今回は、違った。瞬きを繰り返すたびに開けていく視界よりも先に、懐かしい匂いが鼻を刺激する。油と、煙と、湿気を吸い込み過ぎた木々の香りが混じっている。この香りを、俺は幼い頃から知っている。嗅覚に神経を集中させて大きく息を吸い、ゆっくりと目を開ける。少しだけ、過去に想いを馳せていたと思う。瞳がその世界を映すよりも僅かに早く、頭の中にはこの世界の風景が浮かんでいた。俺は、とある飲食店のカウンター席の一席に座っていた。
四つのカウンター席に、四人席のテーブルが二つ。全十二席の小ぢんまりとしたこの店は、都会の床にも負けないくらい、壁と床がべたついている。なのに、文句の一つが出ないどころか、嫌じゃないと思ってしまうのは、昔から馴染みのある店だからなのだろうか。松田との飲み会であの店を選んでしまうのも、料金だけではなく、案外こういうところがルーツになっているのかもしれない。ここは居心地がいい。
店の雰囲気とは似つかぬほどの清潔さを保つキッチンの奥に、店全体を包み込むような安心感をその背中に滲ませる大将の姿がある。昔より恰幅は良くなったが、却って良かったのかも知れない。大将はテンポよく焼き鳥の串を返しながら言う。
「明日が出発の日なんだろ? 親に許可取ってるからって、こんな時間までいて大丈夫か? 遅刻したら俺が匠の父ちゃんに怒られそうで怖いんだが」
もちろん、茜ちゃんのご両親にもね、と加えた大将から出る湯気のようにも見えた焼き鳥の煙を追うと、柱に掛けてある時計の針はまもなく、二十三時を回ろうとしていた。時計は正しく時を刻んでいるようだったが、どうやらその「時」自体が、過去へと遡っているようだった。この日は、俺が島を出る前日に開いてくれた送別会の日だ。と言ってももう、俺の隣には一人しかいない。
予想していた通りとも言えたが、ページが変わるたび、どんどんと過去へ戻っていく。これはこの世界の、一つの特徴なのだと思った。「大事な日なんだから、寝坊なんかするんじゃねーぞ?」
そう言って振り返った大将は、片方の眉毛だけを上げている。顔のバランスが可笑しくて、真剣に考えているのに笑いそうになった。この時のことは覚えている。たしか、「大丈夫っすよ。俺、こういう日はやたらと強い方なんで」みたいなことを言った気がする。当日に寝坊したことを知っている状態で見ると、ダサいを通り越して痛い。だから口にはせずに少しだけ、笑顔を作った。
「大将の言う通りだよ。絶対に寝坊するって。もう十八年もその身体と付き合ってるんだから、そろそろ自分のことくらいわかっても良いんじゃないの?」
どうやら既に似たようなことを言った後なのかもしれない。隣に座る茜の表情は、硬いを通り越して怖い。瞳の奥に炎が宿る。でも正しい。明日、俺はちゃんと、寝坊する。
「遅刻って、一回やると癖になっちゃうんだよ? それが重なったら人からの信頼だって失っちゃったりするんだよ? 出会いだって失っちゃうかも。私は良いよ、別に。匠がそういう人だって知ってるもん。でも、これから会う人はそうじゃないでしょ?」
そういえば、上京してからもしばらくの間、毎朝のように茜から電話が掛かってきた。茜は、生存確認だよ、なんて言っていたけれど、土日祝日は掛かって来なかったし、あれは俺の遅刻癖がつかないようにするためだと今更ながらに思う。朝からうるさいな、と思ったりもした。けど、お陰で入学式にも遅刻せずに行けたし、松田とも出会えたのだから感謝しなければいけない。俺、あの時のお礼、ちゃんと言ったっけ? と不意に思った。
それからも、茜の公開説教は続いた。早く帰れと言ったくせに。このせいで俺は当日寝坊したんじゃないか、という気がした。でも、過去に戻ってまで責任転嫁しようとする自分が悲しくて、太腿をつねりながら茜の話に耳を傾けていた。
「茜ちゃん、言い出しっぺの俺が言うのも変なんだけどさ……その辺にしといてあげてよ」
大将の憐れむ瞳が俺へと向けられている。気付けば茜の説教は、店中の視線を奪い取っていたようだった。俺を見る大将は苦笑いを浮かべ、バツが悪そうな顔へと変わっていた。茜もこの状況に気がついたようで、「まあ、大将がそう言うなら」と身体を正面に戻すと、両手でグラスを持ち、水を一気に流し込んだ。
「じゃあ大将。お勘定お願いします」
茜が言うと、大将は「あいよ」と伝票に手を伸ばす。その顔は心なしか安心しているようだった。伝票は、茜が受け取った。
「これは俺からの餞別だ。その代わりと言っちゃあ可笑しいけど、茜ちゃんのこと、ちゃんと家まで送っていってやれ」
横目で伝票を覗き見ると、合計金額は大きく割り引かれている。割り引かれているというより、ほとんど支払う金額は残っていないように見えた。大将の笑顔が、天使に見えた。そんな俺とは違って茜は「さすがに悪いですよ。私、アルバイトもしていますし」と言っていた。でも結局、伝票に記載された通りの金額で落ち着いた。支払いは、茜がしてくれた。俺はわざとらしいお辞儀を繰り返すだけだった。
「それにしても、匠が島を出ていくなんて寂しくなるな。定期的には帰ってくるんだろ?」
レジにお金を入れながら、大将はこちらを見ずに言った。俺は大将を見ていたが、茜の視線を感じた気がした。
ほんの僅かな時間、迷った。俺の仮説が正しければ、この本に書かれていない内容を加えることはできない。だとしたらたぶん、茜には聞こえない。島を出てから俺がまったく帰ってきていない事実は、茜には届かない。だけど、過去に戻って来てまで嘘をつきたくはなかった。だから届く可能性に賭ける選択を、俺はした。でも、端からそんなものは存在しないのだと、痛感した。
「当たり前じゃないですか! ここは俺にとって、特別な場所なんですから」
ああ、これは俺の声だ。また口から俺の声が出た、と思った。
「お、嬉しいこと言ってくれるじゃねーか。茜ちゃん、匠は本当どうしようもないところがあるけどさ、見捨てないであげてな」
大将は作業の手を見て茜を見る。俺の発言か、大将の言葉が響いたのか。茜は撫でるように手櫛で髪を整えながら、少し嬉しそうに頷いた。「なにニヤついてんだよ」と茶化してやりたかったけれど、自分の声に驚く脳みそは、本当の俺の声を作り出してはくれなかった。あの台詞じみた言葉はなんだ。台本から出てきたようなあの台詞はなんだ。それだけを必死に繰り返していた。そんな思考の隙間に突然、またしても仮説という名の「正」が顔を出す。
茜の本に、「俺の言葉」が書かれていたとしたら?
大将に別れを告げて外に出る。三月下旬の春の夜は、まだ肺を驚かすくらい寒い。「ねえ、さっきの話なんだけど」茜は羽織ったコートのボタンを留めながら言った。
「さっきの話って?」
「大将が言ってた、定期的に島に帰ってくるって話。あれさ、どのくらいに頻度になりそう?」
その笑顔が作られたものだと、すぐにわかった。この夜の冷たい空気がそうさせたわけではないことも、すぐにわかった。だから、ここにいる茜に掛ける最良の言葉を探した。
「匠のことだし、向こうでの生活もそれなりに上手くやるとは思ってる。思ってはいるんだけどさ、向こうのことで必死になっちゃって、島のことを忘れたりしちゃうんじゃないかなって思って。それこそ、私のことだって……さ」
茜の言葉が、俺の喉に蓋をした。なんとか選び抜いた、選び抜かれた言葉の精鋭部隊は、出番もないまま姿を消した。茜を見つめることしかできない俺に、茜は言葉を重ねる。
「……なーんてね。なに本気の顔なんかしてんのよ。冗談だから」
満面の笑みだった。この笑顔は偽りのものだと思えなかったし、思いたくなかった。笑顔に感情が殺された。
「本当に、冗談だから」
四つのカウンター席に、四人席のテーブルが二つ。全十二席の小ぢんまりとしたこの店は、都会の床にも負けないくらい、壁と床がべたついている。なのに、文句の一つが出ないどころか、嫌じゃないと思ってしまうのは、昔から馴染みのある店だからなのだろうか。松田との飲み会であの店を選んでしまうのも、料金だけではなく、案外こういうところがルーツになっているのかもしれない。ここは居心地がいい。
店の雰囲気とは似つかぬほどの清潔さを保つキッチンの奥に、店全体を包み込むような安心感をその背中に滲ませる大将の姿がある。昔より恰幅は良くなったが、却って良かったのかも知れない。大将はテンポよく焼き鳥の串を返しながら言う。
「明日が出発の日なんだろ? 親に許可取ってるからって、こんな時間までいて大丈夫か? 遅刻したら俺が匠の父ちゃんに怒られそうで怖いんだが」
もちろん、茜ちゃんのご両親にもね、と加えた大将から出る湯気のようにも見えた焼き鳥の煙を追うと、柱に掛けてある時計の針はまもなく、二十三時を回ろうとしていた。時計は正しく時を刻んでいるようだったが、どうやらその「時」自体が、過去へと遡っているようだった。この日は、俺が島を出る前日に開いてくれた送別会の日だ。と言ってももう、俺の隣には一人しかいない。
予想していた通りとも言えたが、ページが変わるたび、どんどんと過去へ戻っていく。これはこの世界の、一つの特徴なのだと思った。「大事な日なんだから、寝坊なんかするんじゃねーぞ?」
そう言って振り返った大将は、片方の眉毛だけを上げている。顔のバランスが可笑しくて、真剣に考えているのに笑いそうになった。この時のことは覚えている。たしか、「大丈夫っすよ。俺、こういう日はやたらと強い方なんで」みたいなことを言った気がする。当日に寝坊したことを知っている状態で見ると、ダサいを通り越して痛い。だから口にはせずに少しだけ、笑顔を作った。
「大将の言う通りだよ。絶対に寝坊するって。もう十八年もその身体と付き合ってるんだから、そろそろ自分のことくらいわかっても良いんじゃないの?」
どうやら既に似たようなことを言った後なのかもしれない。隣に座る茜の表情は、硬いを通り越して怖い。瞳の奥に炎が宿る。でも正しい。明日、俺はちゃんと、寝坊する。
「遅刻って、一回やると癖になっちゃうんだよ? それが重なったら人からの信頼だって失っちゃったりするんだよ? 出会いだって失っちゃうかも。私は良いよ、別に。匠がそういう人だって知ってるもん。でも、これから会う人はそうじゃないでしょ?」
そういえば、上京してからもしばらくの間、毎朝のように茜から電話が掛かってきた。茜は、生存確認だよ、なんて言っていたけれど、土日祝日は掛かって来なかったし、あれは俺の遅刻癖がつかないようにするためだと今更ながらに思う。朝からうるさいな、と思ったりもした。けど、お陰で入学式にも遅刻せずに行けたし、松田とも出会えたのだから感謝しなければいけない。俺、あの時のお礼、ちゃんと言ったっけ? と不意に思った。
それからも、茜の公開説教は続いた。早く帰れと言ったくせに。このせいで俺は当日寝坊したんじゃないか、という気がした。でも、過去に戻ってまで責任転嫁しようとする自分が悲しくて、太腿をつねりながら茜の話に耳を傾けていた。
「茜ちゃん、言い出しっぺの俺が言うのも変なんだけどさ……その辺にしといてあげてよ」
大将の憐れむ瞳が俺へと向けられている。気付けば茜の説教は、店中の視線を奪い取っていたようだった。俺を見る大将は苦笑いを浮かべ、バツが悪そうな顔へと変わっていた。茜もこの状況に気がついたようで、「まあ、大将がそう言うなら」と身体を正面に戻すと、両手でグラスを持ち、水を一気に流し込んだ。
「じゃあ大将。お勘定お願いします」
茜が言うと、大将は「あいよ」と伝票に手を伸ばす。その顔は心なしか安心しているようだった。伝票は、茜が受け取った。
「これは俺からの餞別だ。その代わりと言っちゃあ可笑しいけど、茜ちゃんのこと、ちゃんと家まで送っていってやれ」
横目で伝票を覗き見ると、合計金額は大きく割り引かれている。割り引かれているというより、ほとんど支払う金額は残っていないように見えた。大将の笑顔が、天使に見えた。そんな俺とは違って茜は「さすがに悪いですよ。私、アルバイトもしていますし」と言っていた。でも結局、伝票に記載された通りの金額で落ち着いた。支払いは、茜がしてくれた。俺はわざとらしいお辞儀を繰り返すだけだった。
「それにしても、匠が島を出ていくなんて寂しくなるな。定期的には帰ってくるんだろ?」
レジにお金を入れながら、大将はこちらを見ずに言った。俺は大将を見ていたが、茜の視線を感じた気がした。
ほんの僅かな時間、迷った。俺の仮説が正しければ、この本に書かれていない内容を加えることはできない。だとしたらたぶん、茜には聞こえない。島を出てから俺がまったく帰ってきていない事実は、茜には届かない。だけど、過去に戻って来てまで嘘をつきたくはなかった。だから届く可能性に賭ける選択を、俺はした。でも、端からそんなものは存在しないのだと、痛感した。
「当たり前じゃないですか! ここは俺にとって、特別な場所なんですから」
ああ、これは俺の声だ。また口から俺の声が出た、と思った。
「お、嬉しいこと言ってくれるじゃねーか。茜ちゃん、匠は本当どうしようもないところがあるけどさ、見捨てないであげてな」
大将は作業の手を見て茜を見る。俺の発言か、大将の言葉が響いたのか。茜は撫でるように手櫛で髪を整えながら、少し嬉しそうに頷いた。「なにニヤついてんだよ」と茶化してやりたかったけれど、自分の声に驚く脳みそは、本当の俺の声を作り出してはくれなかった。あの台詞じみた言葉はなんだ。台本から出てきたようなあの台詞はなんだ。それだけを必死に繰り返していた。そんな思考の隙間に突然、またしても仮説という名の「正」が顔を出す。
茜の本に、「俺の言葉」が書かれていたとしたら?
大将に別れを告げて外に出る。三月下旬の春の夜は、まだ肺を驚かすくらい寒い。「ねえ、さっきの話なんだけど」茜は羽織ったコートのボタンを留めながら言った。
「さっきの話って?」
「大将が言ってた、定期的に島に帰ってくるって話。あれさ、どのくらいに頻度になりそう?」
その笑顔が作られたものだと、すぐにわかった。この夜の冷たい空気がそうさせたわけではないことも、すぐにわかった。だから、ここにいる茜に掛ける最良の言葉を探した。
「匠のことだし、向こうでの生活もそれなりに上手くやるとは思ってる。思ってはいるんだけどさ、向こうのことで必死になっちゃって、島のことを忘れたりしちゃうんじゃないかなって思って。それこそ、私のことだって……さ」
茜の言葉が、俺の喉に蓋をした。なんとか選び抜いた、選び抜かれた言葉の精鋭部隊は、出番もないまま姿を消した。茜を見つめることしかできない俺に、茜は言葉を重ねる。
「……なーんてね。なに本気の顔なんかしてんのよ。冗談だから」
満面の笑みだった。この笑顔は偽りのものだと思えなかったし、思いたくなかった。笑顔に感情が殺された。
「本当に、冗談だから」