「んー……、頭痛ぇ……」
 夏の太陽がまだその力を抑えているにもかかわらず、視界は夢と現実を彷徨い始めた。枕に顔を埋めながら、両手を左右のこめかみに当てると、指先に伝わる血液の流れに合わせて頭の中がズキズキと痛む。昨日の飲み会で浴びるように呑んだ悪魔が、時間も忘れて頭の中で騒ぎ続けているらしい。悪魔の夜は憎いほどに長い。記憶も途中途中で途切れている。ただそこに、「楽しく騒いだ」以外のモノが浮かんでこないことは、不幸中の幸いだった。どうやら魂までは悪魔に売っていないようだ。
 こんな飲み方をしたのは初めてかもしれない。いつもはどこか自分を客観視して、限界を迎える前に聞き役に徹するようにしていた。酒が進むのは決まって話をする方で、それとは一線を引き、会話を冷静に捌く聞き役こそが大人なのだと思っていたからだった。そうやって、俺は自分の居場所を守ってきたつもりでいた。
 頭が割れそうな思いをして、ようやくわかったこともある。感情のままに行動することも、案外楽しい。攻め抜く姿勢も悪くない。そう気付かせてくれたのが、恋人との関係が重たいモノになったことだと言うのだから、苦笑いも浮かんでくることはない。代わりに孤独な部屋に流れる時間が、不意に後悔を運んでくる。酒に任せて連絡しておけば良かった、と枕の中に言葉を沈めた。
 面白いもので、後悔は突き詰めると期待に代わることもある。脳の拒絶反応なのかもしれないが、違う選択をした時のことを想像したり、上手くいった姿を連想したりする。悪魔と手を取り合って遊ぶ脳みそは、「もしかしたら、茜から連絡がきているかもしれない」と楽観視できるくらいには余裕があった。
 首だけを動かし、スマートフォンに手を伸ばす。おそらく身体に染み付いていたのだろう。スマートフォンはしっかりと充電器に繋がれていた。身動きの取れない今となっては面倒くさいことこの上ないが、習慣とは理性をも上回るのだと思った。右の手首だけを強く捻り、充電器からの解放を試みる。が、どうやら充電器も自己防衛をしているようで、あらぬ方向への力には屈しようとしない。諦めて、両手を使って丁寧に別れを告げさせた。
 電源ボタンを押すと、目の奥に向かって突き刺すように、眩しい光が画面全体から飛び出してくる。目を細め、細かな瞬きを繰り返しながらその光に目を慣らし、プッシュ通知に指を運ぶ。
『無事、帰れたか? あんな飲み方するなら、先に言っとけな? お前のせいで、今日のバイトは欠勤が決まったわ。もう、クビ確定だわ。クビ確だわ』
 松田からだった。それはお前の怠慢だろう、と思いながら返事を入れる。「新しいバイト先、見つかると良いな」
 それ以外の通知は全てアプリのお知らせだったので、纏めて削除した。
 ホーム画面から一つのアプリを選択し、数あるやり取りの中から選び慣れたアイコンのものをタップする。すぐに画面は切り替わったが、三日前となんら変わりのない画面だった。
「既読くらい付けろよ」
 後悔は期待へ、まもなく怒りへと姿を変えた。疲れる。どうして感情は一つに留まってくれないのだろう。感情に操られるがまま、手に持ったスマートフォンを投げ捨てると、それは壁に当たって鈍い音を奏でてから、再びベッドの上に着地した。
 低めの天井に向かって、大きなため息をつく。行き場のないこの感情も吐き出してやろうと思った。でも、実際には大量のアルコールを含んだ息が天井で跳ね返ってくるイメージばかりが浮かんできて、勢い良く身体を起こすに至った。余計に腹が立って、拳でベッドを小突いた。
 ベッドに座り、右手で後頭部をマッサージするように揉んでいると、ここ数日の記憶が頭から押し出される。確かに少し、雑な返事を繰り返していた。
 生まれ故郷である島を出てから一年と数ヶ月。島で過ごした時間と比較すれば実に短い期間ではあるが、知り合いもいないこの地で一人過ごす一年と数ヶ月は、想像以上に苦しかった。目に映る全てが綺麗でオシャレだったのに空気が重く、流れが速い。すれ違う人は例外なく大人びて見えて、自分の田舎の匂いが際立つ気がした。都会人の一歩は、自分にとっての二歩にも、十歩にも相当しているみたいだった。ここには自分の居場所はないとすら思った。でも、それを認められるほど大人でもなかった。だから、必死にしがみつこうとした。アルバイトも始めたし、興味のないサークル活動にも顔を出したし、遊びや飲み会にだって積極的に参加した。こうすればいつか、同じような大きな一歩が踏み出せるようになると信じていた。
 たぶん、緊張の糸というのは誰しもに存在している。年明け、新学期が始まる直前に、俺は体調を崩した。39℃を越える高熱が三日続いた。それまで大きな病気に罹ることはかったので、上京してから初めて病院に行った。幸い、流行していたインフルエンザではなく、医者は「単なる疲労だろう」と言った。その時に一度だけ、アルバイトを休んだ。
 ただの疲労がもたらした、たった一度だった。自宅のベッドで天井を見つめながら、糸は音もなく切れた。急に今までの努力を否定された気持ちになった。それだけ、身体に鞭を打っていたのかもしれない。でもそれは、あくまで自分の中の物差しで測った基準に過ぎない。少し休めば、また今まで通りになる。でも、失った時間を取り戻すことはできない。そんな思想を繰り返しているうち、今の自分は「毎日を謳歌しているように見せる余所行きの着ぐるみ」を着て、その僅かに空いた穴から都会の空気を吸うだけの日々を送っている気がしてきた。これではいつまで経っても変わらない。そう思うと、糸は簡単に切れた。
 サークルや飲み会に参加することはなくなったし、毎日のように働いていたアルバイトの回数は半分以下になっていた。アルバイトからの帰り道、生きるためとはいえ、アルバイトを続ける人間らしさには心底笑えた。
 そんな気持ちの変化が文面に出ていたのかもしれない。茜からのメッセージは、励ましや優しい言葉が増えた。でも、人の苦労も知らないで、と、それすらも鬱陶しいと思った。返事は一言、二言。徐々に淡白なモノになっていった。
 反省するだけの感情を持ち合わせてはいたが、だからといって既読もつけずに無視をするなんて子どもじみたことをする理由にはならない。その思いがマッサージをする手に宿ったのか、思い通りに行かないもどかしさをぶつけたかったのか、俺は無意識のうちに髪の毛をぐしゃぐしゃと掻いていた。大きく息を吐き出してからゆっくりと頭を回し、もう一度スマートフォンを手に取り見つめる。ロックを解除すると、投げ捨てる直前と同じ画面が映し出された。文字通り、全く同じ画面だった。苛立ちを通り越し脱力してしまった。
 画面から光が消え、自分の顔が画面に映る。被害者を装った情けない顔をしていて笑った。
 冷蔵庫から水の入った二リットルのペットボトルを取る。コップに移し替えるのも面倒だったので、直接口をつけて飲んだ。火照った身体の隅から隅までキンキンに冷えた水が駆け巡ると、脳内に渦巻く様々な感情たちは呼吸を繰り返す毎に蒸発して消えていってくれた。急激に冷やされたことで驚いた心臓の音が、何層にも重なった蝉の鳴き声と、周囲の空気を巻き込みながら通りすぎる車の音に混じった。
 束の間の静寂の中、小刻みな振動とともに着信音が響く。どうせ松田からだろうと思い、確認することなくプッシュ通知に指を当てる。そこには、
 『茜がいなくなった』
 そう表示されていた。たった八文字の言葉を何度も何度も読み直し、脳に刻印されるように焼き付いていく。最後までその言葉の意味も理解できないまま、必要最低限の荷物だけを鞄に詰め込むと、俺は家を飛び出し、走っていた。