爽やかな風が、季節の変わりを知らせようとしている。耳障りに思えた蝉の声も、遠くから微かに届くだけだ。いや、蝉の声だと思う音、と言った方がいいのかもしれない。こうやってまた、終わりながら始まっていく。時は静かに、繰り返していく。
 俺たちは、ベランダから覗く日常を眺めていた。
「今年の夏も、もう終わりだな」
「ふふ。それ、毎年のように言ってない?」
 前を見据えたまま、茜の目尻に皺が寄る。肩についた茶色の髪が、ふわりと風に流される。
「早くも夏が恋しくなった?」
「そんなんじゃないさ。ただ……」
 季節の隙間風には、まだほんのりと、夏の匂いが残っている。この香りを嗅ぐたびに、記憶は過去へと旅に出る。
「あの……夏のこと?」
 いつかと同じように髪を手で抑えると、少しだけ懐かしむような顔をして、茜は頬を緩ませた。
「とっても不思議な夏だったものね」
 鼻で小さく息をつき、俺はまた、流れゆく日常へと視線を戻す。乾いた道路に、タイヤの擦れる音がする。車は前に、進んでいる。
「あ、キレイなトマト。今年もうまくいったのね」
 夏に残された太陽が落ちたのかもしれない。ベランダに置かれたミニトマトは、真っ赤な姿で空を見上げていた。
「ねえねえ。あれ、久し振りに見てみない?」
「あれ?」
 眉を上げ、茜は足早に部屋の中へと入っていく。一体、なにを探しに行ったのだろうか。がさごそと、どこかを漁る音が微かに聞こえてくる。
「なあ。あいつ、何時頃に来ると思う?」
「えー? なにー?」
「まーつーだ。何時頃に来るかなって」
 今日は松田が島に来ることになっている。会うのは何年振りだろうか。詳しい仕事内容は聞いていないが、多忙な日々を送っているらしい。
「背中を押してもらいたい人が、たくさんいるからな」
 頬杖を突きながらそう言った、松田の顔が浮かぶ。
「松田くん? そうだなあ。時間にルーズだからなあ」
 見えてはいないが、茜は笑っている気がした。同時に、船に乗り遅れた松田の姿も浮かんでくる。
「ただいまー」
「あ、想太。おかえりなさい」
「母さん、なにしてるの? こんなに暑いのに大掃除?」
「違うわよ。いいから、早く手を洗ってきなさい」
「へーい」
 どさ、と荷物を置く音がして、洗面所に向かう想太と目が合った。
「おかえり、想太」
「父さんもいたんだ。ただいま」
 どこだったかしら、と嘆くような茜の声が、勢いよく出された水の音でかき消される。程なくして、想太がベランダへとやって来た。
「母さん、探しものでもしてるの?」
「あー、たぶんな。それより、調子はどうだ? 試合、近いんだろ?」
「心配しなくても、今年も予選はちゃんと優勝するから」
 この度胸は母親譲りなのだろう。大した自信だ、と俺は想太の肩を軽く叩いた。
「父さんが現役の頃は、二回戦敗退だったんだっけ?」
「どうだったかな。もう、二十年近くも前の話だ」
 覚えてるくせに、と想太は笑う。もちろん、忘れてなどいない。なにせ、二回も経験しているのだから。
 そんな言葉は口にせず、俺は口元で笑みを作った。
 二十年という時は、あっという間に過ぎ去った。茜と結婚し、息子の想太が生まれ、気付けばもう高校三年生で、バスケ部のキャプテンをしている。高校は俺と同じだが、数年前に本島から有名な先生が赴任したらしく、今では島一番の強豪校となっていた。
 俺の頭に目立つ白髪も、時の流れを教えてくれている。
「そういえば今日、松田が来るぞ」
「松田さん? ロン毛で髭生やして、いかにもチャラそうな?」
「もう。そんな言い方しない。お父さんの古い友人なのよ」
 部屋の奥から茜が顔を出す。小脇には、色褪せたノートが一冊、抱えられていた。
「あれって、その本のことか」
「本? どう見てもノートでしょ、これ」
 想太は本を指さして言う。
「これは本なの。本であり、お父さんとお母さんの大切な宝物。この本が無ければ、想太だって生まれてなかったかもしれないのよ?」
 なにそれ、と呆れるようにため息をついた想太を横目に、俺と茜は目を合わせて笑った。
「もちろん想太も、わたしたちの宝物よ」
「そういうの良いって」
「想太は大切な人、できたのか?」
「大切な人? なにそれ、彼女ってこと?」
 そうだ、と言う代わりに眉を上げる。
「彼女は、まあ……あ、トマトできてんじゃん」
「あー。話を逸らしたなー」
 反応を楽しむ茜をよそに、想太はサンダルを履き、ミニトマトの植えられた鉢の前で屈む。真っ赤な実に手を添えると、トマトはその身を委ねるように、手のひらに収まった。
「てか松田さん、部活の帰りに会ったんだよね」
「え、そうだったのか?」
「だからさっき言ったのも印象というより、見たままを伝えただけ。松田さん、ちょっと寄り道してから行くってさ。そういえば、ちょうどこのトマトみたいな……」
 すっ、と立ち上がり、「どっちだっけか……」と言いながら、想太がズボンの左右のポケットをまさぐる。
「あ、あった、あった」
 右手を握りしめて歩み寄る。
「そん時にこれを貰ったんだけど、これもトマトの仲間? 育てるのに失敗したとか? あの人、父さんみたいに育てるの上手じゃなさそうだもんね」
 目の前で、手のひらがゆっくりと開かれる。
「偶然だろうけど、松田さんにも大切な人がどうこう――ってふたりとも、なにをそんなに驚いてるの?」
 太陽が落ちてしまったのかもしれない。真っ赤に染まった丸いそれは、見覚えのある〝ナニカ〟によく似ていた。
 夏が、終わろうとしている。
 茜の持った本が、ぺらぺらと風に捲られた。