視界が白く濁っている。家の屋根を叩く雨が不規則なリズムを奏でながら、強く自分の存在を主張していく。地面で跳ねた雨も、新しい雨に潰される。雨脚は、次第に強くなっていた。「あの時もこんなに、強かったっけ?」と、俺は思わず茜に問いかける。
「もう少し弱かった気もするけど……、あ、でも」
思い当たる節があるのか、茜は苦笑いを浮かべた。
「このページって他のページと違って、日にちが経ってから後日、追加したページなんだよね。普段以上に記憶を頼りに。だからちょっと、誇張して書いちゃっていたのかも」
「おい、ふざけるなって」俺は雨と戦いながら文句をつけた。
「し、仕方ないでしょ。変な緊張もあって、あんまりはっきりと覚えていなかったんだから。あ、そんなことより見えてきたよ」茜は前方を指さした。
そんなことってなんだよ、と思いながら、俺もその先を追った。視界も悪く、目を細めなければ見えない距離ではあったが、たしかに見えていた。俺たちは今、帰りのバス停を目指している。目標を見つけると、雨で濡れた靴下も、気にはならなくなった。
駄菓子屋を出てからおよそ十五分。ようやくバス停に辿り着いた。
「この雨のせいか、記憶よりだいぶ長い時間歩いてた気がするよ」
「厳密には茜のせいだけどな」と、冗談を言う元気は辛うじて残っていて安心した。
バス停は小さな小屋のような形をしている。壁に沿ってコの字型にベンチが配置されており、俺は傘についた雨を払うことなく、入口正面の席に腰を下ろした。地面と近づいたからなのか、雨の匂いに土の香りが混じっていた。その匂いの懐かしさに一瞬、どちらが現実なのかわからなくなった。
小さく息をつくと、これまでの出来事が走馬灯のように駆け巡る。一つ一つのページで出会った茜は同じようで、まるで違う顔をしていた。それは、その時の想いや感情がそうさせていたのだと、今ならわかる気がした。今まで気付けなかった表情や仕草、温度を感じさせるために、思念の神さまは俺をここに呼んだのではないかとさえ思えた。
「本当……俺はなにも見えていなかったんだな」
雨音に隠れるくらいの声で、俺は小さく呟いた。こんなにも近くにいながら、情けなかった。見ているつもりになっていたことは、見てきたものより多いのかもしれない。
「え? なにか言った?」
俺を覗き込むように、茜は言った。傘の先には、小さな水たまりができていた。
「いや、この中に来てから、色々あったなって」
「そうは言っても、ほとんどが二回目の経験だけどね。それでもそう思ったんだ?」
「それもそうなんだけどさ。二回目だったからこそ、茜をちゃんと見られた気がするんだ」
茜は少しだけ口元を緩ませ、小さく頷いた。
「ここが最後のページなわけだし、少し、聞いてもいいかな?」
表情を変えることなく、茜は同じように首を縦に振る。俺は本の中で初めて茜に会った時から気になっていたことを尋ねた。
「元々俺は、茜を探してこの本の中に来た。茜も俺が見つけてくれると思ってくれていた。それなのに、茜は自分から俺の前に現れた。それはどうして?」
聞いてはみたものの、聞かない方が良かった気もしてきて、「俺が茜を見つけられる保証はなかったって言われたら、それまでなんだけどさ」とすぐに付け加える。茜は俺から一度も目を逸らすことなく、口を開いた。
「見つけてくれるって思ってたよ。でもね……私の気持ちも、伝えたかったの」
「茜の、気持ち? それは思念の神さまに預けたモノとは違うもの?」
「それとは別。私が伝えたかったのはね、私はここで、この本の中で待ってるよっていうこと。だってそうでしょ? いきなり過去の私と会っても、ここが本の中だって気が付いたとしても……それこそ、現実世界の私がここにいる保証だって、どこにもないから。匠がそう思ったままここに来てしまったら、たぶん、私とは会えない。ただ過去を繰り返すだけ。だから私は、匠が私を探すっていう確証が欲しかったんだと思う」
茜もここで、幸せだと言った過去の中で、苦しんでいたのだと思った。自分を探してくれるのか、諦めずにいてくれるのか、ここから出られるのか。茜の立場で考えれば、不安になって当然だと思えた。「信じる」という言葉は不安にも似た強い願望の上にあり、その願望はまた、「信じる」ことによって満たされるものなのだと、俺は知った。
「ここは私の本の中だけど、思念の神さまが見せる世界でもあるから。匠の気持ちが〝ここにいる私〟に向いていないとわかれば、私たちを会わすことなんかしない。ずっと本の中を彷徨わせる。ちょっと怖いところもあるけど、幸せを司る神さまなんだから。もし匠がそう思ってしまったら……私はこれからも、幸せになんてなれっこないもの」
どうして、零れ落ちないのだろう。茜の大きな目は、いっぱいの涙で埋め尽くされていた。本当は泣き顔なんて見たくない。でも、俺はこの姿を、しっかり見ておく必要がある気がした。それを記憶に刻む、責任があると感じた。だから俺は、気の利いた言葉を掛けることもせず唇を噛んで、その顔を胸に刻むことにした。この気持ちを、忘れないために。
「ごめん、急に真面目な話になっちゃったね。私が毎回、私の中に入れなかったのも」
「俺が本の中に来た意味がなくなるから……だね?」
あえて、遮った。それに気付いていることを、知らせたかったから。「全部のページで会えてたら、元の世界で会うことと、なにも変わらないもんね」と、しんみりした空気を変えようと笑顔を作って言った。茜も笑顔で頷いてくれた。
「そうだ。私からも、質問して良い?」
茜は洟を啜って言う。俺は笑顔を保ったまま、どうぞ、とだけ口にした。
「私の本の中で色んなページを見てきたと思うんだけど、特に印象に残ってるページってあったりする? まあ、二回目だから印象もなにもって感じなのかもだけど」
「印象に残ってるページか……。そうだな、強いて言うなら、茜に島を出ることを伝えた日かな」
「え、どうしてあの日なの? 本の中に来てから、初めてちゃんと話をしたから?」
眉間に皺を寄せながら、茜は首を傾げる。
「それもあるんだけど、あのページだけは、どうしても幸せとは結び付かないというか、他のページとは雰囲気が違うというか……。うまくは言えないんだけどさ」
「そういうことか……たしかに、そうだったかもね」
茜は薄っすらと笑みを浮かべた。どこか含みを持たせた表情に、俺は目を細める。すると今度は「気になる?」と無邪気な笑みをぶつけてくる。
「理由があるなら、そりゃ気になるよ」
ふふふ、と笑ってから茜は答えた。
「そんなに特別な理由じゃないの。ただね、この日が……きっかけだったから」
「きっかけ?」
「そう。島を出て行く匠のことを、ちゃんと応援するって決意した日。なんの相談もしないで! って、最初は本気で思っていたから、そこだけを切り取れば悪い一日ではあったんだけどさ。でも、冷静になってもう一度考えたら、匠も匠なりに色々考えて出した答えなんだろうなって。私にできるのはそれを否定することじゃなくて、背中を押して、応援して、私も負けないくらい頑張ることなんじゃないかなって思ったの。だから、悪いことから始まった、私の幸せに繋がる大切な日なんだよ」
この天候とは真逆の表情だった。その目にはもう、涙はない。
「悪いことも幸せに繋がる……か。そういうのを〝本当の意味を持った記憶〟って呼ぶんだろうね」
過去を繰り返した今だから、この言葉が身に染みた。意味だけを取れば正反対の言葉でも、紙一枚にも満たない、そんな感覚の中で必ず触れ合っている。全てが繋がって今があるのだと、心からそう思えた。
「それにもし、私に相談しなかった理由があるとするのなら。匠はきっと、その時がくれば教えてくれるって思ったしね」
眠っていた記憶が、目を覚ましたのかもしれない。俺は久しぶりに、あの頃と同じような笑顔ができた気がしていた。
「もう少し弱かった気もするけど……、あ、でも」
思い当たる節があるのか、茜は苦笑いを浮かべた。
「このページって他のページと違って、日にちが経ってから後日、追加したページなんだよね。普段以上に記憶を頼りに。だからちょっと、誇張して書いちゃっていたのかも」
「おい、ふざけるなって」俺は雨と戦いながら文句をつけた。
「し、仕方ないでしょ。変な緊張もあって、あんまりはっきりと覚えていなかったんだから。あ、そんなことより見えてきたよ」茜は前方を指さした。
そんなことってなんだよ、と思いながら、俺もその先を追った。視界も悪く、目を細めなければ見えない距離ではあったが、たしかに見えていた。俺たちは今、帰りのバス停を目指している。目標を見つけると、雨で濡れた靴下も、気にはならなくなった。
駄菓子屋を出てからおよそ十五分。ようやくバス停に辿り着いた。
「この雨のせいか、記憶よりだいぶ長い時間歩いてた気がするよ」
「厳密には茜のせいだけどな」と、冗談を言う元気は辛うじて残っていて安心した。
バス停は小さな小屋のような形をしている。壁に沿ってコの字型にベンチが配置されており、俺は傘についた雨を払うことなく、入口正面の席に腰を下ろした。地面と近づいたからなのか、雨の匂いに土の香りが混じっていた。その匂いの懐かしさに一瞬、どちらが現実なのかわからなくなった。
小さく息をつくと、これまでの出来事が走馬灯のように駆け巡る。一つ一つのページで出会った茜は同じようで、まるで違う顔をしていた。それは、その時の想いや感情がそうさせていたのだと、今ならわかる気がした。今まで気付けなかった表情や仕草、温度を感じさせるために、思念の神さまは俺をここに呼んだのではないかとさえ思えた。
「本当……俺はなにも見えていなかったんだな」
雨音に隠れるくらいの声で、俺は小さく呟いた。こんなにも近くにいながら、情けなかった。見ているつもりになっていたことは、見てきたものより多いのかもしれない。
「え? なにか言った?」
俺を覗き込むように、茜は言った。傘の先には、小さな水たまりができていた。
「いや、この中に来てから、色々あったなって」
「そうは言っても、ほとんどが二回目の経験だけどね。それでもそう思ったんだ?」
「それもそうなんだけどさ。二回目だったからこそ、茜をちゃんと見られた気がするんだ」
茜は少しだけ口元を緩ませ、小さく頷いた。
「ここが最後のページなわけだし、少し、聞いてもいいかな?」
表情を変えることなく、茜は同じように首を縦に振る。俺は本の中で初めて茜に会った時から気になっていたことを尋ねた。
「元々俺は、茜を探してこの本の中に来た。茜も俺が見つけてくれると思ってくれていた。それなのに、茜は自分から俺の前に現れた。それはどうして?」
聞いてはみたものの、聞かない方が良かった気もしてきて、「俺が茜を見つけられる保証はなかったって言われたら、それまでなんだけどさ」とすぐに付け加える。茜は俺から一度も目を逸らすことなく、口を開いた。
「見つけてくれるって思ってたよ。でもね……私の気持ちも、伝えたかったの」
「茜の、気持ち? それは思念の神さまに預けたモノとは違うもの?」
「それとは別。私が伝えたかったのはね、私はここで、この本の中で待ってるよっていうこと。だってそうでしょ? いきなり過去の私と会っても、ここが本の中だって気が付いたとしても……それこそ、現実世界の私がここにいる保証だって、どこにもないから。匠がそう思ったままここに来てしまったら、たぶん、私とは会えない。ただ過去を繰り返すだけ。だから私は、匠が私を探すっていう確証が欲しかったんだと思う」
茜もここで、幸せだと言った過去の中で、苦しんでいたのだと思った。自分を探してくれるのか、諦めずにいてくれるのか、ここから出られるのか。茜の立場で考えれば、不安になって当然だと思えた。「信じる」という言葉は不安にも似た強い願望の上にあり、その願望はまた、「信じる」ことによって満たされるものなのだと、俺は知った。
「ここは私の本の中だけど、思念の神さまが見せる世界でもあるから。匠の気持ちが〝ここにいる私〟に向いていないとわかれば、私たちを会わすことなんかしない。ずっと本の中を彷徨わせる。ちょっと怖いところもあるけど、幸せを司る神さまなんだから。もし匠がそう思ってしまったら……私はこれからも、幸せになんてなれっこないもの」
どうして、零れ落ちないのだろう。茜の大きな目は、いっぱいの涙で埋め尽くされていた。本当は泣き顔なんて見たくない。でも、俺はこの姿を、しっかり見ておく必要がある気がした。それを記憶に刻む、責任があると感じた。だから俺は、気の利いた言葉を掛けることもせず唇を噛んで、その顔を胸に刻むことにした。この気持ちを、忘れないために。
「ごめん、急に真面目な話になっちゃったね。私が毎回、私の中に入れなかったのも」
「俺が本の中に来た意味がなくなるから……だね?」
あえて、遮った。それに気付いていることを、知らせたかったから。「全部のページで会えてたら、元の世界で会うことと、なにも変わらないもんね」と、しんみりした空気を変えようと笑顔を作って言った。茜も笑顔で頷いてくれた。
「そうだ。私からも、質問して良い?」
茜は洟を啜って言う。俺は笑顔を保ったまま、どうぞ、とだけ口にした。
「私の本の中で色んなページを見てきたと思うんだけど、特に印象に残ってるページってあったりする? まあ、二回目だから印象もなにもって感じなのかもだけど」
「印象に残ってるページか……。そうだな、強いて言うなら、茜に島を出ることを伝えた日かな」
「え、どうしてあの日なの? 本の中に来てから、初めてちゃんと話をしたから?」
眉間に皺を寄せながら、茜は首を傾げる。
「それもあるんだけど、あのページだけは、どうしても幸せとは結び付かないというか、他のページとは雰囲気が違うというか……。うまくは言えないんだけどさ」
「そういうことか……たしかに、そうだったかもね」
茜は薄っすらと笑みを浮かべた。どこか含みを持たせた表情に、俺は目を細める。すると今度は「気になる?」と無邪気な笑みをぶつけてくる。
「理由があるなら、そりゃ気になるよ」
ふふふ、と笑ってから茜は答えた。
「そんなに特別な理由じゃないの。ただね、この日が……きっかけだったから」
「きっかけ?」
「そう。島を出て行く匠のことを、ちゃんと応援するって決意した日。なんの相談もしないで! って、最初は本気で思っていたから、そこだけを切り取れば悪い一日ではあったんだけどさ。でも、冷静になってもう一度考えたら、匠も匠なりに色々考えて出した答えなんだろうなって。私にできるのはそれを否定することじゃなくて、背中を押して、応援して、私も負けないくらい頑張ることなんじゃないかなって思ったの。だから、悪いことから始まった、私の幸せに繋がる大切な日なんだよ」
この天候とは真逆の表情だった。その目にはもう、涙はない。
「悪いことも幸せに繋がる……か。そういうのを〝本当の意味を持った記憶〟って呼ぶんだろうね」
過去を繰り返した今だから、この言葉が身に染みた。意味だけを取れば正反対の言葉でも、紙一枚にも満たない、そんな感覚の中で必ず触れ合っている。全てが繋がって今があるのだと、心からそう思えた。
「それにもし、私に相談しなかった理由があるとするのなら。匠はきっと、その時がくれば教えてくれるって思ったしね」
眠っていた記憶が、目を覚ましたのかもしれない。俺は久しぶりに、あの頃と同じような笑顔ができた気がしていた。