「え? ここって……」
 目の前に広がるのは神社だった。それも実家からもほど近い見慣れた神社で、茜と二人で行ったことだってある。でも、状況がまるで掴めない。見れば見るほど見慣れた神社に、ただ混乱した。頭の整理も追いつかぬまま、鳥居の下に座る人影が新たな混乱を呼ぶ。
 大きめの白いTシャツに、黒のスキニーパンツ。丸めの顔立ちに、少し垂れた大きな目。バンスクリップで束ねられたほのかに茶色のサラサラな髪は、毛先が風になびいている。極めつけは、玄関で見たあのスニーカーだ。心なしか痩せた気もするが、間違いない。
 あれは、茜だ。
 もう状況の整理など、どうでも良かった。ここがどこでも、関係無かった。想いが口から溢れ出す。「おい、茜! 茜!」何度も名前を呼んだ。強く叫ぶように、呼んだ。だが、茜が呼びかけに気づくことはない。静かにじっと、手に抱えたなにかを見つめるように座っている。
 夢なのかもしれないと思った。耳を澄ましても、茜を呼ぶ自分の声が響かない。足が言うことを聞かず、走り出すこともできない。それなのに、身体は一歩、また一歩と歩いていくように、視界は徐々に茜に近づいていく。
 茜の目の前まできてようやく、歩みは止まった。
「茜……?」
 意図せずも、その声は優しくささやくようなものになる。でもやはり、望んでいる反応は見られない。自分はこの世界に存在していない、そんな気がした。手を伸ばし、触れようとする。その手が茜をすり抜けたところで、その先にあるかもわからない空気を握りつぶした。
「一体、何がどうなってるんだよ……」
 頭を抱え、茜の隣に腰を下ろす。座ることはできるんだ、と笑ってしまった。横目に映る茜は微かに震えていて、目には涙が浮かんでいる。彼女をここまで追い込んだ罰なのか。その涙を拭うこともできないのに、どうして俺は、ここにいるのだろう。
「一緒にいるだけで、幸せだったんだよね」
 茜の言葉が胸に刺さると、心臓は、とく、とくとく、とくん、と俺の知らない速さで脈を打った。それが痛みに直結しているのかはわからないが、独特な息苦しさは覚えていた。
「会いたいな……匠」
 想いがこぼれ落ちていく。謝罪を求められてなどいないのに、ごめん、と呟いた。それが何に対して、どこへ向けていたのかは、知りたくなかった。
「ああ、ダメダメ。匠も頑張ってるんだから、私がしっかりしなきゃ」
 抱いた感情を振り払うように、茜は大きくかぶりを振る。さっきより胸の奥深くに刺さった気がしてまた、ごめん、と口にしていた。
 ヒグラシの声が静寂の神社に溶けていく。
 何もできない状況が、返って考える時間をくれた。茜の部屋。伏せられた写真立て。机に置かれたノート。そして、転がり落ちた赤い〝ナニカ〟。それを摘んだ途端、強い光に襲われた。ならばこれは、あの光が魅せる幻覚だ、というのが結論になる。が、一体なぜ、こんな幻覚を見せられているのか。それに対する答えは見出せそうにない。そんな思考回路に割り込むように、ザッ、ザッと砂利を擦って歩く音がする。音は次第に、近くなる。幻覚のはずなのに、手には汗を掻いていた。
 地面を見つめたまま顔を上げていく。黒の浅沓が視界に入り、ゆっくりと視線を運ぶ。純白無紋の斎服に身を包んだ何者かが、そこにはいた。身体が熱くなる。体中から汗が噴き出てくるのがわかる。それを助長するように、心臓は激しく暴れていた。
 この神社の関係者なのだろうか。背格好から、おそらく男性のようだったが、どれだけ瞬きを繰り返しても男の顔をはっきり捉えることができない。呼吸が、乱れる。感情が、追い付かない。
「それ以上……茜に近づくな」
 自分の声に震えた。たぶん、想いは脳を経由せずに出た。だから震えた。でも、これ以上この男を茜に近づけてはいけない。それは間違いないと思った。茜はまだ、男の存在に気が付いていない。「おい! 聞こえないのかよ」魂の叫びでさえ、二人に届かない。
 男は、茜の前で、止まった。
 ようやく茜も男の存在に気が付き、顔を上げる。茜には見えているのだろうか。この距離に来ても、男の顔はぼやけている。
「……なにかご用ですか?」
 茜の声も震えている。腕に力を入れ、なにかを抱きしめるようにした時、そのなにかが茜の部屋で見たノートだと知った。でも、どうしてノートを持っているのかなんて考える余裕は、ほんの少しもなかった。ノートの端には細かな皺が寄っている。
 男はたぶん、茜のことを見ている。見ているのに、黙っている。なにかを確かめるように、じっと見ている。
「すみません、私、急ぐので――」
「その中身は〝幸せ〟ですか?」
 茜の言葉を待たずに、男は言った。
「え……?」
「あなたの手の中にあるモノです。それは、幸せですか?」
 まるで諭すかのように、男は優しく語り掛ける。不思議と不安が消える感覚に陥るほど、その声は穏やかなモノだった。男が手のひらで茜の胸元を指し示すと、それに合わせて茜も抱きかかえていたノートを見た。どことなく、男は笑っている気がした。
「えっと……、この〝本〟のことですか?」茜は言った。
 男は、そうです、と答え、「それは、幸せですか?」と重ねた。
「まあ、はい。これは私の幸せですけど」
 眉根を寄せたまま茜が返事をすると、「それはそれは」と、男は数回、首を縦に振る。たぶん、男は笑っている。
「あの……初めまして、ですよね? あなたは一体、どなたですか? これ以上はもう――」
「私はあなたのことを、ずっと見ておりました」
 こいつ、茜のストーカーか? と思うと同時に立ち上がる。茜がいなくなったのも、こいつに誘拐されたからかもしれない。その気持ちが強くなるにつれ、男に対する恐怖心は薄れた。茜は身体を硬直させていたが無理もない。ストーカーが目の前で自らを、ストーカーです、と自己紹介したようなものなのだ。
「私のことを……ずっと?」座ったまま、手足を使って後退る。
 男は茜が下がった分だけ前に出る。二人を引き離そうと「近づくんじゃねえ!」と威勢よく飛び掛かるも、今度は身体ごと男を擦り抜けてしまう。「くそ!」なんなんだよ、と思いながらすぐに振り返る。身体に触れられなくとも、茜と男の間に立とうと思った。が、それより早く男が口を開く。
「正確には、あなただけではありません。この島の全ての人たちを、です」
 ――全ての、人、たち? と思わず胸の内で繰り返す。「この島の……な、何を言っているんですか?」茜はその場で静かな瞬きを繰り返したあと、小さく口にした。
「その幸せ、私が預かっておきましょう」
 男はそう言って、茜に向かって手を差し出した。たぶん、男は笑っていると思った。
「私の幸せを? あなたが? さっきから何を言ってるんですか? お願いだからもうこれ以上近づかないで。警察を呼びますよ?」
 茜の大声が男に向かって飛び、その勢いを借りるように立ち上がる。冗談じゃないぞ、と示すようにポケットからスマートフォンを取り出したが、男は意に介さず、茜に顔を近づけた。そして、言った。
「あなたのその幸せは、このままではやがて不幸へと変わる時が来るでしょう。幸せを幸せのまま褪せることなく留めておきたいのなら、私に預けるといい」
 直後、男は見た。たぶん、俺を。男の突き刺さるような視線が釘のように尖り、胸を刺している。黙ってみていろ。そんな意味が、込められている。
「現に今、その幸せに苦しんでおられるのでしょう?」
 男は諭すように言う。胸に刺さる痛みは軽減したが言葉が出ない。
 俺はどうして、この光景を見ているんだ?
 必死に言葉を探すように、茜の視線が泳ぐ。でも、男が茜の言葉を待つことは無かった。
「私に預ければ、あなたは幸せの中で生きられる。その幸せが運命であるのならば、いつか、必ず――……」
 男の言葉が突然、水に沈んだように聞こえなくなる。表情が硬くなる茜を映す視界が憎い。今もまだ、男の話は続いている。そんな中、茜の瞳にも男の顔が映っていないことを、俺は知った。
「――この幸せを再び手にしたければ、〝これ〟を使いなさい」
 その声が鼓膜を刺激すると、男は懐から、赤く小さな〝ナニカ〟を取り出した。それは茜の机を転がったあれによく似ていて、「指で潰すだけでいい」と男は加えた。
 男の言った二粒のナニカは今、茜の手のひらに置かれている。茜はそれをじっと見つめていた。同じようにそれを覗くと、ある考えが頭を過る。
 これを潰したから、俺はここにいる?
「あれ? どこに……」
 その声につられて視線を上げたが、男の姿は消えていた。人の気配すら、感じなかった。
『大丈夫。〝彼〟を信じられるのなら、きっとあなたを、見つけ出してくれる』
 茜にも聞こえたのだろうか。あの時と同じように脳内に直接響いた、男の声は。
「え、なに、夢……? でも、確かに〝あれ〟はここに……」
 ザッ……ザザ――……
 スノーノイズのような音が辺りを包むと、戸惑いの表情を浮かべる茜の姿が薄れていく。強い雨音を連想させる音が、次第に大きくなっていく。少しずつ、視界が奪われていく。
「なんだこれ、あ、あかね? 茜……!」
 まるで電源が切れたように、プツン、という音とともに俺の視界から、光が消えた。