人のことを想っている存在ということになりますね」
「あら、宇佐美さん。お詳しいのね」
「この村では……いえ、この辺りでは有名なお話しですので」
 宇佐美は柔らかな笑みを浮かべる。正直、だからなんだというのだ、と静は思った。
「その鬼……と天使が、この村には居たんですか?」
「伝説に近い話ではあるのだけど」と加賀谷が口にした時、ふとした思いが静の頭を過り、「そういえば」と会話を遮る。
「鬼についてはなんとなくわかったんですけど、たしか天使って『神の使者』とも言われていますよね? ということは、この村は神さまから選ばれた村とかそういう――」
「違うの」
 今度は加賀谷が抑揚のない声で、静の言葉を奪う。その表情は真剣そのもので、とても噂話の類を話しているものとは思えない。
「こういう話っていうのは大抵、人間に良い印象を与える方を先にするじゃない? 例えばこの本で言うなら『鬼と天使』ではなく、『天使と鬼』みたいな」
 静に考える時間を与えるように、加賀谷は意図的に次の言葉まで少しの間を開ける。その策略通りに静は思考を巡らせ、たしかにそうか、と思ったタイミングで小さく頷く。
「だけど、これはそうもできなかった。なぜだと思います?」
「……なぜ、なんでしょう?」
「大切なのは〝天使ではなく鬼の方〟だったからなの」
 言葉を返せない。鬼が天使よりも人間に良い印象を与えるなど、聞いたことも無かったからだ。
「鬼が天使よりも……? それはさっき、宇佐美さんが言っていた『鬼という存在の根本は、人のことを想っている存在』ということに繋がるんですか?」
 加賀谷の言いたいことを理解できないまま、静が話を合わせるように尋ねる。が、加賀谷が首を縦に振ることはない。
 代わりに「その鬼というのは」と、再び宇佐美が口を挟む。
「元々、この村の人だったそうなんです。その村人が人の道を外れ、鬼になったと」
「村人が、鬼に……」
 空想上の話だとは思いながらも、言葉が喉に突っかかる。
「真相は定かではないようなのですが、ただその村人は、大変美しい容姿をされていたようで」
「だから天使、ですか?」
「すみません、私もそこまでは」
 眉間に皺を寄せ宇佐美が首を傾げると、驚いたように加賀谷が言う。
「あら、たしか宇佐美さんも、この村のご出身じゃなかったかしら?」
「そ、そうなんですが……」と宇佐美が曖昧に答えると、「まあ、あくまで伝説ですからね」と加賀谷は続ける。
「その村人は容姿だけでなく、心も美しい女性だった。でも、そうであるがゆえ、言い寄って来る殿方も、それを疎ましく思う奥方も多く、彼女には良からぬ噂は後を絶たなかった。そんなある日、彼女はある力に目覚めてしまうの」
「ある力?」
「妖術です。彼女は妖術を使って、その者たちに裁きを下し始めた。そして、裁きを受けた者たちは皆、彼女の示した道を歩んでいった。更生させようとしたのでしょうね。でも……」
 今までの力強い視線が影を潜めるように、加賀谷は大きく息をつき、肩を落とす。静は息を呑んでその様子を見つめた。
「彼女の意図していたことなのかはわからないけれど、裁きを下した者たちが突然、次々と天に昇り、消えてしまった」
「消えた……?」
「それ以降、天に昇った人たちが見つからなかったことで、村人は『すべては彼女の仕業である』と結論付ける他なかった」
「天に昇るというのはつまり――死んでしまった、と?」
「見つかっていない以上確証はないけれど、おそらくは」
 俯くようにゆっくりと、加賀谷は頷いた。
「それが引き金となって彼女は村を追われ、姿を消した。もう二度と、この力を使うものか、ってね。だけど、それだけで終わる話ではなかった。彼女には息子が一人いた。あろうことか、村人はその息子の命を彼女の身代わりとして殺めてしまった」
 再び、刺さるような目力で加賀谷が静を見る。あまりの迫力に背筋が寒くなり、静は両手を身体の前で握った。
 恐る恐る、尋ねる。
「それで……。彼女は、どうしたんですか?」
「怒り狂った。その身に炎を纏い、村中を飛び回っては、妖術を使って村人同士を争わせたの。そこにはもう、人としての感情など無かったんだと思うわ」
「まさに〝鬼〟の所業ですね……」
 感情の宿っていない冷めた目で、宇佐美は瞬きもせずに口にした。その光景を想像するだけでも、血の気が引いていくのがわかる。
「感情を失った彼女はもう、自分の力を抑えることもできなかった。いや、しなかったのかもしれない。人力を越えた力だったから、当然村人も、天に祈ることしかできなかった。そして何日も逃げ回りながら祈願した結果、とうとう神が、その望みを叶えた」
 加賀谷は手に持った本を数ページ捲ると、天使の絵が描かれたページを開く。
 その天使は、鬼の耳を塞いでいる。
「神が、天使を使いに出した――?」
「彼女の力は想像を絶していた。彼女は自分自身と、何日も戦ったそうよ。結局、完全に力を抑えることは難しく、ここに封印することになったの」
「このイラストの天使には、どんな理由が?」
「彼女は村人からありもしない噂話を立てられて、風評被害に遭ってきた。村人の声が、彼女を苦しめたの。だから、息子を殺された彼女の悲しみを消せない代わりに、天使は少しでも彼女を楽にするため、彼女の耳を塞いだとされているわ。それが彼女の、最初で最後の望みでもあったから」
 さらに加賀谷は、独り言のように呟いた。「彼女を鬼にしたのは村人の方だった。それなのに、こんな仕打ちを受けなければならないなんて皮肉よね」
「鬼だから悪者……っていうのも、違うのかもしれませんね」
 静は祠を見据えて言った。
「ただね、その騒ぎの後、村は大きく変わったの。この教訓を生かし、人々を妬んだり、恨んだりすることをせず、みな協力をする道を選んだ。それが〝人の生きる道〟だと、彼女が示そうとしたものなのだと、信じてね」
「だから『鬼と天使が魅せる道』なんですね……。あれ、でも……」
 いつ出てきても、おかしくはないんです――。
 不意に、加賀谷が言った言葉が蘇る。
「加賀谷さん。さっき言っていた、魂が出てくるっていうのは、どういう意味なんですか?」
 その問いかけに、加賀谷の眉根がピクリと動く。空気が張り詰めた、そんな気がした。
「封印に完璧はない。時が流れ、時代が変わり、人も環境も、すべては常に動いている。その時には完璧と思えた封印だったとしても、これらの状況が変われば僅かな綻びなんて、簡単に生じるはず。だとすれば封印なんて、いつ破られてもおかしくはない」
「そ……そうですけど、その鬼が村人だったというのであれば、肉体はもうとっくに――」
「肉体は、ね。でも今は、魂の話でしょう?」
 加賀谷は笑った。不敵に、大胆に、並びの良い白い歯を、覗かせた。
 その口が、動く。
「鬼となった彼女の名前は――楓」
「楓……?」
 木々の隙間から、一筋の光が差し込む。その光を追うように、加賀谷の視線が宇佐美へと向かう。
 宇佐美の胸についたネームプレートが、光に反射する。
「奇遇よね……あなたと同じ、名前だなんて」
 加賀谷の言葉と同時に強い風が吹き抜けると、偶然か必然か、宇佐美の後ろには出口の見えない長い道が生まれていた。