バス停に唯一付いた小さな小窓から微かに光が差し込んでいる。その光はまだ、弱い。晴れてきた、と表現するには些か早く、あくまで、雨が止んだだけだと思う。いや、この屋根を滴る水滴も雨だとするのなら、雨はまだ、完全には止んでいないのかもしれない。視界が晴れるのも、もう少し先になりそうだった。
「当たり前だけど、あの時と同じだね」
茜は晴れ間を探すように、外を見つめている。淀んだ空気を、眺めている。その空気を吸い込んで呼吸をするのだから、俺の体を流れる血液も淀んでしまうのだろうか。俺は、胸の鼓動を感じながら息を吸い、茜の視線を追った。そして、吐き出した。
「うん。悔しいけど、本の通りに進んでるんだろうね」
茜の視線は動かない。返事も、なかった。
「本当はわかっていたんだ。ずっと前から。俺は、逃げてるだけなんだって」
でも、そのお陰で俺は想いを、声にすることができたのだと思う。
「俺が島を出ていくって決めた時もそうだった。逃げたんだ。俺は、茜から。居心地がよかったから、怖くなったんだ。それを認めたくなくて嘘をついた。茜に頼ってばかりの自分を変えるため、抽象的でも、雰囲気だけでも、茜に変わったって思ってもらえるために、俺は島を出ないといけないんだって。俺は俺に、嘘をついたんだ。だから言えなかった。茜に否定されるからじゃない。情けない自分を隠すために、必要な争いから逃げたんだ。ぶつからないとわかりあえないこともあるって、わかっていたのに」
少しだけ、視線が動いた。
「茜の想いを探して気付いたんだ。ああ、俺も茜に、探してもらっていたんだなって。俺が口にしてこなかった想いを茜は探して、残して、繋いでくれていたんだなって。結局、俺は茜に、本の中へ来る選択をさせてしまった。それってつまり、何一つとして変わることができていなかったってことなんだと思う。この島を出てからも、俺は弱い自分に負け続けて、あの頃の自分と変わらない自分のまま、薄っぺらな嘘を、分厚い言い訳で包んだままに過ごしてきただけなんだと思う」
頭では理解していたはずだった。それなのに、受け入れたはずの過去の過ちは、外の世界へと飛び出した途端に鋭い刃物に変わり、また、俺を刺した。何度も何度も、俺の心を突き刺した。これが言葉にすることの重みと痛みなのだと、俺が俺についてきた嘘の罪なのだと、胸の奥で噛み締めた。
茜は俺を、見てくれた。
「私はね……。匠に変わってほしくて、本の中に来たわけじゃないよ」
はっきりとした口調で、言った。傘の先から流れる雫に、息苦しさが溶けて滲んだ。
「私だってそうだもん。私も怖い。匠に本当の気持ちを見せるのが、匠を失うのが、怖い」
茜は唇を噛み、口をつぐんだ。それでも、視線はぶつかったままだった。こんなにも近くにいるのに、茜の言葉を待つことしかできない自分が、情けなかった。
「だからって、別に隠し事はしてないよ?」
俺の考えの先回りでもするように、茜は慌てた様子で小さくかぶりを振る。
「一緒にいると落ち着くし、変に気を遣うことだってないし」
「それならどうして、ここに来たの?」
「だからだよ。だからこそ、私はいつも過去を振り返ってた。戻れない過去に目を向けてたの。一緒にいる時間が長くなると、自分の気持ちを先行し始める。自分の想いばかりぶつけそうになる。そんなことをしたら、きっとうまくいかなくなる。だから私には、あの頃の気持ちが必要だった。お互いの気持ちに素直になれた〝あの日〟の気持ちが」
神社に行ったあの日も、きっと茜は過去を振り返っていた。戦っていたんだ。そう思うと、不思議と肩の力が抜けた。
「だから、本の中に?」
「うん、それもある。でも」と、茜は再び口を閉ざす。
たぶん、一瞬の出来事だったと思う。だけど、俺には時が止まったと錯覚を起こすくらいに、次の言葉までが長く感じた。
「……でもやっぱり、あの神社で言われたことが、胸に刺さったんだと思う」
「初めて思念の神さまに会った時」と俺はあの光景を思いながら口にした。茜は小さく頷いて続けていく。
「そう。あの時に思念の神さまは、私の幸せはやがて不幸へと変わるって言ってた。でもね、その後にこうも言っていたの。『私に預ければ、あなたは幸せの中で生きられる。その幸せが運命であるのならば、いつか、必ず動き出す。必ずあなたを、導いてくれる』って」
あの時、聞き取れなかった思念の神さまの言葉。茜の表情が強張ったのは、それを望む自分と、抗う自分がいたからなのかもしれないと思った。
「その時に思ったの。やっぱりこのままじゃいけない、匠を信じようって。私自身変わらなきゃいけないと思っていたし、思念の神さまに背中を押してもらった感じ、なのかな。匠はきっと、私を見つけてくれる。だからもう一度、私もあの日の想いを感じたかった。匠と……一緒にね」
茜は朗らかに笑った。強がってはいたけれど、その目にはまた、涙が滲んでいた。色んな感情が、想いが、そこには宿っているのかもしれない。でも茜は零さなかった。その涙を、一滴も。だからまだ、茜にはその決意が残っている。そう思った。
鈍いエンジン音を伴いながら、一台のバスが到着する。乗客は誰もいないようだった。プシュー、と開いた扉の風圧に水たまりが揺れた。
「ここで一生、暮らしていくつもりかい?」
抑揚のない声だった。温もりも、冷たさも感じない。だけど知っている。俺はこの感覚を覚えている。バスの中からこちらを覗くように、運転席に座った男性が笑っている。
「やっぱりそうか……」
「それがここでの、ルールだからね」
先程と風貌はまるで違う。でも、俺の視界に入り込むその男性は、思念の神さまで間違いなかった。深く被った制帽の鍔を摘み、立ち上がる。胸の鼓動よりもゆっくりと歩みを進め、思念の神さまはバスから降りた。
「随分と怖い顔をしているね。その様子では、残念ながら君は……彼女の想いを見つけることができなかった、ということなのかな?」
口元で笑みを作ると、思念の神さまは俺の言葉を待つように、両手をポケットに入れたまま立ち止まる。目深に被った制帽が邪魔で表情は見えないが、楽しんでいるようにも思えた。震える足を強くつねってから腰を上げる。「あの時」と俺が話し出すと、茜も隣に並んだ。
「俺たちがクリスマスの日に立ち寄ったケーキ屋で、『忘れることはあっても過去が変わることはない。大切なのは〝記憶を想いと一緒に保管すること〟だ』そう言ったのは……思念の神さま、あなたなんですよね? 想いを見せるためにあなたが創った過去の中で、あなたはあの場に現れた」
思念の神さまは黙って聞いている。口元の笑みも、残したままだった。でも、
「あなたも……苦しんでいたんですよね?」
その一言で、笑みは消えた。
「ちょっと、匠。それってどういう意味?」
「あの言葉を聞いた時、最初は俺も、素敵な考えをする人だなって思うだけだった。でもね、さっきの茜の話を聞いて思ったんだ。もし本当に、思念の神さまが幸せを司る神さまなら。預かった幸せを返せず、その人たちの抱える悲しみや無念、苦しみまでを預かっているのなら。きっとそれを〝意味のある記憶〟として伝えてくれる。伝えに来てくれる。茜が思念の神さまと繋がって色々感じたのだって、幸せの中で彷徨い続けてる人たちのことを、今でも想い続けてくれているからでしょ? だから想いは消えずに残ってた。誰かが覚えてさえいれば、記憶も、想いも、風化することなんてない。絶対どこかに、繋がっていく」
初めて俺を見ようとしたのかもしれない。思念の神さまは、制帽の鍔を上げた。少しだけ強さを増して差し込む日差しに、薄い蒼色の瞳が光った。
「当たり前だけど、あの時と同じだね」
茜は晴れ間を探すように、外を見つめている。淀んだ空気を、眺めている。その空気を吸い込んで呼吸をするのだから、俺の体を流れる血液も淀んでしまうのだろうか。俺は、胸の鼓動を感じながら息を吸い、茜の視線を追った。そして、吐き出した。
「うん。悔しいけど、本の通りに進んでるんだろうね」
茜の視線は動かない。返事も、なかった。
「本当はわかっていたんだ。ずっと前から。俺は、逃げてるだけなんだって」
でも、そのお陰で俺は想いを、声にすることができたのだと思う。
「俺が島を出ていくって決めた時もそうだった。逃げたんだ。俺は、茜から。居心地がよかったから、怖くなったんだ。それを認めたくなくて嘘をついた。茜に頼ってばかりの自分を変えるため、抽象的でも、雰囲気だけでも、茜に変わったって思ってもらえるために、俺は島を出ないといけないんだって。俺は俺に、嘘をついたんだ。だから言えなかった。茜に否定されるからじゃない。情けない自分を隠すために、必要な争いから逃げたんだ。ぶつからないとわかりあえないこともあるって、わかっていたのに」
少しだけ、視線が動いた。
「茜の想いを探して気付いたんだ。ああ、俺も茜に、探してもらっていたんだなって。俺が口にしてこなかった想いを茜は探して、残して、繋いでくれていたんだなって。結局、俺は茜に、本の中へ来る選択をさせてしまった。それってつまり、何一つとして変わることができていなかったってことなんだと思う。この島を出てからも、俺は弱い自分に負け続けて、あの頃の自分と変わらない自分のまま、薄っぺらな嘘を、分厚い言い訳で包んだままに過ごしてきただけなんだと思う」
頭では理解していたはずだった。それなのに、受け入れたはずの過去の過ちは、外の世界へと飛び出した途端に鋭い刃物に変わり、また、俺を刺した。何度も何度も、俺の心を突き刺した。これが言葉にすることの重みと痛みなのだと、俺が俺についてきた嘘の罪なのだと、胸の奥で噛み締めた。
茜は俺を、見てくれた。
「私はね……。匠に変わってほしくて、本の中に来たわけじゃないよ」
はっきりとした口調で、言った。傘の先から流れる雫に、息苦しさが溶けて滲んだ。
「私だってそうだもん。私も怖い。匠に本当の気持ちを見せるのが、匠を失うのが、怖い」
茜は唇を噛み、口をつぐんだ。それでも、視線はぶつかったままだった。こんなにも近くにいるのに、茜の言葉を待つことしかできない自分が、情けなかった。
「だからって、別に隠し事はしてないよ?」
俺の考えの先回りでもするように、茜は慌てた様子で小さくかぶりを振る。
「一緒にいると落ち着くし、変に気を遣うことだってないし」
「それならどうして、ここに来たの?」
「だからだよ。だからこそ、私はいつも過去を振り返ってた。戻れない過去に目を向けてたの。一緒にいる時間が長くなると、自分の気持ちを先行し始める。自分の想いばかりぶつけそうになる。そんなことをしたら、きっとうまくいかなくなる。だから私には、あの頃の気持ちが必要だった。お互いの気持ちに素直になれた〝あの日〟の気持ちが」
神社に行ったあの日も、きっと茜は過去を振り返っていた。戦っていたんだ。そう思うと、不思議と肩の力が抜けた。
「だから、本の中に?」
「うん、それもある。でも」と、茜は再び口を閉ざす。
たぶん、一瞬の出来事だったと思う。だけど、俺には時が止まったと錯覚を起こすくらいに、次の言葉までが長く感じた。
「……でもやっぱり、あの神社で言われたことが、胸に刺さったんだと思う」
「初めて思念の神さまに会った時」と俺はあの光景を思いながら口にした。茜は小さく頷いて続けていく。
「そう。あの時に思念の神さまは、私の幸せはやがて不幸へと変わるって言ってた。でもね、その後にこうも言っていたの。『私に預ければ、あなたは幸せの中で生きられる。その幸せが運命であるのならば、いつか、必ず動き出す。必ずあなたを、導いてくれる』って」
あの時、聞き取れなかった思念の神さまの言葉。茜の表情が強張ったのは、それを望む自分と、抗う自分がいたからなのかもしれないと思った。
「その時に思ったの。やっぱりこのままじゃいけない、匠を信じようって。私自身変わらなきゃいけないと思っていたし、思念の神さまに背中を押してもらった感じ、なのかな。匠はきっと、私を見つけてくれる。だからもう一度、私もあの日の想いを感じたかった。匠と……一緒にね」
茜は朗らかに笑った。強がってはいたけれど、その目にはまた、涙が滲んでいた。色んな感情が、想いが、そこには宿っているのかもしれない。でも茜は零さなかった。その涙を、一滴も。だからまだ、茜にはその決意が残っている。そう思った。
鈍いエンジン音を伴いながら、一台のバスが到着する。乗客は誰もいないようだった。プシュー、と開いた扉の風圧に水たまりが揺れた。
「ここで一生、暮らしていくつもりかい?」
抑揚のない声だった。温もりも、冷たさも感じない。だけど知っている。俺はこの感覚を覚えている。バスの中からこちらを覗くように、運転席に座った男性が笑っている。
「やっぱりそうか……」
「それがここでの、ルールだからね」
先程と風貌はまるで違う。でも、俺の視界に入り込むその男性は、思念の神さまで間違いなかった。深く被った制帽の鍔を摘み、立ち上がる。胸の鼓動よりもゆっくりと歩みを進め、思念の神さまはバスから降りた。
「随分と怖い顔をしているね。その様子では、残念ながら君は……彼女の想いを見つけることができなかった、ということなのかな?」
口元で笑みを作ると、思念の神さまは俺の言葉を待つように、両手をポケットに入れたまま立ち止まる。目深に被った制帽が邪魔で表情は見えないが、楽しんでいるようにも思えた。震える足を強くつねってから腰を上げる。「あの時」と俺が話し出すと、茜も隣に並んだ。
「俺たちがクリスマスの日に立ち寄ったケーキ屋で、『忘れることはあっても過去が変わることはない。大切なのは〝記憶を想いと一緒に保管すること〟だ』そう言ったのは……思念の神さま、あなたなんですよね? 想いを見せるためにあなたが創った過去の中で、あなたはあの場に現れた」
思念の神さまは黙って聞いている。口元の笑みも、残したままだった。でも、
「あなたも……苦しんでいたんですよね?」
その一言で、笑みは消えた。
「ちょっと、匠。それってどういう意味?」
「あの言葉を聞いた時、最初は俺も、素敵な考えをする人だなって思うだけだった。でもね、さっきの茜の話を聞いて思ったんだ。もし本当に、思念の神さまが幸せを司る神さまなら。預かった幸せを返せず、その人たちの抱える悲しみや無念、苦しみまでを預かっているのなら。きっとそれを〝意味のある記憶〟として伝えてくれる。伝えに来てくれる。茜が思念の神さまと繋がって色々感じたのだって、幸せの中で彷徨い続けてる人たちのことを、今でも想い続けてくれているからでしょ? だから想いは消えずに残ってた。誰かが覚えてさえいれば、記憶も、想いも、風化することなんてない。絶対どこかに、繋がっていく」
初めて俺を見ようとしたのかもしれない。思念の神さまは、制帽の鍔を上げた。少しだけ強さを増して差し込む日差しに、薄い蒼色の瞳が光った。