侑は三日ほどかけて、文芸部での最初の一冊を読み切ることができた。紬が貸してくれたのは、高校生を主人公にした恋愛小説だ。男子高校生の部活と恋愛を描いた青春もので、主人公に深く共感できたことも、侑が小説を読了できた理由の一つかもしれない。
 一冊読み終えた後は、紬に「感想をまとめてみませんか」と提案された。

「えっ、読書感想文ってこと? 俺、自慢じゃないけどすごい苦手だよ」
「それはなんていうか……本当に自慢じゃないですね」
「でしょ?」

 紬が小さく笑うので、侑は得意気に胸を張る。実際読書感想文や作文の類は小学生の頃から苦手なのだ。侑は悪知恵が働く子どもだったので、インターネットで調べた本のあらすじをもとに毎回適当な文章を書いていた。本を読まずに書いていることは、教師にバレて当然何度も怒られた。しかし侑は中学校を卒業するまで、その手法を貫き通した。読書も作文も苦手だったからだ。
 高校に入ってからは、長期休みの課題に作文はなくなった。そのことに安堵していた侑が、まさか文芸部に入るなんて誰も想像できなかっただろう。

「感想は一言でもいいと思います。本のタイトルと、その本を読んで真島くんがどう感じたかをメモしておくんです。あとで読み返して、どんな本だったか思い出せるように」
「ふーん。朝日さんもやってるの?」
「やってますよ」

 そう言って紬がカバンの中から取り出したのは、手のひらにおさまってしまうくらい小さいノートだった。
 見てもいいと言われたのでノートを開いてみると、ページごとに本のあらすじと感想がまとめられていた。
 紬の字は少し丸みを帯びているが、丁寧で読みやすい。感想の内容も「描写が生々しくて苦手かも……」や、「すっごくきゅんきゅんした!」と、親しみやすい文体で書かれている。

「感想文っていうより、手紙みたいだね」
「あ、そうですね。未来の自分宛ての手紙かもしれません」
「こんな感じでいいなら俺でも書けるかも!」

 文章を書くのは得意ではないが、手紙のようなイメージならば侑にも書きやすい気がした。
 早速ルーズリーフとペンを取り出し、本のタイトルを書き込む。あらすじをまとめようとして、五分ほど頭を悩ませたところで侑は音を上げた。

「わかんない! あらすじってなに!?」
「ふふ、最初はどうやって書けばいいか分からないですよね。でもすごく簡単でいいと思うんです」

 たとえば、と紬が何個か案を出してくれる。

『主人公がバスケを頑張りながら、マネージャーと恋をする話。』
『真剣に部活に取り組みながら、恋もしている主人公。ラストはチーム初勝利。ずっと応援していてくれたマネージャーに告白する。』
『マネージャーのことが好きだけど告白できない主人公。弱小バスケ部で、勝ったら告白すると決めて、頑張る話。』

 提案されたあらすじはとてもシンプルで、余計な情報は何も含まれていない。むしろシンプルすぎてどんな本か分からないのでは、と侑は首を傾げる。
 紬は笑いながら「自分が分かればいいんですよ」と言った。紬のアドバイスに従って侑はもう一度ルーズリーフと向かい合う。

『バスケが大好きな主人公が、部活も恋愛も頑張る話。』

 侑が書いたものは、紬が案として挙げてくれたものよりも、さらにシンプルになった。しかし侑が後で読み返したときに分かれば問題ないとのことなので、そのまま感想に移ることにした。

『自分のためだけじゃなくて、好きな人のためにも頑張れるのはかっこいいと思った。あとバスケやりたくなった。』

 かなり悩んだ末に書いたのは、とても短い感想だった。
 あまり厚い本ではなかったが、それでも本を一冊分読んだのに、たったの二文しか感想が書けない。侑はその事実に驚いてしまった。
 読んでいる間は心が動かされて、共感したり、応援する気持ちがあったはずなのに。いざ言葉にしようとするとまとまらない。

「…………感想書くのも難しいんだな。俺、やっぱり文章書くのとか向いてないかも……」
「そんなことないですよ。真島くんのも立派な感想です!」

 ルーズリーフの表面をそっと撫でて、紬が笑う。紬はいつも通りのやわらかい口調なのに、なぜか侑の耳には力強く聞こえた気がした。


 文芸部に入って三週間が経った。紬のおすすめの本も、四冊目に突入している。読書初心者だった侑にとっては、かなりハイペースだ。まだ三冊分だが、きちんと本のタイトルとあらすじ、感想も記録している。
 読むことも書くことも苦手だったが、三冊も小説を読めた、というのは侑の自信に繋がっていた。そして同時に、少しだけ文芸部の活動にも興味が出てきた。

「ね、朝日さんってさ、どんな話書いてるの? 小説だよね?」

 休憩のタイミングで紬に声をかけると、大きな目をまたたかせ、紬が首を傾げる。
 それから頰を真っ赤に染めて、侑の視線から逃げるように紬は俯いた。

「あの…………恋愛、小説なんですけど……たぶんあんまり上手ではないです……」
「えっ、そうなの? 朝日さん絶対上手いと思うけど……」

 侑はまだ入部して三週間だが、短い付き合いでも紬が頭のいい人だということには気づいている。勉強が得意、という意味ではない。学業成績も悪くないとは思うが、紬の頭の良さはそれだけではない。
 感情を言葉にすること。言葉の選び方。ものの教え方。会話のレスポンスの速さ。
 何気ないことかもしれないが、侑は密かに感心していた。頭の良さが直接文章の上手さに直結するわけではないかもしれない。でも、紬は言葉の選び方もきれいなので、彼女の書いた文章はきっと読みやすいのだろうと想像している。

「なんでしょう、文章がふわふわしているような気がして……。自分で読み返してみても、直すのも自分なのであんまり分からないんですけど」

 文章がふわふわしている。
 曖昧な表現に、侑は首を傾げるしかなかった。それからふと思い出したのは、最近調べてみた小説投稿サイトのことだ。

「えーっと俺もこの間調べたばっかりだから全然詳しくないんだけどさ、なんか小説を投稿できるサイトとかあるらしいじゃん? 朝日さんはそういうのやってないの?」

 少しだけ文芸部の活動に興味が湧いた侑は、試しに小説の書き方を検索してみた。そのときに見つけたのが、小説を投稿するサイトだ。投稿数は十万を超えていて、侑は目を丸くしてしばらく固まってしまった。
 世の中には趣味で小説を書いている人がたくさんいるらしい。専用のサイトに小説を公開すると、読書好きの人たちが読んでくれるようだった。文章を書く人は、見知らぬ誰かに手軽に自分の作品を読んでもらえる。読むのが好きな人も、ウェブ上で無料で読むことができる。どちら側にも利点のあるいいシステムだ。

「私は……ネットには公開してないんです。手書きだし、知らない誰かに読んでもらうのも、なんかこわくて……」
「こわいってなんで?」
「酷評…………えっと、下手くそって言われたりしないかなって、思っちゃうんです」

 侑は紬の書いた小説を読んだことがない。勝手に上手いだろうと思い込んでいるけれど、実際には侑と同じくらい拙い文章を書くのかもしれない。
 でも、仮に上手くはなかったとしても、侑は紬の小説を読んでみたい、と思うのだ。

「たとえばさ、俺が最初の読者になる、とか…………ダメ?」
「えっ?」
「俺は読むの遅いし、感想も上手く伝えられる自信はないけど…………朝日さんの小説、気になるなーって」

 侑の素直な言葉に、紬は眉を下げて困ったように笑った。小さな口から紡がれたのは、悲しい言葉だった。

「中学生の頃、一度だけ母に見せたことがあるんです。短編だったんですけど……。あなたには才能がないから小説はやめなさいって言われちゃいました」
「…………それは、ひどくない?」

 思わず口にした侑の言葉に、紬は静かに首を横に振る。そして悲しそうな表情で、少しだけ家の話をしてくれた。
 紬の母親は、出版社で編集の仕事をしていたらしい。そこで出会ったのが、一人の売れない小説家。紬の父親だという。
 しかし作家の仕事だけでは生活ができなかった。紬の父は今、会社勤めをしながら小説を書いているそうだ。

「母はそんな父の苦労を知っているから、私に中途半端な夢を見させたくないんだと思います」
「夢を見るのは自由じゃん。そもそも朝日さんは小説家になりたいの?」

 侑の直球すぎる質問に、紬は臆することなく答えた。いつものやわらかい喋り方で、強い決意を口にする。

「…………なりたいです。母は無理だって言いますけど、私は小説を一生書き続けたいんです」

 紬の目がまっすぐに侑を見つめていた。
 その目を、侑は知っていた。サッカーに夢中になっていた頃の侑と、同じ目をしていたのだ。真剣に、ひたむきに、好きなものを追いかける。才能があるかどうかなんて関係ない。好きだから夢中になれる。努力を努力とも思わずに、誰よりも一生懸命になれるのだ。
 紬の夢を応援したい、という気持ちが侑の中に生まれた。まだ出会ってわずか三週間。それでも紬が毎日真剣に文章を書き続けていることを、侑は知っている。一文ずつ丁寧に、ときに悩んで机に顔を突っ伏しながらも、紬は自分の作品と向き合い続けている。

「やっぱりさ、朝日さんの小説、サイトで公開しようよ。ああいうサイトってプロの人も見てたりしない?」
「え?」
「もしくは出版社に持って行って、読んでもらうとか! ほら、漫画とかでよく聞くじゃん…………持ち込み? ってやつ!」
「小説は出版社に持ち込みってほとんどしないですよ……?」
「そうなの!? でもなんか方法あるでしょ! 小説家として本を出す方法!」

 誰もが最初は初心者だったはずだから、アマチュアからプロになる方法があるはずなのだ。スポーツ選手が大会で優秀な成績を残し、プロチームからスカウトを受けることがあるように。もしくは入団試験のような何かが。

「新人賞とかに応募して、賞を獲れれば書籍化できることもあります。でもああいう公募は、最近は手書き不可の場合が多いみたいなんです……」
「えっじゃあなんで朝日さんは手書きで書いてるの!?」
「前はスマホで書いてたんですけど……お母さんにデータ消されちゃって……。それから手書きに切り替えたんです。これなら勉強してるって思ってくれるので」

 いくら娘に茨の道を進ませたくないからといって、紬の母はやり過ぎだ、と侑は思ってしまう。
 紬は親の反対を押し切って、それでも夢を叶えようとしている。大好きな小説を諦めたくなくて、どうにかして作品を完成させようとしているのだ。
 ふと、侑の頭に一つの案が浮かんだ。

「朝日さん。俺に手伝わせてよ」

 紬が不思議そうな表情で首を傾げる。ポニーテールがゆらりと揺れた。

「朝日さんの小説を、俺がスマホに打ち込む。データ化すれば、なんたら賞? とかにも応募できるんでしょ?」
「ええっ? な、なんで……だって、絶対大変ですよ……!?」
「なんで、って…………朝日さんが夢を叶えるところ、見たいから」

 紬は静かに息を飲んだ。そして両手で顔を覆い、そのまま俯いてしまう。
 何かまずいことを言ってしまっただろうか、と侑が慌てていると、紬の小さな声が部室に響いた。
 ありがとう、と呟いた声は、震えている気がした。