心の中まで見られるのだろうか。澄んだ瞳は俺を捉えて、瞬きすらしていない。無意識に握っていた拳の力を緩めると、ねちゃりと小さな音がして、俺は汗を掻いていたことを知った。雨はすっかり、止んでいる。
「愚かだとは思わないか?」
投げられた言葉は、想像以上に短かった。たぶん答えは、「はい」でも「いいえ」でもないのだと思う。それはわかっているのに、俺はなにも言えなかった。視線を切らさずにいることに、必死だった。
「誰もが幸せになりたいと思って生きている。満たされたいと思っている。それにもかかわらず、誰もそれに辿り着けずにいる。なぜだと思う?」
それが俺に向けられた言葉なのか、幸せを預けた人に向けられた言葉なのかはわからない。ゆっくりとした口調は胸の鼓動を速めたが、頭の回転を速めてはくれなかった。俺は少しだけ、目を細める。思念の神さまが息を吐いた気がした。
「自分と向き合おうとしないからだ。今の自分を受け入れようとしないからだ。それでいて、他人を羨み、理想を抱く。だから気が付くこともない。幸せが既に、自分の胸の中にあることに」
蒼色の瞳が、俺を睨む。茜は俺の手を、握ってくれた。
「そのことに、気付いてもらいたかったと?」
雨が降り続いていたのなら、届かなかったかもしれない。でも、
「幸せって、それだけじゃないと思うんです」
と、それでも俺は、あの瞳に向かって言った。言葉を吐き出した。
「……というと?」
たぶん、俺を試そうとしている。思念の神さまは顎を突き出し、俺を見下すような視線を向けた。
「大切なのは記憶を想いと一緒に保管する。この言葉の通りです。記憶だけではなく、想いも忘れずに居続ける。それが〝幸せを胸に刻む〟ということなんですよね? たしかに、過去の中には忘れてしまった幸せもあります。だけど、今この瞬間から繋がっていく未来の幸せだってあるはずです。胸に刻むだけじゃない。過去も未来も関係ない。記憶も、想いも、この先もずっと〝刻み続けていくこと〟が本当の幸せなんだと思います。あなたは幸せを預けた人たちに、最初の幸せを刻んでくれていた。気付かせてくれていた」
茜の手の力が強くなる。俺の背中を押すように、その温もりを分けてくれている。この優しさは、嘘じゃない。
「だからこそ、ここで誓います」
もう大丈夫。俺は逃げない。〝あの日〟の言葉も、俺の想いも、今はここにある。
――これからも二人で、歩いて行けたらいいね。
俺が茜を守るんだ。
「俺は歩いていく。これからもずっと、茜と一緒に歩いていきます。それが俺たちの、初めて交わした約束だから」
風が草を鳴らして吹き抜ける。雨の匂いを拭い去っていく。思念の神さまが口を開くまで、しばらくの静寂が流れた。でも俺は、もうなにも怖くなかった。繋いだ手の真実が、俺を支えてくれていた。
「なるほど。それが彼女の幸せの大元にある想いであると、言いたいんだね?」
また、俺を睨む。俺は無言のままに頷いた。思念の神さまの肩が大きく下がる。たぶん、大きなため息を吐き出した。そして、「人生は山あり谷ありだ」と言ったその声は、随分と穏やかだった。
「瞬間、瞬間で良い時もあれば悪い時もある。それは、感情を持った生物の特権だからね。結果として、それが物事の分岐点となることだってあるだろう。でもね。幸せと感じた瞬間。その瞬間だけは、間違いなくその人にとっての〝理想の瞬間〟なんだ。それを感じることができたのなら、あとは刻むだけでいい。理想は高くある必要もないし、幸せは大きくなくたって構わない。ただその瞬間の記憶を、想いとともに深く刻んでほしいんだ」
もしかすると、言葉の温度が似ていたのかもしれない。その言葉は、俺の心に染み込むように入ってきた。心の中に、きれいに収まった。
「預かっていたこの幸せは、きちんと彼女の元へ返そう」
俺は初めて、思念の神さまの優しさと温もりに溢れた笑顔を見た。全身の力が抜けるほどに、俺は大きなため息を過去の中へと吐き出していた。
「心から彼を信じた結果だよ」
そう言って、思念の神さまは茜へと視線を移す。茜も笑みを浮かべている。これで全てが終わったのだと、俺は思った。でも、茜は突然「一つ、聞いてもいいですか?」と口にした。思念の神さまは少しだけ驚いた表情を見せたが、どうぞ、とでも言うように眉毛を上げて応えた。
「今まで幸せを預けた人たちは、自分から思念の神さまを訪ねてきたんですよね? だとしたら、どうしてあの時……私の前に現れたんですか? 私は思念の神さまの存在すら知らなかったのに」
今度は小さく肩が下がる。「大した理由ではないんだけどね」と言ったこの顔は苦笑い、なのだと思う。
「私ももう一度、刻みたくなったんだ。君たち人間と関わって、君たちが理想を、幸せを刻む瞬間を……ね」
「幸せを刻む……瞬間ですか」
「私はね、君たちの一つ一つの理想、幸せを刻んで生きているんだ。でもこの何百年もの間、残念ながら私の胸に、それらが新しく刻まれることはなかった。それは少しずつ人々の生活が豊かになってきた証拠でもあるのだけれどね。求める基準が高くなれば小さな幸せに気が付く機会が減るだけでなく、自然と理想も高くなっていく。こればかりは致し方のないことだ。そしていよいよ私はもう必要ない、そう思っていた時だった。君が私の前に現れたのは」
美しい瞳は当時を思い返すかのように、どこか遠くを見ていた。
「匠くん。君の言った通り、彼女は未来へと繋がる幸せを見ていた。それは決して大きなモノではなかったのかもしれない。が、彼女は君を信じた上で、自分自身と向き合おうとしていた。本人はその気持さえ、揺らいでしまっていると思っていたみたいだけどね。そんな人間を、私はもう久しく見ていなかった気がする。だからかな。彼女にとってのこの幸せは特別なモノであると、直感が働いてね。気が付いたら話し掛けていた。彼女がどんな幸せを胸に刻むのか見届けたくなった。その想いを、刻みたいと思った」
「そんな、あの時はただ……」と茜は首を振って否定したが、思念の神さまは微笑みで返す。
「人間は感情を重んじる生き物であり、それ故に時に弱くなる。それは決して悪いことではないんだ。だからこそ理想は一層に輝き、人々の生きる糧となって追い求めていくのだからね。大切なのは、辛い時こそ自分と向き合い、どうして行きたいかを考え、自分に正直になって動いていけるかだ。その意思の強さが、幸せをより深く刻むことに繋がるのだと、私は考えている」
雲の隙間から光が差し、思念の神さまを包んでいく。その姿はまさに〝神〟そのものだった。俺はようやく、思念の神さまの優しさと寂しさを知った気がした。
「いや……本当に良いものを見させてもらった。素晴らしい想いを、刻ませてもらったよ」
自分の胸をぎゅっと掴む仕草を見せて、思念の神さまは言った。
「そうだ。最後に私からも一つ、聞かせてくれないか?」
俺は茜と目を合わせ、二人を代表するように頷いた。
「神だって――理想を求め続けても、良いとは思わないかい?」
その表情は今までで一番、人間らしいと思った。答えはもう、決まっている。
「「はい」」
瞬く間に辺りには白が広がり、俺は茜の手を握ったまま、そっと目を閉じた――。
「愚かだとは思わないか?」
投げられた言葉は、想像以上に短かった。たぶん答えは、「はい」でも「いいえ」でもないのだと思う。それはわかっているのに、俺はなにも言えなかった。視線を切らさずにいることに、必死だった。
「誰もが幸せになりたいと思って生きている。満たされたいと思っている。それにもかかわらず、誰もそれに辿り着けずにいる。なぜだと思う?」
それが俺に向けられた言葉なのか、幸せを預けた人に向けられた言葉なのかはわからない。ゆっくりとした口調は胸の鼓動を速めたが、頭の回転を速めてはくれなかった。俺は少しだけ、目を細める。思念の神さまが息を吐いた気がした。
「自分と向き合おうとしないからだ。今の自分を受け入れようとしないからだ。それでいて、他人を羨み、理想を抱く。だから気が付くこともない。幸せが既に、自分の胸の中にあることに」
蒼色の瞳が、俺を睨む。茜は俺の手を、握ってくれた。
「そのことに、気付いてもらいたかったと?」
雨が降り続いていたのなら、届かなかったかもしれない。でも、
「幸せって、それだけじゃないと思うんです」
と、それでも俺は、あの瞳に向かって言った。言葉を吐き出した。
「……というと?」
たぶん、俺を試そうとしている。思念の神さまは顎を突き出し、俺を見下すような視線を向けた。
「大切なのは記憶を想いと一緒に保管する。この言葉の通りです。記憶だけではなく、想いも忘れずに居続ける。それが〝幸せを胸に刻む〟ということなんですよね? たしかに、過去の中には忘れてしまった幸せもあります。だけど、今この瞬間から繋がっていく未来の幸せだってあるはずです。胸に刻むだけじゃない。過去も未来も関係ない。記憶も、想いも、この先もずっと〝刻み続けていくこと〟が本当の幸せなんだと思います。あなたは幸せを預けた人たちに、最初の幸せを刻んでくれていた。気付かせてくれていた」
茜の手の力が強くなる。俺の背中を押すように、その温もりを分けてくれている。この優しさは、嘘じゃない。
「だからこそ、ここで誓います」
もう大丈夫。俺は逃げない。〝あの日〟の言葉も、俺の想いも、今はここにある。
――これからも二人で、歩いて行けたらいいね。
俺が茜を守るんだ。
「俺は歩いていく。これからもずっと、茜と一緒に歩いていきます。それが俺たちの、初めて交わした約束だから」
風が草を鳴らして吹き抜ける。雨の匂いを拭い去っていく。思念の神さまが口を開くまで、しばらくの静寂が流れた。でも俺は、もうなにも怖くなかった。繋いだ手の真実が、俺を支えてくれていた。
「なるほど。それが彼女の幸せの大元にある想いであると、言いたいんだね?」
また、俺を睨む。俺は無言のままに頷いた。思念の神さまの肩が大きく下がる。たぶん、大きなため息を吐き出した。そして、「人生は山あり谷ありだ」と言ったその声は、随分と穏やかだった。
「瞬間、瞬間で良い時もあれば悪い時もある。それは、感情を持った生物の特権だからね。結果として、それが物事の分岐点となることだってあるだろう。でもね。幸せと感じた瞬間。その瞬間だけは、間違いなくその人にとっての〝理想の瞬間〟なんだ。それを感じることができたのなら、あとは刻むだけでいい。理想は高くある必要もないし、幸せは大きくなくたって構わない。ただその瞬間の記憶を、想いとともに深く刻んでほしいんだ」
もしかすると、言葉の温度が似ていたのかもしれない。その言葉は、俺の心に染み込むように入ってきた。心の中に、きれいに収まった。
「預かっていたこの幸せは、きちんと彼女の元へ返そう」
俺は初めて、思念の神さまの優しさと温もりに溢れた笑顔を見た。全身の力が抜けるほどに、俺は大きなため息を過去の中へと吐き出していた。
「心から彼を信じた結果だよ」
そう言って、思念の神さまは茜へと視線を移す。茜も笑みを浮かべている。これで全てが終わったのだと、俺は思った。でも、茜は突然「一つ、聞いてもいいですか?」と口にした。思念の神さまは少しだけ驚いた表情を見せたが、どうぞ、とでも言うように眉毛を上げて応えた。
「今まで幸せを預けた人たちは、自分から思念の神さまを訪ねてきたんですよね? だとしたら、どうしてあの時……私の前に現れたんですか? 私は思念の神さまの存在すら知らなかったのに」
今度は小さく肩が下がる。「大した理由ではないんだけどね」と言ったこの顔は苦笑い、なのだと思う。
「私ももう一度、刻みたくなったんだ。君たち人間と関わって、君たちが理想を、幸せを刻む瞬間を……ね」
「幸せを刻む……瞬間ですか」
「私はね、君たちの一つ一つの理想、幸せを刻んで生きているんだ。でもこの何百年もの間、残念ながら私の胸に、それらが新しく刻まれることはなかった。それは少しずつ人々の生活が豊かになってきた証拠でもあるのだけれどね。求める基準が高くなれば小さな幸せに気が付く機会が減るだけでなく、自然と理想も高くなっていく。こればかりは致し方のないことだ。そしていよいよ私はもう必要ない、そう思っていた時だった。君が私の前に現れたのは」
美しい瞳は当時を思い返すかのように、どこか遠くを見ていた。
「匠くん。君の言った通り、彼女は未来へと繋がる幸せを見ていた。それは決して大きなモノではなかったのかもしれない。が、彼女は君を信じた上で、自分自身と向き合おうとしていた。本人はその気持さえ、揺らいでしまっていると思っていたみたいだけどね。そんな人間を、私はもう久しく見ていなかった気がする。だからかな。彼女にとってのこの幸せは特別なモノであると、直感が働いてね。気が付いたら話し掛けていた。彼女がどんな幸せを胸に刻むのか見届けたくなった。その想いを、刻みたいと思った」
「そんな、あの時はただ……」と茜は首を振って否定したが、思念の神さまは微笑みで返す。
「人間は感情を重んじる生き物であり、それ故に時に弱くなる。それは決して悪いことではないんだ。だからこそ理想は一層に輝き、人々の生きる糧となって追い求めていくのだからね。大切なのは、辛い時こそ自分と向き合い、どうして行きたいかを考え、自分に正直になって動いていけるかだ。その意思の強さが、幸せをより深く刻むことに繋がるのだと、私は考えている」
雲の隙間から光が差し、思念の神さまを包んでいく。その姿はまさに〝神〟そのものだった。俺はようやく、思念の神さまの優しさと寂しさを知った気がした。
「いや……本当に良いものを見させてもらった。素晴らしい想いを、刻ませてもらったよ」
自分の胸をぎゅっと掴む仕草を見せて、思念の神さまは言った。
「そうだ。最後に私からも一つ、聞かせてくれないか?」
俺は茜と目を合わせ、二人を代表するように頷いた。
「神だって――理想を求め続けても、良いとは思わないかい?」
その表情は今までで一番、人間らしいと思った。答えはもう、決まっている。
「「はい」」
瞬く間に辺りには白が広がり、俺は茜の手を握ったまま、そっと目を閉じた――。