じっとりとまとわりつく暑さとともに、新しいページは始まった。「あっついな」と聞こえた声に、俺は自分の身体と声を取り戻したことを知る。あの日が試合の前日だとすると、おそらく今日は、試合の当日だろうと思った。それは身につけたものにも現れていて、肩には試合用の大きなボストンバッグとケースに入れられたバスケットボール、首からはタオルが掛けられている。バッグの中も確認したが、バスケットシューズや飲み物の他、ユニフォームや着替えなどが綺麗に畳まれた状態で入れられていた。
流れる汗をタオルで拭いながらバスを待つ。バスの到着より早く、ひときわ元気な声が脳内に飛び込んだ。
「流石に試合の日は遅刻しないんだねー」
なにかのライブのタオルを首に掛けた茜は、「あっついね。暑い、暑すぎ、暑すぎる」と口にしながら、小型扇風機の風を額に当てている。しかし、その扇風機は温風を運んでいるに過ぎないようで、前髪の一部は汗で額に引っ付いていた。バスの到着まではまだ少し、時間があるようだった。
「こんなに暑いのに、本当に試合なんてやるの? 倒れちゃうよ? 延期にしたほうが良くない?」
こんなんじゃ化粧も取れちゃうよ、と、まるで吹き出る汗のように、茜の愚痴も止まらなかった。水筒の水を飲んでも、それ以上の水分が旅立っていく。もしどちらかを止めることができるなら、俺はまず、茜の愚痴を止めるのかもしれない。
「あのな。そんなことできるわけないだろ? 第一、今日の試合のためにコンディションを整えてきたんだぞ?」過去の俺はな? と胸の内で加えた。
「へいへーい。そりゃご苦労さま。あー、あつすぎるー」
俺の話に聞く耳を持たない茜は、扇風機と額の距離を一層近づけた。ためしに話題を変えてみる。「茜、昨日の夜はなにを食べたんだ?」
「なによ、急に。昨日の夜? えっと確かね、豚に衣つけて油で揚げたやつ。説明めんど」
面倒くさくしたのは自分だろ、と思いながらも「トンカツね」と返す。すると茜は、「そう呼ぶ人もいるみたいねー。てかお願いだからこの暑い時に、熱いものを連想させるような話はしないでくれますかー?」と言った。
あの日のように「一緒に戦いたかった」などという可愛いことは絶対に口にしないと思った。が、あの光景を見てからするこの会話は楽しかった。
「あ、そうそう。匠にこれあげる」
そう言って茜は鞄の中から白いリストバンドを取り出した。
「お、リストバンドじゃん! サンキュー」
「暑いからね。汗拭きながらがんばー」
素直に応援しているとは言われなかったが、茜の鞄に「必勝」と書かれた手作りのお守りが付いていることに、俺は気付いていた。ようやくバスが到着する。
「バス来たぞー」
「おー、冷房が来たー」
ほとんどの家に自家用車があるこの島では、バスに乗る人はあまり多くはいない。信号も少ない。だからよほどのことがない限り、バスが遅れることは滅多になかった。この日も時刻表通りの時間だった。ドアが開いた瞬間、冷たい空気が身体を包む。涼しさを求めていても、急激に冷えると身体は震える。
「あー、幸せ。今日一日の幸運を使い果たしたかも」
「おい。これから試合に行くんだぞ? 縁起でもないこと言うなよ」
「ごめん、ごめん」
すっかり持ち直した茜は手刀を切った。
茜が窓側に、俺はその隣に腰を下ろす。高い木々の生い茂る道を抜けると、今度は海が顔を出す。水面に太陽の光が反射して、ところどころが輝いている。潮風の香りを感じようと思ったが、窓に伸びた俺の手は茜に掴まれ、無言のまま元の位置に戻された。どうやらこの涼しい車内に外気は入れたくないらしい。俺は大人しく前を向いた。茜は内心緊張していたのか、そこから試合会場に到着するまでの間なにも喋らずに、一人窓の外を眺めていた。
バスは過去の時間を正確に刻みながら、目的地へと向かっていく。乗車してから約四十分、窓に反射する茜の横顔を捉えてから、俺は降車ボタンに手を伸ばした。
「うーん、着いたー」茜は座りっぱなしで固まった身体を伸ばし、「やっぱり外は暑いままかー」と言った。
「そりゃそうだろうて。ほら、遅刻するから行くぞ」
降り注ぐ日差しから逃げるように、はーい、とだらしのない返事をする茜と一緒に会場へ向かう。入口の前には日陰に逃げ込んだ人たちが、必死に汗を拭いているのが見えた。
会場はこの島に唯一ある、大きな総合体育館だった。一階が試合会場となっているコート、二階が応援、観客席になっている。収容人数は島民数から考えると少しやり過ぎな気もするが、空調管理はしっかりと整っており、室内は程よい冷気と、爽やかな熱気に包まれていた。
他の試合は既に行われている。試合会場へと続く大きく重厚感のある扉付近には、喜怒哀楽の様々な表情が入り乱れており、勝負事の爽快さと残酷さを表現していた。そんな選手、応援団を横目に、大会のスケジュールを確認する。試合時刻は午後一番、十三時からの開始と記載されている。全てではないが、俺はこの試合の内容をある程度覚えていた。そのせいか、もし記憶の通りに試合が進み、この身体が動くのであれば、と少しだけ過去を変えられるのではないかと思ってしまう。俺は茜と別れてチームメイトと合流し、二度目の青春への準備を進めた。
そう、上手くいくはずはなかった。俺は茜の傍で、今よりもずいぶんと髪の短い俺自身の試合前のアップの様子を見ている。考えてみればこれは茜の本の中で、試合の様子は茜の視点からしか見られないのは当然だった。「過去は変えられないとはいえ、まさか自分自身を見ることになるなんてね」とため息交じりに呟いたが、どうやらその声が茜の耳に届くこともないらしい。茜は同じ高校の友人に挟まれる形で座っていて、その周りには俺のチームメイトがそれぞれのチームのアップを見ながら談笑している。
「相手の高校、全員身長高くない?」
「ね。うちの高校よりも全体的に十センチ近くは大きいんじゃない? あっちのコートの方が狭く感じちゃうもん」
「でも茜の彼氏、やっぱり上手だよね!」
「うん、なんか一人だけいい意味で浮いてる」
「そりゃそうっすよ。匠先輩がいるんですから、今日は絶対にうちが勝ちます!」
そんな会話が近くで繰り広げられているというのに、茜が言葉を発することはない。一応、一つ一つの話に目だけは笑って応えていたが、会話が途切れるとすぐ、緊張の面持ちでコートの中へと視線を戻していた。その真剣な眼差しに、俺は茜の想いを見た気がした。結果を知っている俺でさえも緊張させるその顔は、試合に興味がない人が作れるモノでは決してない。
試合開始の時間が刻一刻と迫っていく。先程までアップをしていた両チームの選手たちは、自身のベンチに戻り、監督を中心に座っている。その中に、あの日の俺もいた。監督が力強く手を叩くと選手は立ち上がり、一人、また一人と練習着を脱いでユニフォーム姿へと変わった。今度はユニフォーム姿の五人を中心にして、チーム全員で円陣を組む。
「がんばれー!」
「匠せんぱーい! ファイトでーす!」
静かなコートとは対照的に、一気に観客席が騒がしくなっていく。両校ともに既存の曲にアレンジを加えた応援歌を叩き潰れたメガホンを使って大声で歌い、会場の興奮を煽る。試合開始のカウントダウンとともに、会場全体の熱気の上昇を肌で感じる。ビー、と試合時間を知らせるブザーの音が会場に響き渡ると、円陣を組んでいた選手は円陣の中心に向かって力強い一歩を踏み出し、叫び声にも似た掛け声とともに心を一つにする。
会場のボルテージは、最高潮に達していた。
気合い十分で引き締まった表情をした選手たちが、センターラインを挟んで向かい合う。オフィシャルと三名の審判団が最終確認を行う僅かな間、今までの熱気は緊張へと変わり、胸の鼓動を助長する。俺は、茜が祈るように両手を顔の前で握り、震えながらコートに視線を送っていたことを知った。主審が片手を挙げ、口に咥えた笛を吹く。激しい熱気が息を吹き返す。
コートを見つめる視線が一つだけ増えた試合が、幕を開けた。
流れる汗をタオルで拭いながらバスを待つ。バスの到着より早く、ひときわ元気な声が脳内に飛び込んだ。
「流石に試合の日は遅刻しないんだねー」
なにかのライブのタオルを首に掛けた茜は、「あっついね。暑い、暑すぎ、暑すぎる」と口にしながら、小型扇風機の風を額に当てている。しかし、その扇風機は温風を運んでいるに過ぎないようで、前髪の一部は汗で額に引っ付いていた。バスの到着まではまだ少し、時間があるようだった。
「こんなに暑いのに、本当に試合なんてやるの? 倒れちゃうよ? 延期にしたほうが良くない?」
こんなんじゃ化粧も取れちゃうよ、と、まるで吹き出る汗のように、茜の愚痴も止まらなかった。水筒の水を飲んでも、それ以上の水分が旅立っていく。もしどちらかを止めることができるなら、俺はまず、茜の愚痴を止めるのかもしれない。
「あのな。そんなことできるわけないだろ? 第一、今日の試合のためにコンディションを整えてきたんだぞ?」過去の俺はな? と胸の内で加えた。
「へいへーい。そりゃご苦労さま。あー、あつすぎるー」
俺の話に聞く耳を持たない茜は、扇風機と額の距離を一層近づけた。ためしに話題を変えてみる。「茜、昨日の夜はなにを食べたんだ?」
「なによ、急に。昨日の夜? えっと確かね、豚に衣つけて油で揚げたやつ。説明めんど」
面倒くさくしたのは自分だろ、と思いながらも「トンカツね」と返す。すると茜は、「そう呼ぶ人もいるみたいねー。てかお願いだからこの暑い時に、熱いものを連想させるような話はしないでくれますかー?」と言った。
あの日のように「一緒に戦いたかった」などという可愛いことは絶対に口にしないと思った。が、あの光景を見てからするこの会話は楽しかった。
「あ、そうそう。匠にこれあげる」
そう言って茜は鞄の中から白いリストバンドを取り出した。
「お、リストバンドじゃん! サンキュー」
「暑いからね。汗拭きながらがんばー」
素直に応援しているとは言われなかったが、茜の鞄に「必勝」と書かれた手作りのお守りが付いていることに、俺は気付いていた。ようやくバスが到着する。
「バス来たぞー」
「おー、冷房が来たー」
ほとんどの家に自家用車があるこの島では、バスに乗る人はあまり多くはいない。信号も少ない。だからよほどのことがない限り、バスが遅れることは滅多になかった。この日も時刻表通りの時間だった。ドアが開いた瞬間、冷たい空気が身体を包む。涼しさを求めていても、急激に冷えると身体は震える。
「あー、幸せ。今日一日の幸運を使い果たしたかも」
「おい。これから試合に行くんだぞ? 縁起でもないこと言うなよ」
「ごめん、ごめん」
すっかり持ち直した茜は手刀を切った。
茜が窓側に、俺はその隣に腰を下ろす。高い木々の生い茂る道を抜けると、今度は海が顔を出す。水面に太陽の光が反射して、ところどころが輝いている。潮風の香りを感じようと思ったが、窓に伸びた俺の手は茜に掴まれ、無言のまま元の位置に戻された。どうやらこの涼しい車内に外気は入れたくないらしい。俺は大人しく前を向いた。茜は内心緊張していたのか、そこから試合会場に到着するまでの間なにも喋らずに、一人窓の外を眺めていた。
バスは過去の時間を正確に刻みながら、目的地へと向かっていく。乗車してから約四十分、窓に反射する茜の横顔を捉えてから、俺は降車ボタンに手を伸ばした。
「うーん、着いたー」茜は座りっぱなしで固まった身体を伸ばし、「やっぱり外は暑いままかー」と言った。
「そりゃそうだろうて。ほら、遅刻するから行くぞ」
降り注ぐ日差しから逃げるように、はーい、とだらしのない返事をする茜と一緒に会場へ向かう。入口の前には日陰に逃げ込んだ人たちが、必死に汗を拭いているのが見えた。
会場はこの島に唯一ある、大きな総合体育館だった。一階が試合会場となっているコート、二階が応援、観客席になっている。収容人数は島民数から考えると少しやり過ぎな気もするが、空調管理はしっかりと整っており、室内は程よい冷気と、爽やかな熱気に包まれていた。
他の試合は既に行われている。試合会場へと続く大きく重厚感のある扉付近には、喜怒哀楽の様々な表情が入り乱れており、勝負事の爽快さと残酷さを表現していた。そんな選手、応援団を横目に、大会のスケジュールを確認する。試合時刻は午後一番、十三時からの開始と記載されている。全てではないが、俺はこの試合の内容をある程度覚えていた。そのせいか、もし記憶の通りに試合が進み、この身体が動くのであれば、と少しだけ過去を変えられるのではないかと思ってしまう。俺は茜と別れてチームメイトと合流し、二度目の青春への準備を進めた。
そう、上手くいくはずはなかった。俺は茜の傍で、今よりもずいぶんと髪の短い俺自身の試合前のアップの様子を見ている。考えてみればこれは茜の本の中で、試合の様子は茜の視点からしか見られないのは当然だった。「過去は変えられないとはいえ、まさか自分自身を見ることになるなんてね」とため息交じりに呟いたが、どうやらその声が茜の耳に届くこともないらしい。茜は同じ高校の友人に挟まれる形で座っていて、その周りには俺のチームメイトがそれぞれのチームのアップを見ながら談笑している。
「相手の高校、全員身長高くない?」
「ね。うちの高校よりも全体的に十センチ近くは大きいんじゃない? あっちのコートの方が狭く感じちゃうもん」
「でも茜の彼氏、やっぱり上手だよね!」
「うん、なんか一人だけいい意味で浮いてる」
「そりゃそうっすよ。匠先輩がいるんですから、今日は絶対にうちが勝ちます!」
そんな会話が近くで繰り広げられているというのに、茜が言葉を発することはない。一応、一つ一つの話に目だけは笑って応えていたが、会話が途切れるとすぐ、緊張の面持ちでコートの中へと視線を戻していた。その真剣な眼差しに、俺は茜の想いを見た気がした。結果を知っている俺でさえも緊張させるその顔は、試合に興味がない人が作れるモノでは決してない。
試合開始の時間が刻一刻と迫っていく。先程までアップをしていた両チームの選手たちは、自身のベンチに戻り、監督を中心に座っている。その中に、あの日の俺もいた。監督が力強く手を叩くと選手は立ち上がり、一人、また一人と練習着を脱いでユニフォーム姿へと変わった。今度はユニフォーム姿の五人を中心にして、チーム全員で円陣を組む。
「がんばれー!」
「匠せんぱーい! ファイトでーす!」
静かなコートとは対照的に、一気に観客席が騒がしくなっていく。両校ともに既存の曲にアレンジを加えた応援歌を叩き潰れたメガホンを使って大声で歌い、会場の興奮を煽る。試合開始のカウントダウンとともに、会場全体の熱気の上昇を肌で感じる。ビー、と試合時間を知らせるブザーの音が会場に響き渡ると、円陣を組んでいた選手は円陣の中心に向かって力強い一歩を踏み出し、叫び声にも似た掛け声とともに心を一つにする。
会場のボルテージは、最高潮に達していた。
気合い十分で引き締まった表情をした選手たちが、センターラインを挟んで向かい合う。オフィシャルと三名の審判団が最終確認を行う僅かな間、今までの熱気は緊張へと変わり、胸の鼓動を助長する。俺は、茜が祈るように両手を顔の前で握り、震えながらコートに視線を送っていたことを知った。主審が片手を挙げ、口に咥えた笛を吹く。激しい熱気が息を吹き返す。
コートを見つめる視線が一つだけ増えた試合が、幕を開けた。