「暑いからさ、スイカ食べ終わったら水撒きしない?」
 食べやすい大きさに切られたスイカの皮が皿の上に並ぶ。残ったスイカは、互いに手に持ったものだけだった。茜は相変わらず種を飛ばして遊んでいる。その種を育てるための水撒きなのではないかと思った。
「暑いなら部屋の中に入ればいいじゃん」
 俺は水撒きの案をやんわりと否定する。思いつきで行う水撒きなんて、終わり方は決まっている。
「あー、またそんなつまらないことを言う。言ったよね? 匠に発言権はないの」
 スイカを皿に置き、俺を睨む。ならいちいち聞いてくるな、と思いながらも、俺は無言でスイカを口にした。話のペースは終始、茜に持って行かれている。少しだけむすっとした表情を浮かべる茜は、置いてあったサンダルを履くと、庭の水道へと向かった。その横に置かれた手巻き式のホースを見て、嫌な予感が走る。案の定、茜はホースを伸ばして蛇口にはめた。口に残ったスイカが、俺の言葉を遮断する。それを喉の奥に流し込むより先に、蛇口は開放された。まるで蛇のように、ホースは水の力で波を打つ。
「いっきまーす!」
「ちょ、まだ食べてる、ちょっと待てって!」
 俺の声は確実に届いている。それを示すように、茜の不敵な笑みが俺を捉えていた。結局、茜は俺の言葉を無視してノズルを強く握った。プシャー、という音とともにホースは水を吐き出し、庭には雨が降る。なぜだかその雨は、俺の上だけに降った。
「わー、出たー!」
「そりゃノズル握れば出るだろーが! 服、濡れるって!」
 俺は投げるようにスイカを皿に置き、裸足のまま庭へと飛び出た。芝生が素足に心地よい刺激を与えたが、そこにもすぐに、雨は降る。次第にTシャツは肌に張り付き、肩まで捲っていた袖は、自分から元の位置へと戻っていった。
「気持ちいいね! たっのしーい!」
 楽しいのは茜だけだろう? と、必死に雨を避けながら、胸の内で問い掛ける。雨は時に霧となったが、直後は必ずジェットへと姿を変え、俺が苦い表情を浮かべれば浮かべるほど、茜は笑っていた。もうこの後に着ていく洋服のことを考えるのは、やめた。
「これ、いつまでやるの?」
 受け入れてからは楽だった。茜の言う通り、雨だって、気持ちよく思えた。芝生の上には小さな水たまりができて、蹴ったら雨の子どもが舞った。「まだまだ始まったばっかりだよ!」と笑う茜のことを、日差しを反射した雨が照らす。それからもしばらく、二人の間に雨は降り注いでいた。
「二人ともすっかり濡れちゃったね」
「『濡れちゃったね』じゃないだろ? どうすんだよ、これから祭りだっていうのに」
 雨が止むと、途端に隠れていた現実は顔を出す。何度拭っても、水は髪の毛をつたって次から次へと滴り落ち、Tシャツに限っては無限に絞れそうだった。茜も髪の毛を掴んで毛先の水を絞っては、手に付いた水を庭に払っている。
「匠だって、途中から楽しそうに遊んでたくせに」
 唇を尖らしてはいるが、その目は確かに笑っている。たぶん、雨が降った直後だからだと思う。その瞳は、虹のように綺麗だった。
「祭りまでに乾くかな?」
 引っ張ったTシャツを離すと、空気を含んで肌と一体化する。とてもじゃないが、これがあと数時間で乾くとは思えない。それなのに、茜は満面の笑みで、大丈夫、と口にする。
「この暑い日に、ドライヤーをしろって?」
「違うよ。お父さんか和樹の甚平貸したげる。和樹のもすぐに大きくなるからって、お父さんのサイズと同じだから安心してね。それと、もう二人には許可取ってるから」
 やられた、と思った。
「急に水撒きしようなんて言ったの……、このためだな?」
 渾身の恨みを瞳に込めた。それなのに、「どうでしょー?」と言って濡れた髪をかき上げた茜を見て、胸の鼓動は速く、強くなる。女性の仕草は、時にずるい。「私は上に着替えがありますので」と上目遣いで俺を見る、仕草がずるい。
「甚平が嫌なら匠はここで、体ごと天日干しでもしてたら?」
「早く行け」
 そんな気持ちを隠すように言う。「おー、怖い怖い」と笑いながら口にして、茜は家の奥へと向かった。部屋の床にも少し、雨をおすそ分けしていた。
 静かな夏の日差しを浴びながら、茜の着替えを待つ。俺は芝生の上で大の字をして立っている。不格好だが、洋服を乾かすのならこれが一番、効率が良さそうだと思った。結局、俺はどんな格好で祭りに行ったんだっけ、と太陽に尋ねるように顔を上げる。でも、元の世界でもそこにあるはずの太陽が答えてくれることはなかった。
「お待たせー!」
 茜の声がする。俺は乾く気配のないTシャツをアピールしようと胸の辺りを掴みながら振り返ったが、その手はTシャツを肌から離すことなく、だらしなく垂れた。
「どう? 可愛い?」
 茜はひらりと回転する。髪型は後頭部付近でまとめた、いわゆるアップスタイルへ、服装は小紫色にアヤメ柄の浴衣に変わっていた。その姿はスイカの種を飛ばしていた女の子と同一人物とは思えない、大人の女性だった。「ちょっと派手かな?」と言った茜を、俺はたぶん、目を見開いて見つめている。
「……これも、狙ってたの?」思わず、そう言った。
「狙ってたって、なにが? ねえ、どう?」
 左右に腰をくねらせ、それに合わせて袖がなびく。どうしてこの姿を忘れていたのだろう。そう思うくらいには、その純粋な顔が、脳裏に焼き付いていく。そのせいで、「良いんじゃない?」と言った俺の声は、驚くほどに小さくなった。「なんでそんなに小声なのよ」と茜は眉根を寄せたが、苦笑いでしか返せなかった。
「別にいいけど。……それで? 匠はその乾く見込みのなさそうな洋服を、いつまで着ているもりなの? そのままじゃ、一緒に歩けないなあ」
 ほくそ笑む茜の表情にさえ、その身を包む浴衣が奥ゆかしさを与えてしまう。
「……甚平、お借りしてもよろしいでしょうか?」俺は、心の中で白旗を振った。
「よろしい」と、その表情は変えぬまま、茜はピクリと眉毛を上げて応える。甚平に袖を通しながら、俺はまた、ずるいと思った。
「なんだかんだで、もう十六時四十分か。いい時間になったね」
「今から向かえば、ちょうど祭りが始まる頃に着くな」
「ぼちぼち、向かいますか!」
 まだ、日差しの力は消えていない。でも、茜の笑顔がその力を緩和する。踏み出した俺の足は、こんなにも軽い。「今日遅刻した罰として、なにか一品、匠に奢ってもらうから」と言った茜に反論する気にならないくらい、軽かった。

「余裕だと思ってたけど、全然そんなことなかったね」
 茜の家からおおよそ二十分。俺たちは祭り会場を目指して歩いていた。軽くなった足取りとは裏腹に、互いに慣れない下駄を履いていたことが影響して、なかなか歩く速度が上がらない。気持ちに身体が追いついていない感覚は、部活動を引退してから数年が経ち、久しぶりに運動した、あの時の感覚にも似ている。太陽も祭りの準備を始めたのか、攻撃的な日差しが幾分か落ち着きを取り戻してくれたのはありがたかった。
 俺よりも少し狭い茜の歩幅に合わせて歩く。規則正しく響く下駄の音が、俺の記憶を覗きにくる。
『もう少し……前かな』
 あの時の、茜の言葉。俺がどのページいるかはわからないと言っていたが、茜は本の終わりを知っている。この本があと少しで終わることを、わかっている。それならば、この祭りに来ている可能性も高いと思った。いや、可能性の話をするならば、このページが最後という可能性すら考えられる。次第に人が増えてきている。この中に「今の茜」がいると思うと、息をするのも忘れそうになる。会場までは十分足らずで到着したが、気を張って歩き続けた俺は、強い疲労感を覚えていた。
「やっぱり、この島の人たちは祭りごとが好きだよね。というか、何事も大袈裟なのかも」
 思念の神さまについて知った初詣の日と同様、会場は人で溢れている。普段はだだっ広いだけでなんの取り柄もないただの空き地も、例年以上の人集りが生み出す空気と相まって、すっかり祭りの色に染まっていた。この人たちは一体、今までどこに隠れていたのだろうと思ってしまう。
「本当だね。この時期だけに現れる異星人だ」
 その言い方も大袈裟だよ、と笑う茜を横目に、俺はアンテナを張るように視線を右に左に動かしていく。木を隠すなら森の中、人を隠すなら人の中、だ。そう思うだけで、金魚すくいのおじさんも、射的のおばさんも、焼きそばを作るお姉さんも、ここにいる全ての人が疑わしく思えてくる。瞬きをする時間さえも惜しかった。
「……み? おーい、匠くーん」
 近くから聞こえるはずの茜の声が遠く感じる。その声に向き合えたのは、俺の肩がビクリと震えた後だった。
「なに上の空になってるの? 早く食べ物、買いに行こう」
 匠の奢りなんだから、と茜は俺の手を強引に引いた。俺の身体は小走りになり、人混みの中に紛れていく。紛れて、紛れて、祭りの一部になっていく。それでも神経だけは研ぎ澄まされているのか、まるで映画のワンシーンを観ているように、目に映る一つ一つの映像が音声とともに脳内に流れ込む。どうやらあの子は、たこ焼きを一つ多く入れてもらえたらしい。その光景を捉えた、直後だった。
 俺は、視界の片隅に纏わりつくような視線を感じた。