「ごめーん、お待たせ。職員室に日誌持って行ったらさ、今度はノートを運んでくれないか、って言われちゃって。それならそうと、事前に言っておいてほしいよね。そもそもさ、女子一人にやらせなくても良くない?」
 制服姿の茜が手を振りながら近づいてくる。俺も茜と同じく学校指定の制服を着て、校門の前に立っていた。季節は夏の終わりか秋頃なのだと思う。羽織った学ランのボタンを上まで留めていても、暑くも寒くない。ただ少し、湿度が高いとは思った。部活動に勤しむ声が、夕暮れの中を行き交っている。
 結局、前のページでは一度も声を出すことができなかったな、とふと考える。それが茜を見つけるための意味を持った過去なのか、はたまた思念の神さまの思惑なのか。きっと、考えてもその答えは見つからないのだけれど、今まで知ることがなかった茜の表情が、感情が、言葉の意味が、俺の気持ちに変化をもたらしていることは事実だった。たぶん、心に芽生えたなにかはこうしている今も、確実に成長を続けている。
「おーい、匠くん? 怒ってるんですかー?」
 茜はもう、俺の前にいた。このページにいる茜も、まっすぐ俺の瞳を見てくれている。
「ごめんって。こんなに遅くなるとは思わなくて。あ、でも、文句は先生に言ってね? 先生の追加任務のせいで遅くなったわけだから。ほら、両手が塞がってたから連絡もできなかったわけだし?」
「あ、いいよ、全然。ちょっと考え事をしていただけだから」
「考え事? もしかして、もうすぐ文化祭だからそのこととか?」
 なんだろう、すごく、嫌な気がする。言葉にならないモヤモヤとした感情が、俺に見つからないように俺を見ている感じがする。
「あー……、そう、それだ。茜のクラスはお化け屋敷だったっけ?」
「それだってなに? 絶対に違うでしょ」と茜は眉根を寄せていたが、すぐにいつもの顔に戻る。別に悪いことを口にしたわけではないが、なぜだか変な汗を掻いた。その場を取り繕うような嘘など、つかないに越したことはない。
「うん、お化け屋敷。準備は大変そうだけど……たぶん、面白くなると思う。匠も来てね」
 序盤で口角を上げ、中盤で渋くなり、終盤にはまた明るく。この短い会話の中で、茜の表情はころころと変わった。そんな茜の表情が、どこか遠く感じた。俺は少しずつ、本の中を過去へと戻っている。当然、今の俺と、ここにいる茜との距離も離れていく。それは年齢の部分もそうだし、感覚的な部分もそうだ。きっとその時々に会話の温度感というものは存在していて、そこには時代や背景も関係している。この先のことを知らない茜と、知っている俺。時間が遡れば遡るほど、その距離は長く、遠くなる。重ねてきた日々が、失われていく。それがすごく、辛かった。今の茜と会えるのか。その不安だけが、遠ざかる距離と比例して大きくなるようだった。
「茜はさ、過去に戻れるとしたら、戻ってみたいと思う?」
 そんなことを口走ってしまうほど、俺の思考は穏やかではないらしい。茜は役者のように、表情をまた変えた。
「……どうしたの、急に。そんな内容の映画でも観た?」
「そういうわけじゃないんだけどさ、なんとなく、どうなのかなーって」
「んー、そうだな……。あり得ない話ではあるけど、もしそうなったとしても、私は過去になんて行かないかな。毎日いろんなことをして、今がこんなに楽しいのに、わざわざ過去に戻る必要なんてないもん。それにさ、未来に進むために使える時間を過去に費やすなんて、勿体ないじゃん」
 同意を求める表情で、俺を見る。ちらついた。それは二度目のクリスマスの日に出会ったはずの、今の茜の顔だった。でもその顔は、ここにいる茜にではなく、俺の脳裏にちらついていた。茜の言葉は嬉しいと思った。だけど、それ以上に胸が締め付けられた。それが、この先にある未来へと進む道の途中で、「過去に戻りたい」と、ここにいる茜に思わせてしまうと気付いたからだった。そして、その決断をさせたのは俺なのだと、改めて思い知った。
「強いんだな、茜は」
 吐息に乗せるように俺が言うと、茜は大きな目を開き、「逆じゃない?」と首を傾げる。
「強くないから、戻りたくないの」
 どういう意味? と俺が口にするより先に、茜は続けた。
「過去は変えられないと思ってるから戻りたくないの。だって記憶の中にはその時の感情もあるわけで、そう感じたのは自分なんだから過去に行ったところで自分の気持ちは変わらないと思う。だからきっと私には、過去を変えることはできない。他の人がその記憶に干渉しない限りはね。それがわかった上で過去に行っても、ああすれば良かった、こうすれば良かった、って考えて後悔するだけだもん。まあ、私の記憶そのものが全部消えてるなら話は違うけど、それだと意味ないしね。ずっと同じことの繰り返しになっちゃう」
 今の俺が恥ずかしさを覚えるくらいには、高校生の茜は大人びた感性を持っていると思った。たぶん、俺が置かれた状況も同じだ。茜の書いた本の中を進んでいる以上、結末は変えられない。それは、思念の神さまによって多少の肉付けがあったとしても、だ。考え方を変えれば、茜の過去を知ることしかできない。ただ、そこには俺が忘れてしまった過去もあって、それが茜の預けた幸せの大元にある想いに繋がるのだと思う。だからこそ、ただの繰り返しになんてしてはいけない。
「その通り……なのかもな。ちなみに茜は記憶の中の感情? それ自体を忘れてしまうかもって思ったことはある?」
「大体は記憶と一緒で忘れちゃうことが多いかな。でも忘れたくないなって思ったものに関しては、ちゃんと残してあるよ。ほら、私って本を書いてるでしょ? そこに残しておくの」
 本当は全部書きたいけど、それは無理、と茜は笑う。同時に一つ、合点がいく。今まで知らなかった茜の仕草や表情に気が付けたのは思念の神さまの力ではない。茜が本の中に書き記していたからだ。茜が残してくれていたから、俺はそれを知ることができた。あの本の、この過去の中に、茜の本当の想いは生きている、そう実感した。
「さっき過去には戻らないって言ったけど、それは過去を思い出したくないってわけではなくて。過去は変えられない。だからこそ、その想いとか気持ちは残しておきたいし、傍に置いておきたいの。記憶はいつか薄れていっちゃうけど、今まで過ごした過去が、これから先の未来に彩りを加えてくれるんだって思うから」
 この表情だって、茜が本に残した感情なのだと思う。茜の顔は、美しいほどに儚げだった。
 未来に光を見出せるのは、今まで歩んできた過去があるから。それが真実だとするのなら、その過去を忘れた俺は、この先の未来の彩りを失うことに繋がってしまうのだろうか。茜の過去を彩る一部に、俺はなれていたのだろうか。そんな気持ちが茜に悟られてしまいそうで、俺はそっと、茜から視線を逸らして頷いた。