漂う。目を閉じたままフワフワと、漂っている。そんな感覚だった。寒くも暑くもない。身体の力が抜けていく。ここは、どこなんだろう。
 ぴくぴくと、瞼の痙攣が起こると、目を開けることができた。俺はまた、茜の部屋にいた。でもたぶん、あの時の部屋ではない。だってここには、茜がいる。
 茜は机に向かって座っていた。その後ろ姿を、俺は見ていた。
「帰って……来たのか? 俺も、茜も」
 願望を詰め込んだ言葉を部屋の中に落とす。でも、茜は俺を見ない。俺の声は届いていないのだと、すぐにわかった。諦めるように部屋を見渡すと、茜がこの部屋にいること以外にも変わっているところがあった。二人の写真はしっかり飾られているし、カレンダーにはバツ印もない。綺麗な赤丸が、数字を囲っているだけだ。そのことに心が動かない自分に、どこか安心した。たぶん、幻覚はまだ続いている。幻覚が何かを見せようとしている。そう思えた。
 自分でも驚くほどに落ち着いた思考は、考える角度に違いを与える。
「部屋に戻ったわけじゃなくて、部屋に来た、ってことか?」そう呟かせた。
 まるで聞こえていたかのように茜が話し出す。
「あれはなんだったんだろう……変な人だったなあ。匠にも聞いてほしいけど、もうしばらく連絡してないしなあ」
 茜は器用にペンを指で回しながら、ため息交じりに言った。さらに、重ねる。
「あー、なんか段々、また腹が立ってきた。なによ、あいつ。もう二日も既読つけてないってのに、心配とかはないわけ? 記念日だったのに……、電話の一つ、よこしなさいよ!」
 両手で机を叩いて立ち上がり、ペン立てから油性の黒ペンを手に取ると、カレンダーに大きくバツ印を書き込む。その帰り道、睨みを利かせてから写真立ても伏せた。
 カタ、と写真立ての中の二人がタンスと対面した時だった。電気が走るようにある思いが頭を過り、俺は慌ててポケットへと手を運ぶ。動揺のせいか二度、三度、腕はポケットに当たらずズボンの生地を撫でた。なんとか辿り着いたポケットからスマートフォンを取り画面を確認すると、そこには松田と飲み会をしたはずの日付が表示されている。やっぱりそうか、と思った。目の前に広がるこの光景は昨日の話で、俺は今、昨日の茜の部屋に来ている。
「絶対にいつか後悔させてやるんだから。絶対に忘れてやらないんだから。……ってことで、今日のことも本に書いておこう。ついでに、日頃の恨みも追加してやる」
 そう言って、茜は神社で抱きかかえていた、俺が茜の部屋で見たノートに何やら書き始めた。これも幻覚の中にあるからかもしれない。普段は冴えない自分の頭が、今日はやけに冴えていた。
 もしかして俺がいるのは、このノートの中か?
 一度芽生えた思いはすぐに膨らんだ。俺が赤いナニカを潰したから、ここに連れて来られた? あの男と茜は実際に会っていた? 俺が見せられていたのは幻覚ではなく現実だった? 思っていただけなのか、言葉にしていたのかはわからなかったが、脳内で爆発した思考が一気に溢れ出す。幸せを預かるってなんだ? 幸せの中で生きられるって、どういう意味だ?
 部屋に響くペンの音が消えたことを知ったのは、茜が話し始めてからだった。
「……よし。とりあえず、こんなところかな」
 ペンを置き、茜は両手を上げて伸びをする。椅子が茜の体重を散らすように後ろへ傾いた。
「この本も、なんだかんだで結構溜まってきましたねえ。はたして、匠くんはこの本のことを覚えているのでしょうか。まーた、ノートだの日記だの言うのかねえ。ちゃんと覚えていれば〝本〟っていうはずだけど」
 嬉しそうに、茜は本と呼ぶノートを掴む。巡りゆく思考や感情が先行し、ごめん、と言うことも忘れていた。でも、謝らないといけないとは思っていた。だって俺は、その話を覚えていない。本と呼ばれたノートの皺が、茜の眉間にも浮かんでいると思った。
「あーあ、今日も一人ぼっちか。そろそろ見てくれないかな……私のことも」
 ばか、と電源ボタンも押さずに暗いままのスマートフォンに視線を落とし、茜は机に顔を伏せた。茜も連絡を待っていたのだと思う。
「あなたを見つけ出してくれる……か。匠は見つけてくれるのかな?」
 神社で男から受け取った赤いナニカを手に、茜は言った。まさか、と思った。「待て、茜! よせ!」
 届かない声で叫んだ。そんなことも忘れて、叫んだ。でも、やはりどうしても、届かなかった。茜がそれを摘み上げていく様を、俺はただただ、指をくわえて見ているだけだった。あまりの無力さに、不思議となんの感情も抱かなかった。
「……見つけて!」
 崩れて粉と成りゆく赤いナニカが、さらさらと部屋中に茜の言葉が散っていく。また、何もできなかった。また、まばゆい光が視界を奪っていく。目を閉じているのか開けているのかもわからなくなる刹那、茜が俺を見た。
 そんな気がした。