一度は前を向き直した。が、すぐにまた、視線を戻す。違和感とは思えない。ただ見ているとも違う、ねっとりと纏わりつくようだ、とも、刺すようだ、とも感じる不自然な感覚だった。探す。あの視線を。車のワイパーのように首を振る。再会は、そう遠くない未来にあった。視界に入った一組の男女に、俺は見覚えがあった。
 ――あれって、あの時の。
 女性の顔はよく見えなかったので、正確には、見覚えがあるのは男性の方だけだ。純白無文の斎服。確証はないが、確信はある。
「思念の……神さま」
 言葉は考えるよりも早くに口を衝く。男は俺の視線に気付いたのか、女性の手を引き、背を向ける。あれが思念の神さまなら、隣を歩く女性が誰かは決まっている。
「茜!」
 叫んだ。雑踏の中を、俺の声は突き進んだ。でも、それを見届ける俺の視線は、強制的に引き剥がされる。隣にいる茜が、俺の手を、引いた。
「ちょっと……急に大きな声出さないで。びっくりした……、急にどうしたの?」
 俺を見つめる大きな目が、瞬きを繰り返す。それがわかった俺は目を見開いて、茜の顔を見ている。その瞬きに答えを告げぬまま、元の場所へと視線を戻す。
 そこにはもう、誰もいなかった。
「本当に……大丈夫?」
 大きな瞳に不安が宿る。その不安が移るくらいに見つめ返してからようやく、俺の脳みそは動き始める。それでも、「ごめん、大丈夫だから」と口にした言葉の中に、不安を解消する力は無かったと思う。だから茜は、黙ってよそ行きの笑みを浮かべた。
 ただの見間違いなのかもしれない。俺はそう、自分に言い聞かせようとした。だけど、俺の第六感とも呼べるこの感覚がそれを許してはくれない。むしろ、言い聞かせようと強い言葉を投げかけるほど、あれは間違いなく思念の神さまであり、その隣に立っていたのは今の茜なのだと主張する。本の終わりが近いのだと声を上げる。間違えているのはお前の方だと、俺が俺に喧嘩を売る。また、呼び起こす。
『〝この中〟に、大切な記憶はちゃんとあるよ』
『その記憶の中に自分以外の他の誰かがいるとするのなら、一人だけが覚えていたって〝本当の意味〟なんて持たないよ』
 あの日の、茜の言葉たちを。だから俺は、この感情を自分の答えとして受け入れることにした。
 それが俺にとって、茜と向き合うことだと思った。
 この中とは、この本を指している。この本とは、茜が思念の神さまに預けた幸せを意味している。幸せは過去の記憶でもあり、その記憶には意味がある。意味のある記憶の中には元の世界へ戻るために必要な、大元の想いがある。そして、
 それは俺の中に、ある。
 不思議な感覚だった。パズルのように形を変え、言葉たちが一つに収まっていく。まるで元からそこにあったかのように広がっていく。その全てが、生きている。この本の中で、必ず生きている。そう思えた。
「そう。大丈夫……なら、お祭り、回ろっか?」
 茜の声も鮮明に届く。その声を道標にして進めば良い。たぶん、あの二人はそう伝えたかったのだと思う。「本当に大丈夫。行こう」と差し出した手に、小さな手が収まる。その優しい温もりの中に懐かしさが隠れていることを、俺は感じていた。
 薄っすらとした記憶を上書きする。綿あめやりんご飴を頬張る顔も、ポイの穴の開いた部分から逃げていく金魚を追う悔しそうな表情も、色濃く書き足していく。もう二度と、忘れることのないように。辺りはすっかり、暗くなっていた。
「そろそろ花火が上がる時間だね」
 今日はよく見えそう、と茜は空を見る。藍色の空には、この島の住人よりもずっとずっと多くの星が浮かんでいた。時刻は十九時を十分ほど回ったところだった。
「もうこんな時間か、あっという間だったな」
「あの時間に来て、正解だったでしょ?」
 俺が頷くと、茜は夜空の星を反射した瞳が無くなるくらいの笑顔を見せた。
「あ、そうだ!」
 再び目を輝かせ、茜は言う。「ちょっと移動しない? 花火さ……二人だけで見ようよ」
 俺の返答も待たずに、腕は強く引かれた。俺は茜の後ろ姿を目で追いながら、人混みを避けるように進んだ。祭りを象徴するような笑い声や熱気、足音や香りも、なにもかもを置き去りにして、進み続けた。茜の歩調が普段のそれに戻った時にはもう、この甚平も茜の浴衣も、祭りの一部ではなくなっていた。
「こっち、こっち!」
 祭り会場を離れた分、目的地に近づいていく。その目的地を、俺は覚えている。新年を迎えた日に、二人で初日の出を見に行った場所。思えばあの日もあそこで、あの話をしていた。
 枝だけだった木々に、緑が蘇っている。この緑が心地よく風に揺れてくれているお陰で、ここは実際の気温よりも涼しく感じられる。徐々に視界は、光を伴い開けていく。
「間に合った……かな?」
 茜は海と空のちょうど中間を見ている。二つはほとんど、同じ色をしていた。
「まだ音も聞こえてないし、間に合ったってことじゃない?」
 慌ただしく視線を動かす茜を見ながら、俺は平らな地面を探して腰を下ろす。それに気付いた茜も、俺が声を掛ける前に隣に座った。
「あとどれくらいだろう?」
「結構ギリギリの時間に会場出たからね、もうそんなに時間もないんじゃ――」
 時計に目を移そうとした時だった。ドン、という身体の内側から轟くような大きな爆発音とともに、視界に強い光が飛び込んだ。
「わあ!」
「びっくりした……」
 色鮮やかな花は咲いた。空と海、それから茜の瞳の中に、開花した。大きな音の後に訪れる細かな音が、後ろ髪を引くような余韻を残して消えていく。それがこの夜の輝きに、僅かな切なさを纏わせた。
「空がすごく近く感じるね」
 茜は空に向かって手を伸ばした。島の中でも標高の高いこの場所は、空までが近く見える。部屋の天井に貼ったシールのように、手を伸ばせば本当に届きそうだった。
「本当だね。ここは特等席だ」
 色や形を変え、その姿を水面に反射させながら、空には次々と花が咲く。季節の風物詩と呼ばれるその花は、役目を終えたと言わんばかりに残すものなく散っていく。せめて記憶にだけは刻んでおこうと、気付けば俺も手を伸ばし、拳を握っていた。
「こんなの、息をするのも忘れちゃう……。やっぱりちゃんと、残しておかなきゃな」
 言葉の意味は、わかっていた。だけど俺は、決められたレールの上を歩くように繰り返す。
「残すって、なにを?」
「これからの、二人の思い出……かな」
 茜の横顔が、鮮やかな光で照らされる。この表情を、俺は鮮明に覚えていた。
「日記ってこと?」
「んー。日記ってすると毎日つけなくちゃって思って続かなそうだなあ。だから忘れたくないって思ったことだけ書いておこうかな。ほら、そうしないと……さ、記憶っていつかは薄れていっちゃうから。今感じているこの気持ちは、これからもずっと残しておきたいの」
 空の音と比べるのは可笑しいと思う。でも、俺たち以外に誰もいないこの場所では他に比べられるものもなくて、無意識に比べていた。島の全員に聞こえる音とは違い、茜の声は針より細く小さな声で、俺の耳にだけ届いている。
「こうやって思い出を少しずつ重ねたらさ、日記っていうより、小説になりそうじゃない? うん、それだ! 私、これをいつか〝本〟にする! 匠が忘れても、私が思い出させてあげるよ! だから今日のことも、絶対に書かなきゃね」
 瞳だけでなく、茜の顔にも花が咲く。
 これが、茜が一冊のノートを〝本〟と呼ぶようになった理由だった。
「忘れないよ」
「じゃあいつか、一緒に見よう? そこで本当に忘れてないか、確認してあげる」
「そういう茜だって、忘れてるかもしれないじゃんか」
「それもなくはない……か。わかった、それなら〝あの日〟のことを最初に書くよ! 『約束した日』のこと。そのページのところだけ、当てっこしよう!」
 これで終わる。きっと、大丈夫。俺は胸の内で呟いた。
 美しく夜を彩る音色とともに、本は静かに、終わりかけの夜を超えた。