深く長い夢の中で、俺はどこかに叫んでいる。あれは人か? 呼吸が苦しい。血の巡る音がうるさい。茜の声が、聞こえない。あ、そうか、あの人影は茜だ。おい、茜! 必死に伸ばした手が、その後ろ姿に触れる。でも、雪の冷たさを伝えることはなかった。
トントントントン――……
パチパチパチパチ――……
子守唄のような心地よい音が優しく鼓膜を刺激する。懐かしい音だ。昔、実家の台所からよく聞こえていた。身体の心に刻み込まれた音色が心を満たし、久しく触れていなかった感覚に酔いしれる。やはり記憶は、消えたりしない。そう感じた時、幻想の殻を破るように視界は開けた。
「ただいまー。ごめんね、遅くなっちゃった。今から晩ご飯作るから――」
部屋の外から女性の声がする。勢いよく開けられた扉から、茜の母親である亜紀が、パンパンに膨らんだ大きなビニル袋を両手に抱えて現れた。あの日とは比べものにならないほどに顔色はよく、俺の記憶に残っている通りの亜紀だった。よほど慌てていたのか、扉の隙間からは乱雑に脱ぎ捨てられた白色のサンダルが、まるで喧嘩でもしたように左右で違う向きに置かれているのが見える。
「いつものスーパーが安売りしてたから、ついつい買いすぎちゃった。冷蔵庫の中身、ちゃんと見てから行くんだったわー」
よいしょ、と亜紀は袋いっぱいに詰め込まれた食材をダイニングテーブルに置いた。
「お米はあと少しで炊けるように予約してるからあとは……って、茜? なにしてるの?」
一方的に話をしたあと、亜紀はようやくキッチンに立つ茜の存在に気付いたようだ。一体今まで、どこに話しかけていたのだろう。「え、今更?」と茜も驚いている。
「なにって、みんなの晩ご飯、作ってるんだけど?」
包丁を動かす手を止め、呆れた顔に変わる。まな板の上には等間隔に千切りされたキャベツの山ができている。
「あらやだ、そうなの? ありがとう、本当助かるわー」
亜紀は袋から取り出した食材を冷蔵庫の中へと入れていく。
「なに作ってるの? あら、トンカツ? トンカツなんて久しぶりねー。最近はダイエットがなんだとかって、揚げ物はあんまりしていなかったものね。和くんも喜ぶわ。そういえば家におソースあったかしら? 辛子とレモンも買ってくれば良かった。まあでも、たまにはお塩でいただくのも良いかもしれないわねー」
「いいから早く冷蔵庫の扉閉めて!」
ちょっと待って、と口にする亜紀は嬉しそうだ。袋に手を入れるたびにトンカツを揚げる鍋を覗いては、笑顔を浮かべている。結局二袋分の量をまとめて冷蔵庫に入れたので、部屋には冷蔵庫の閉め忘れ防止のアラームが響いていた。
「これからは電気代も上がるって言うし、節約しないとね」と、言っていることとやっていることが全く一致しない亜紀を見て、茜は子どもを見るような目をしていた。茜は亜紀の遺伝子を色濃く受け継いでいるのだと思った。
「それで? 茜がご飯を作るなんて、一体どういう風の吹き回しかしら?」
学校でなにかあった? と、キッチン台に寄り掛かりながら、含みを持たせた顔を茜に向ける。
「別になにもないよ。ただ気が向いた時に、たまたまお母さんの帰りが遅かったから作ってただけ。偶然が重なったの」
「ふーん、偶然ねえ」
そのたった一言で立場が変わる。これが親心というものなのか、亜紀はなにかを察したように口元は緩ませた。正しい親と子の関係に戻った瞬間だった。
「もう。早く着替えてきたら? 手だって洗ってないでしょ?」
「はいはーい」
亜紀は手の指をチョロチョロと動かしながら茜に微笑むと、リビングを後にする。茜は小さなため息を漏らしてから、千切りにしたキャベツと揚げたてのトンカツを皿に盛りつけた。
これはいつの記憶なんだろう。俺には検討もつかなかった。俺が茜の自宅の様子を知るすべなんてない。だとすると、これは茜だけの記憶、あるいは思念の神さまによって創られたモノと考えるのが妥当だと思った。どちらにせよ、あのとき茜が口にした「〝この中〟に大切な記憶はある」というのが、このページのことを指している可能性もある。神経は常に、研ぎ澄ましていなければいけない。
「げ、本当だ。姉ちゃんが晩飯作ってる」
「だから言ったでしょ? 今日はごちそうよ!」
再びリビングの扉が開くと、亜紀と一緒に、茜の弟の和樹も姿を見せた。和樹は童顔な中学生、という印象があるが、今はもう大人びているのだろうか。
「げ、ってなによ。げ、って。私だって、ご飯くらい作るわよ」
「なに、やっぱり明日のことと関係してんの?」
和樹が突発的に尋ねると、「え、明日のことって?」と言って、亜紀が興味津々に茜と和樹の顔を交互に見た。
「和樹! 余計なこと言わないで」
「そんな……茜ちゃん。余計なことなんて酷いこと言わないで」
亜紀は誰が見ても演技だとわかるすねた顔を見せてから、両手でその顔を覆う。でも、指の隙間からしっかり茜を覗いていた。
「あー、もう。わかったから早くご飯食べよう? 和樹、みんなの箸並べて」
はーい、と和樹は箸を取り、茜は料理を食卓へと運ぶ。その様子を亜紀はニコニコしながら見つめている。父親は帰りが遅いのだろう。食卓に置くとすぐ、ラップが掛けられた。
炊飯器が自らの仕事の終わりを告げる。
「ピッタリね! さすがはお母さん! 二人とも、ご飯はどれくらいにする?」
席に着いた茜と和樹は「私はいらない」「並の大」とそれぞれ返事をした。亜紀と和樹の分の茶碗が並ぶと手を合わせ、「いただきます」と三人は口を揃えた。
「うん、美味しい! 油の温度もちょうど良かったんじゃない?」
「そりゃ気合いの入ったトンカツだもんな」
揶揄するように和樹は言う。すると亜紀がすかさず、「あら、もうそのお話に入って良いの?」と、この日一番の笑みを浮かべた。
「茜ちゃん、明日はなにがあるの?」
声のトーンは一段階上がり、亜紀は箸を皿の上に置いて聞きの体勢に入った。「なにもないわよ」と茜は言ったが、亜紀の表情は微塵も崩れなかった。
「別に隠すことねーじゃん。俺は意外と姉ちゃんっていい奴なんだなって思ったよ」
「こら、お姉ちゃんに向かっていい奴とはなによ」
「もー。お母さんも会話に混ぜてよー」
幸せを絵に書いた家族だと思った。ただ見ているだけで、自然と笑顔は零れてくる。
「それで、明日はなんの日なの? もしかして、彼氏さんとの記念日とか?」
「なんで記念日の前日がトンカツなんだよ」
和樹は鼻で笑いながらトンカツを頬張ると、「試合だよ。し、あ、い」と口いっぱいのままに答えた。茜が「和樹、汚いから口に入れたまま喋らない」と和樹を叱ったが、「姉ちゃんがさっさと答えないからだろ。そんなことより辛子、無かったっけな」と話に興味がないと言わんばかりに、素っ気なく席を立った。
「あら、明日は彼氏さんの試合なの? たしか、バスケ部だったかしら? なるほど……それで気合いと愛情たっぷりってわけね」
「そんなんじゃない」
「早くお母さんにも彼氏さん紹介してよ。部屋もキレイに片付けるし、上品なマダムを演じるから」と亜紀は顔の前でピースサインを作ったが、「だから連れてきたくないのよ」と、茜は大きなため息をついた。
「バスケのことはよく知らないけど」
残り僅かの辛子の容器を振りながら、和樹が席に戻る。
「なんか明日の対戦相手はめちゃくちゃ強いらしいよ? そんでクラスのやつ曰く、この大会の中でその学校を倒せる可能性があるのは彼氏さんのいる学校くらいなんだと。可能性はかなり低いみたいだけどね。まあ、だから姉ちゃんも気合入ってんじゃねーの? しらんけど」
和樹の言葉で、俺は今日が「あの試合」の前日だと知った。が、茜はそれまで試合に興味は無かったし、試合を観に来るのもこの時が初めてのはずだった。それなのに、どうして茜はこの日まで本に書いているのだろう。ん、出ねーじゃん、と和樹はまだ辛子の容器を振っている。
「まあ、そうなの。それは頑張ってほしいわね。それで……ちょっと質問なんだけど、どうして茜がトンカツ?」
「な。姉ちゃんには関係ねーじゃん。俺は揚げ物食えて嬉しいけど」
「……したから」
独り言のように茜はボソボソと呟いた。「なにか言った?」亜紀は言う。
「だから……、一緒に戦える気がしたの! 私、バスケットはルールもよく知らないけど、それでも一緒に戦いたいなって思ったの。気持ちくらいは同じって思いたくて」
予想外の回答だった。でも、それが茜が本の中にこの日を記した理由なのかもしれない。戦いはもう、始まっていたから。恥じらいながらも必死に弁明する茜は可愛かった。
「やっぱり、結構いい奴じゃん」と和樹が言うと、「えー、茜ちゃん、かわいい!」と亜紀も続いた。
「もう……だから言いたくなかったのよ!」
茜は急いで食事を済ませると、興奮気味に「ごちそうさま」と言って食器を片付けた。そんな茜も、その様子を見る二人の笑顔も、やはり幸せを絵に書いたような家族だった。
トントントントン――……
パチパチパチパチ――……
子守唄のような心地よい音が優しく鼓膜を刺激する。懐かしい音だ。昔、実家の台所からよく聞こえていた。身体の心に刻み込まれた音色が心を満たし、久しく触れていなかった感覚に酔いしれる。やはり記憶は、消えたりしない。そう感じた時、幻想の殻を破るように視界は開けた。
「ただいまー。ごめんね、遅くなっちゃった。今から晩ご飯作るから――」
部屋の外から女性の声がする。勢いよく開けられた扉から、茜の母親である亜紀が、パンパンに膨らんだ大きなビニル袋を両手に抱えて現れた。あの日とは比べものにならないほどに顔色はよく、俺の記憶に残っている通りの亜紀だった。よほど慌てていたのか、扉の隙間からは乱雑に脱ぎ捨てられた白色のサンダルが、まるで喧嘩でもしたように左右で違う向きに置かれているのが見える。
「いつものスーパーが安売りしてたから、ついつい買いすぎちゃった。冷蔵庫の中身、ちゃんと見てから行くんだったわー」
よいしょ、と亜紀は袋いっぱいに詰め込まれた食材をダイニングテーブルに置いた。
「お米はあと少しで炊けるように予約してるからあとは……って、茜? なにしてるの?」
一方的に話をしたあと、亜紀はようやくキッチンに立つ茜の存在に気付いたようだ。一体今まで、どこに話しかけていたのだろう。「え、今更?」と茜も驚いている。
「なにって、みんなの晩ご飯、作ってるんだけど?」
包丁を動かす手を止め、呆れた顔に変わる。まな板の上には等間隔に千切りされたキャベツの山ができている。
「あらやだ、そうなの? ありがとう、本当助かるわー」
亜紀は袋から取り出した食材を冷蔵庫の中へと入れていく。
「なに作ってるの? あら、トンカツ? トンカツなんて久しぶりねー。最近はダイエットがなんだとかって、揚げ物はあんまりしていなかったものね。和くんも喜ぶわ。そういえば家におソースあったかしら? 辛子とレモンも買ってくれば良かった。まあでも、たまにはお塩でいただくのも良いかもしれないわねー」
「いいから早く冷蔵庫の扉閉めて!」
ちょっと待って、と口にする亜紀は嬉しそうだ。袋に手を入れるたびにトンカツを揚げる鍋を覗いては、笑顔を浮かべている。結局二袋分の量をまとめて冷蔵庫に入れたので、部屋には冷蔵庫の閉め忘れ防止のアラームが響いていた。
「これからは電気代も上がるって言うし、節約しないとね」と、言っていることとやっていることが全く一致しない亜紀を見て、茜は子どもを見るような目をしていた。茜は亜紀の遺伝子を色濃く受け継いでいるのだと思った。
「それで? 茜がご飯を作るなんて、一体どういう風の吹き回しかしら?」
学校でなにかあった? と、キッチン台に寄り掛かりながら、含みを持たせた顔を茜に向ける。
「別になにもないよ。ただ気が向いた時に、たまたまお母さんの帰りが遅かったから作ってただけ。偶然が重なったの」
「ふーん、偶然ねえ」
そのたった一言で立場が変わる。これが親心というものなのか、亜紀はなにかを察したように口元は緩ませた。正しい親と子の関係に戻った瞬間だった。
「もう。早く着替えてきたら? 手だって洗ってないでしょ?」
「はいはーい」
亜紀は手の指をチョロチョロと動かしながら茜に微笑むと、リビングを後にする。茜は小さなため息を漏らしてから、千切りにしたキャベツと揚げたてのトンカツを皿に盛りつけた。
これはいつの記憶なんだろう。俺には検討もつかなかった。俺が茜の自宅の様子を知るすべなんてない。だとすると、これは茜だけの記憶、あるいは思念の神さまによって創られたモノと考えるのが妥当だと思った。どちらにせよ、あのとき茜が口にした「〝この中〟に大切な記憶はある」というのが、このページのことを指している可能性もある。神経は常に、研ぎ澄ましていなければいけない。
「げ、本当だ。姉ちゃんが晩飯作ってる」
「だから言ったでしょ? 今日はごちそうよ!」
再びリビングの扉が開くと、亜紀と一緒に、茜の弟の和樹も姿を見せた。和樹は童顔な中学生、という印象があるが、今はもう大人びているのだろうか。
「げ、ってなによ。げ、って。私だって、ご飯くらい作るわよ」
「なに、やっぱり明日のことと関係してんの?」
和樹が突発的に尋ねると、「え、明日のことって?」と言って、亜紀が興味津々に茜と和樹の顔を交互に見た。
「和樹! 余計なこと言わないで」
「そんな……茜ちゃん。余計なことなんて酷いこと言わないで」
亜紀は誰が見ても演技だとわかるすねた顔を見せてから、両手でその顔を覆う。でも、指の隙間からしっかり茜を覗いていた。
「あー、もう。わかったから早くご飯食べよう? 和樹、みんなの箸並べて」
はーい、と和樹は箸を取り、茜は料理を食卓へと運ぶ。その様子を亜紀はニコニコしながら見つめている。父親は帰りが遅いのだろう。食卓に置くとすぐ、ラップが掛けられた。
炊飯器が自らの仕事の終わりを告げる。
「ピッタリね! さすがはお母さん! 二人とも、ご飯はどれくらいにする?」
席に着いた茜と和樹は「私はいらない」「並の大」とそれぞれ返事をした。亜紀と和樹の分の茶碗が並ぶと手を合わせ、「いただきます」と三人は口を揃えた。
「うん、美味しい! 油の温度もちょうど良かったんじゃない?」
「そりゃ気合いの入ったトンカツだもんな」
揶揄するように和樹は言う。すると亜紀がすかさず、「あら、もうそのお話に入って良いの?」と、この日一番の笑みを浮かべた。
「茜ちゃん、明日はなにがあるの?」
声のトーンは一段階上がり、亜紀は箸を皿の上に置いて聞きの体勢に入った。「なにもないわよ」と茜は言ったが、亜紀の表情は微塵も崩れなかった。
「別に隠すことねーじゃん。俺は意外と姉ちゃんっていい奴なんだなって思ったよ」
「こら、お姉ちゃんに向かっていい奴とはなによ」
「もー。お母さんも会話に混ぜてよー」
幸せを絵に書いた家族だと思った。ただ見ているだけで、自然と笑顔は零れてくる。
「それで、明日はなんの日なの? もしかして、彼氏さんとの記念日とか?」
「なんで記念日の前日がトンカツなんだよ」
和樹は鼻で笑いながらトンカツを頬張ると、「試合だよ。し、あ、い」と口いっぱいのままに答えた。茜が「和樹、汚いから口に入れたまま喋らない」と和樹を叱ったが、「姉ちゃんがさっさと答えないからだろ。そんなことより辛子、無かったっけな」と話に興味がないと言わんばかりに、素っ気なく席を立った。
「あら、明日は彼氏さんの試合なの? たしか、バスケ部だったかしら? なるほど……それで気合いと愛情たっぷりってわけね」
「そんなんじゃない」
「早くお母さんにも彼氏さん紹介してよ。部屋もキレイに片付けるし、上品なマダムを演じるから」と亜紀は顔の前でピースサインを作ったが、「だから連れてきたくないのよ」と、茜は大きなため息をついた。
「バスケのことはよく知らないけど」
残り僅かの辛子の容器を振りながら、和樹が席に戻る。
「なんか明日の対戦相手はめちゃくちゃ強いらしいよ? そんでクラスのやつ曰く、この大会の中でその学校を倒せる可能性があるのは彼氏さんのいる学校くらいなんだと。可能性はかなり低いみたいだけどね。まあ、だから姉ちゃんも気合入ってんじゃねーの? しらんけど」
和樹の言葉で、俺は今日が「あの試合」の前日だと知った。が、茜はそれまで試合に興味は無かったし、試合を観に来るのもこの時が初めてのはずだった。それなのに、どうして茜はこの日まで本に書いているのだろう。ん、出ねーじゃん、と和樹はまだ辛子の容器を振っている。
「まあ、そうなの。それは頑張ってほしいわね。それで……ちょっと質問なんだけど、どうして茜がトンカツ?」
「な。姉ちゃんには関係ねーじゃん。俺は揚げ物食えて嬉しいけど」
「……したから」
独り言のように茜はボソボソと呟いた。「なにか言った?」亜紀は言う。
「だから……、一緒に戦える気がしたの! 私、バスケットはルールもよく知らないけど、それでも一緒に戦いたいなって思ったの。気持ちくらいは同じって思いたくて」
予想外の回答だった。でも、それが茜が本の中にこの日を記した理由なのかもしれない。戦いはもう、始まっていたから。恥じらいながらも必死に弁明する茜は可愛かった。
「やっぱり、結構いい奴じゃん」と和樹が言うと、「えー、茜ちゃん、かわいい!」と亜紀も続いた。
「もう……だから言いたくなかったのよ!」
茜は急いで食事を済ませると、興奮気味に「ごちそうさま」と言って食器を片付けた。そんな茜も、その様子を見る二人の笑顔も、やはり幸せを絵に書いたような家族だった。