バス停の屋根を叩く雨音が和らぐにつれ、蒸し暑さが顔を出す。皮膚の上に、薄い膜が張られた感覚に近かった。そのせいで、Yシャツが肌に張り付いている気がするけれど、実際には付いてはいないのだと思う。でもきっと、いつかこの日を思い返した時、記憶の中では張り付いていたことになる気がする。
「思ってた状況とは、だいぶ違ったなあ」
思い返せる記憶を辿ると、俺はそう言葉にしていた。自分のことを考えていたのか、茜は少しだけ頷きかけたが、すぐに頭を止め、「思ってた状況って?」と眉根を寄せて俺を見る。
「俺はてっきり、茜が預けた幸せの大元にある想いを見つけた時、茜に会えると思ってたんだ。だけど、実際にはもう茜に会えていて、こうして会話もできてるからさ。あれ、もしかして……茜は自分を見つけてほしいって気持ちより、自分の想いに気が付いてほしい気持ちの方が大きかったの?」
きょとんとした顔をして、茜は苦笑いを浮かべる。
「それはまた甲乙つけがたい、難しい質問だね。うーん、どうなんだろう。半分当たりで、半分外れ、になるのかな」
半分? と訊き返す。
「私は私を見つけてもらいたかった。だから、その部分に関しては正解だよ。でも、あとの半分。私の想い云々っていうのは私というより、思念の神さまからの願いだとも思う」
「思念の神さまの? どういう意味?」
「はっきりは言えないんだけど……それが思念の神さまが存在する理由なんじゃないのかな」
「思念の神さまが……存在する理由?」
頭で処理しきれなかった言葉をはじき出すように、反射的に繰り返す。
「幸せを預ける時にね、ほんの一瞬だったんだけど、ぶわぁ、って思念の神さまの中が見えたというか、広がったというか、繋がったような感覚になったの。その時に感じたんだ。思念の神さまって、本当はすごく、寂しいんじゃないかなって」
茜の話に追いつけなくなっていた。脳も考えることを放棄したように、「思念の神さまが? 寂しい?」と断片的な言葉しか俺に与えてくれなかった。
「うん。だって思念の神さまは、とても優しい神さまだと思うから」
思い浮かぶのは直近の記憶、あの駄菓子屋でのやり取りだった。とてもじゃないが、「優しい」「寂しい」といった言葉が当てはまるとは思えない。初めて出会った神社での記憶を辿っても、その気持ちは変わらない。
「それ、本気で言ってるの? それに茜は、この本の中でも会話という会話をしてないんじゃなかった?」
それなら印象は俺と変わらないはずだろう、そんな思いを視線に込めて俺は続けた。
「二人で初詣に行ったあの日だって、思念の神さまは別の神さまが祀られている神社にも構うことなく勝手に侵入する、問題のある神さまだって聞いた。そんな神さまが優しいなんて、本当にそう思える?」
感情に任せて話したせいか、少しだけ息が乱れた。それでも茜は動じる素振りを見せることもなく、そうだけど、と返す。
「匠は考えたことはない? 私みたいに、こうやって幸せを預けた人が、他にもいるんじゃないかって」
冷静に話す茜の言葉に、俺の身体の熱が奪われていくのがわかる。だって俺にも、その考えが浮かんでしまっていたから。思念の神さまの存在を知った時、「島の中でも限られた地域だけの言い伝えだから」とも聞いていた。それはつまり、限られた地域では言い伝えられるほど、経験、体験した人がいるということなのではないか、と思っていた。
「私は思念の神さまと繋がったからわかる。今までも、こうして幸せを預けた人はいた。それも一人、二人って数じゃなくて、数え切れないくらいたくさんの人。言ってしまえば、それだけ思念の神さまを頼る人がいたってことになるでしょう? いつ消えてしまうかもわからない幸せを、色褪せないように預けておきたいという人たちが」
小さなバス停に、茜の声がこだまする。途切れた会話に割り込む雨の音がうるさい。雨は弱くなったはずなのに、うるさい。まるで茜の声を、ここに閉じ込めようとしているようだった。俺は反響する全ての音に、耳を澄ませた。
「思念の神さまはね、人の幸せをより深く胸に刻むために、よかれと思って始めたんだよ。決まった神社に留まっていないのも、そこに理由があるの。人には一人一人に事情がある。神頼みだからって誰しもがみんな、特定の神社に行けるとは限らない。行きたくても行けない人だっている。だから思念の神さまは、あえて決められた神社には身を置かず、色々なところに出向いては人の幸せを預かった。人々の幸せを願って動いてくれたの」
小刻みに震える茜の瞳には、力強さと同じくらい、寂しさを感じた。まるで、思念の神さまが乗り移ったみたいだった。その想いを、代弁しているようだった。でも、「だけどね」と口にした瞬間の茜の表情は、たしかに悲しげだった。
「預けた人の中には未だに……過去の幸せや思い出の中を彷徨っている人や、その幸せを取りに行くことができなかった人もいる。目的を達成できずに亡くなってしまった人だっている。今も私たちのように幸せの中にいる人は、まだ救われる可能性があるかもしれない。でもね。怖くて幸せを取りに行けなかった人、望んだけど叶わなかった人たちに残された感情は幸せなんかじゃない。悲しみや無念、苦しみなの。その感情は……一体、どこに行くと思う?」
それはすぐに、頭に浮かんだ。俺にまで思念の神さまが乗り移ったのかと思うくらい、すぐに浮かんできた。茜には、それが伝わったようだった。
「そう。全ては〝思念の神さまの中で永遠に残る〟みたい。全てを見てきている神さまからしたら、見つけてほしいのに見つけられずに終わってしまうなんて、すごく寂しいことだよね。私は別に、思念の神さまを擁護するつもりなんてないよ。でも、匠が駄菓子屋で話した時と、私が神社で話した時の口調が違ったのはさ、『幸せを見つける側にも幸せになってほしい』からなんじゃないのかな? 幸せになる〝覚悟と責任〟を持っていてほしいから」
よかれと思って始めたのにね、と最後に茜は小さく呟いた。
『幸せを見つける側にも幸せになってほしい』
その言葉がしばらく耳に残って、離れなかった。
「それならどうして、思念の神さまはこんなことを続けているの? もう幸せを預かることを止めてしまえば、そんなことには……」
「それができなかったんだよ。こうしてる今だって、幸せを預けたい、この気持ちを忘れずに胸に刻みたいと願う人がいる。預かった幸せを見つけてもらうことで、人々を幸せにしたいと思う神さまがいる。互いに互いを必要としているの。だからそんな人がいる限り、それが思念の神さまが思念の神さまとして存在し続ける理由になるんじゃないのかな」
茜の視線が静かに宙を彷徨っていく。俺にはそれが、救いを求めているようにも見えて、胸が痛かった。
「思ってた状況とは、だいぶ違ったなあ」
思い返せる記憶を辿ると、俺はそう言葉にしていた。自分のことを考えていたのか、茜は少しだけ頷きかけたが、すぐに頭を止め、「思ってた状況って?」と眉根を寄せて俺を見る。
「俺はてっきり、茜が預けた幸せの大元にある想いを見つけた時、茜に会えると思ってたんだ。だけど、実際にはもう茜に会えていて、こうして会話もできてるからさ。あれ、もしかして……茜は自分を見つけてほしいって気持ちより、自分の想いに気が付いてほしい気持ちの方が大きかったの?」
きょとんとした顔をして、茜は苦笑いを浮かべる。
「それはまた甲乙つけがたい、難しい質問だね。うーん、どうなんだろう。半分当たりで、半分外れ、になるのかな」
半分? と訊き返す。
「私は私を見つけてもらいたかった。だから、その部分に関しては正解だよ。でも、あとの半分。私の想い云々っていうのは私というより、思念の神さまからの願いだとも思う」
「思念の神さまの? どういう意味?」
「はっきりは言えないんだけど……それが思念の神さまが存在する理由なんじゃないのかな」
「思念の神さまが……存在する理由?」
頭で処理しきれなかった言葉をはじき出すように、反射的に繰り返す。
「幸せを預ける時にね、ほんの一瞬だったんだけど、ぶわぁ、って思念の神さまの中が見えたというか、広がったというか、繋がったような感覚になったの。その時に感じたんだ。思念の神さまって、本当はすごく、寂しいんじゃないかなって」
茜の話に追いつけなくなっていた。脳も考えることを放棄したように、「思念の神さまが? 寂しい?」と断片的な言葉しか俺に与えてくれなかった。
「うん。だって思念の神さまは、とても優しい神さまだと思うから」
思い浮かぶのは直近の記憶、あの駄菓子屋でのやり取りだった。とてもじゃないが、「優しい」「寂しい」といった言葉が当てはまるとは思えない。初めて出会った神社での記憶を辿っても、その気持ちは変わらない。
「それ、本気で言ってるの? それに茜は、この本の中でも会話という会話をしてないんじゃなかった?」
それなら印象は俺と変わらないはずだろう、そんな思いを視線に込めて俺は続けた。
「二人で初詣に行ったあの日だって、思念の神さまは別の神さまが祀られている神社にも構うことなく勝手に侵入する、問題のある神さまだって聞いた。そんな神さまが優しいなんて、本当にそう思える?」
感情に任せて話したせいか、少しだけ息が乱れた。それでも茜は動じる素振りを見せることもなく、そうだけど、と返す。
「匠は考えたことはない? 私みたいに、こうやって幸せを預けた人が、他にもいるんじゃないかって」
冷静に話す茜の言葉に、俺の身体の熱が奪われていくのがわかる。だって俺にも、その考えが浮かんでしまっていたから。思念の神さまの存在を知った時、「島の中でも限られた地域だけの言い伝えだから」とも聞いていた。それはつまり、限られた地域では言い伝えられるほど、経験、体験した人がいるということなのではないか、と思っていた。
「私は思念の神さまと繋がったからわかる。今までも、こうして幸せを預けた人はいた。それも一人、二人って数じゃなくて、数え切れないくらいたくさんの人。言ってしまえば、それだけ思念の神さまを頼る人がいたってことになるでしょう? いつ消えてしまうかもわからない幸せを、色褪せないように預けておきたいという人たちが」
小さなバス停に、茜の声がこだまする。途切れた会話に割り込む雨の音がうるさい。雨は弱くなったはずなのに、うるさい。まるで茜の声を、ここに閉じ込めようとしているようだった。俺は反響する全ての音に、耳を澄ませた。
「思念の神さまはね、人の幸せをより深く胸に刻むために、よかれと思って始めたんだよ。決まった神社に留まっていないのも、そこに理由があるの。人には一人一人に事情がある。神頼みだからって誰しもがみんな、特定の神社に行けるとは限らない。行きたくても行けない人だっている。だから思念の神さまは、あえて決められた神社には身を置かず、色々なところに出向いては人の幸せを預かった。人々の幸せを願って動いてくれたの」
小刻みに震える茜の瞳には、力強さと同じくらい、寂しさを感じた。まるで、思念の神さまが乗り移ったみたいだった。その想いを、代弁しているようだった。でも、「だけどね」と口にした瞬間の茜の表情は、たしかに悲しげだった。
「預けた人の中には未だに……過去の幸せや思い出の中を彷徨っている人や、その幸せを取りに行くことができなかった人もいる。目的を達成できずに亡くなってしまった人だっている。今も私たちのように幸せの中にいる人は、まだ救われる可能性があるかもしれない。でもね。怖くて幸せを取りに行けなかった人、望んだけど叶わなかった人たちに残された感情は幸せなんかじゃない。悲しみや無念、苦しみなの。その感情は……一体、どこに行くと思う?」
それはすぐに、頭に浮かんだ。俺にまで思念の神さまが乗り移ったのかと思うくらい、すぐに浮かんできた。茜には、それが伝わったようだった。
「そう。全ては〝思念の神さまの中で永遠に残る〟みたい。全てを見てきている神さまからしたら、見つけてほしいのに見つけられずに終わってしまうなんて、すごく寂しいことだよね。私は別に、思念の神さまを擁護するつもりなんてないよ。でも、匠が駄菓子屋で話した時と、私が神社で話した時の口調が違ったのはさ、『幸せを見つける側にも幸せになってほしい』からなんじゃないのかな? 幸せになる〝覚悟と責任〟を持っていてほしいから」
よかれと思って始めたのにね、と最後に茜は小さく呟いた。
『幸せを見つける側にも幸せになってほしい』
その言葉がしばらく耳に残って、離れなかった。
「それならどうして、思念の神さまはこんなことを続けているの? もう幸せを預かることを止めてしまえば、そんなことには……」
「それができなかったんだよ。こうしてる今だって、幸せを預けたい、この気持ちを忘れずに胸に刻みたいと願う人がいる。預かった幸せを見つけてもらうことで、人々を幸せにしたいと思う神さまがいる。互いに互いを必要としているの。だからそんな人がいる限り、それが思念の神さまが思念の神さまとして存在し続ける理由になるんじゃないのかな」
茜の視線が静かに宙を彷徨っていく。俺にはそれが、救いを求めているようにも見えて、胸が痛かった。