俺は今、バス停のベンチに座る俺と茜を見ている。ページは切り替わったようだったが、俺は俺の中へは戻れていない。
「いやー、惜しかったですな。お疲れ、お疲れ!」
 明るさを増した茜の声が、青空の下を駆け抜けていく。その表情も、声色も、試合を見つめる茜とは別人だった。たぶん、俺のことを気遣ってくれているのだと思う。「必勝」のお守りも、鞄からは外されたままだ。このことに、当時の俺は気付いていたのだろうか。茜の気持ちに、目を向けていたのだろうか。
「バスケって、あんなに興奮するんだね! 会場の一体感っていうの? 私、びっくりしちゃった。こんなに面白いならさ、もっと早くに観に行くべきだったよ」
 茜はベンチからブラつかせた足に向かって笑顔を投げかける。俺は、どこか一点を見つめていた。たぶん、どこにも視点は合っていないと思った。陽の光は相変わらずうだるような暑さだったが、吹き抜ける風だけは朝よりも心地よく感じた。
「んー、でもまあ正直、今日の試合が俺の中でも一番いい試合だったとも思うし、逆にこの試合だけで良かったんじゃない?」
 目の前に座る俺は言う。こんな時に格好つけるな、と思いつつも、これは本音だった気もする。熱い声援のお陰で、実力以上の力を出せたと、心から思っていた。
「不甲斐ない姿を見せなくて良かったって?」
 茜は揶揄するように笑う。これが茜の優しさなのだと、今ならわかる。
「そんなことは言ってないだろ」
「試合が終わってからも、匠は一切泣いてなかったもんね」
 ただの強がりで、やせ我慢だった。でも当時の俺は、泣きじゃくるチームメイトの肩を抱いて慰めることはあっても、決して涙を見せないまま、会場を後にしていた。正直、それが正しいことだったのかは今でもわからない。でも、そうすることで俺は「後悔はない」ということを、チームのみんなに伝えたかった記憶がある。
「なあ、茜。少しだけ……物思いにふけっても良いか?」
「これまたすごい日本語を使うね。でもどうぞ? バスが来るまで時間もあるし、今日は特別に」
 ようやく二人の視線は合わさり、どちらからともなく、笑みを零した。
「俺、小学校二年生くらいからずっとバスケしていてさ。最初は俺も茜みたいに、バスケなんて全く興味なかった。でも仲が良かった友達の兄ちゃんがバスケしてて、たまたま一緒に試合を観に行く機会があって。そこで見た兄ちゃんが、これがまためちゃくちゃ下手くそで。それなのに楽しそうで、必死にボールを追いかける姿は死ぬほど格好良くて。だから俺、家に帰ったら速攻で親に『バスケットボール買って! 俺もバスケしたい!』ってお願いして、その日のうちに買ってもらって。もうその次の日からは、それこそ朝から晩までずっとボールと触れ合っててさ」
 俺は昔を懐かしむようにすらすらと、手に持ったボールを見つめたまま話していく。茜は、うんうん、と相槌を打ちながら静かに話を聞いてくれていた。
「ほんと、飽きもせず毎日毎日。小学校卒業して中学入っても、中学卒業して高校に入っても、監督とかチームメイトとぶつかることはあったけど、バスケを嫌いになったことは一度もなかったな。『あんなやつ、俺がもっと上手くなって認めさせてやるんだ』とか何回も思ったし、何回も心の中で言った」
 匠なら本当に言ってそう、と茜は笑う。
「それが今日……終わった。全部、終わった。もうそんなこと思ってもいないし、んー、そうだな……むしろ今は『あいつらのお陰でここまでやって来られた』って心から思ってる。あいつらがいて、一緒に戦ってくれるやつがいて、応援してくれる人がいて。本当に不思議なんだけどさ、こうやって思い返すと、小さい頃に毎日一人でバスケをやってた記憶じゃなくて、みんなと過ごしたバスケばっかりが浮かんでくるんだ」
「うん……」
「とか言って俺、みんなに厳しいことばっかり言ってきたから『やっと解放された』とか、『辛い思い出ばっかり』なんて言われてるかもしんねーな」
 どうやら俺は、昔から演技が苦手らしい。明るい口調で微笑む俺の瞳は、真っ赤に染まっていた。
「そうかな? 私は今日一日だけしか見ていないけど、試合中も、最後のミーティングの時も、匠はずっと信頼されているんだなって感じたよ? 匠の周りにたくさんの人が集まっていたのも、きっとそれが理由なんだと思うな。それにさ、匠はみんなとの〝約束〟も、ちゃんと守ったんでしょう?」
 茜は頬を緩ませ問いかける。ぬるま湯のような風が吹き終わるまで、俺はその言葉の意味を探すように固まっていた。
「応援席にいた人に聞いたよ。去年、匠たちの先輩が引退して自分たちの代になった時、『みんなを最高の舞台に連れて行く』って約束したんでしょ?」
 その日の光景が頭に浮かぶ。泣きじゃくるみんなを見て、なにか言わないと、と思った。でも、適当な言葉が出てこなかった。そこに苦し紛れに出た言葉がそれだった。たしか、試合の前日かその前の日に見た、ドラマか映画の台詞だった気がする。ベンチに座る俺も思い出したのか、顎に手を当てて頷いていた。
「あったな、そんなこと。でも今日、その約束も反故にしちゃったけどな」
 そんなことない、と俺の言葉をかき消そうとするように、茜は何度もかぶりを振る。
「みんな言ってたもん。『これ以上ないくらい、最高の景色だった』って。『匠についてきて良かった、あいつは約束を守ってくれた』って。あれは本音だよ? だってさ、試合に負けて悔しいはずなのに、試合直後にそんなこと言えるんだもん。本気で思ってなきゃ、言えないことだもん。私だってね、匠は約束を破らない人だって思ってる……心から、そう信じてる」
 まるで鏡のように、茜の瞳も真っ赤だった。俺と違うところと言えば、その笑顔が本心であるとわかるところだろうか。あの時は情けない顔を見せたくなくて、まっすぐ見ることができなかった。だから気付けなかった。茜の笑顔の中には、強い芯が通っている。
「あとね、匠はさっき『辛い思い出』って言ってたけど、同じ記憶でも、良い思い出だったって思う人もいると思うな。それこそ、お友達のお兄ちゃんだってそう。もしかしたら本人は上手じゃないことを辛いと思っていたかもしれない。でも、匠の中ではバスケットを始めるきっかけになった良い思い出でしょ? 匠が一人できつい練習をした記憶も、匠の両親にとっては微笑ましい記憶になってるかもしれないよ? そういう記憶ってきっと一人だけのモノじゃなくて、たくさんの人の色んな想いと一緒にそれぞれの形として、残っていくんじゃないのかな? 『誰かと共有できる記憶がある』って、こんなに素敵なことはないと思う。だからこそ尊くて、だからこそ大切にしたいって、思うんじゃないかな……」
 たぶん、茜の言葉が昔と変わったわけじゃない。それなのに、胸への刺さり具合はまるで違った。俺自身も知らないどこかの、深いところまで沁みるように響いていく。それが血液に混じり全身へと巡った時、俺の中に小さななにかが芽生えた。気がしたわけではなく、感じていた。
「そういう……もんなのかもな」
 珍しく、俺は俺の言葉に共感した。
「あ、バス来た」
 帰りも予定通りの時刻だった。行きのバスよりも冷えた空気が逃げるように外へと流れ出たが、二人は反応することも、表情を変えることもなく乗り込んだ。二人が並んで腰を下ろした時、俺の視界は遠くなり、ページは捲られた。

「ただいまー……」
 静まり返った家に響くのは、茜の声だ。茜は脱いだ靴を揃えてから階段を上り、自分の部屋へと向かって行く。部屋に入ると持っていた鞄を落とすように床に置き、そのままベッドに倒れ込んだ。布団が優しく波を打つ。茜は一向に動かない。疲れすぎて寝てしまったのだろうか。
 しばらくすると、体は小さく震え始め、顔を埋めた枕に押し殺すように、すすり泣く声が漏れ始める。懸命に抑えたはずのその声は、音のない部屋の中で、無情にも響き渡った。どうやらまだ、あの日の続きのようだった。少しだけ開いた鞄からは、「必勝」のお守りが覗いている。やっぱり俺の前では我慢してくれていたんだな、と、茜の優しさに、涙が込み上げた。
 本の中にはこの感情が、刻まれているはずもないのに。
 洟を啜りながら、茜がゆっくりと上体を起こす。茜は収納棚のついたベッドボードに置かれているティッシュで涙を拭くと、「ダメダメ。匠が頑張ってたのに、私がこんなんでどうする」と、頬を軽く叩いて立ち上がった。鞄から例の本を取り出し、机へと向かう。時折、涙を手で拭う仕草を見せながらも、茜はその感情をぶつけるように一心不乱に書き進めた。
 手の届く距離に、俺はいた。でも、本の中身を覗くことはしなかった。それが今、声も温度も届けられない俺にできる唯一の感謝の気持ちだと、そう思っていた。