商店街の賑わいが遠い昔のように、公園の中は静まり返っている。滑り台にブランコ、それから砂場しかないこの公園には、俺と茜の他に、缶コーヒーを片手に黄昏れるように煙草を吸う男性が一人いるだけだった。砂利を足裏でこすり、そこだけぽっかりと季節に取り残されたように街路灯に照らされるベンチへと向かう。きっとアニメや漫画なら、そこに座れば別の世界に飛ばされる。そんなベンチに見えた。
 凍える寒さに身を寄せながら、茜の隣に腰を下ろす。良かった、別の世界には行っていない。
「冬の空って綺麗だよね。空気が澄んでてさ」
 空に向かって白い息が溶けていく。大きな目を見開く茜の瞳は、空の星を飲み込んだように淡く輝いていた。その視線を追うように、俺も視線を空へと運ぶ。視界に広がる星空は今も昔も変わることなく、じっとこちらを見つめている。本当にこの空は、島の外の空ともつながっているのだろうか。なんだか星の光に、胸を締め付けられた気がした。
「なに感傷に浸ってるの? 似合わないって。ほら、早くケーキ食べよ」
 茜は箱に貼られた封のシールを「保冷剤入れてもらったけど、これだけ寒ければ必要ないよね」と言いながら嬉しそうに剥がしていく。中からモンブランと付属の透明なフォークを取り出すと、箱ごとケーキを俺にくれた。万が一に備えて、俺はその箱を「お皿代わりにしなよ」と茜に返した。茜の頬は緩んでいた。
「美味しそう! ではでは、いっただきまーす」
 ケーキの上で手を合わせ、子どものような顔で言う。そんなつもりはなかったが、俺は感傷に浸っていたのかもしれない。茜がいつも以上に、可愛く映った。
「食べてるとこ、そんないジロジロと見ないでくれる? 食べにくいんだけど」
 眉根を寄せて俺を睨みつける。それでも茜は自分の口の大きさをわかっていない一口を、口の中へと運んだ。案の定、口の周りにはクリームが付いた。「そんなに欲張らなくたって、誰も取ったりしないから」
 リスのように頬をパンパンに膨らませ、指で口に付いたクリームを取る。「そのまま冬眠でもするつもりかよ」と言うと、「冬眠するリスはシマリスだけらしいよ」と笑顔で茜は言った。たまに出てくる動物の知識はなんなんだ、と思う。
 公園で食べる二回目のケーキを堪能していると、無意識に「さっきの話、どう思った?」と口にしていた。自分でも驚いて茜を見ると、茜はケーキを食べる手を止めて、俺を見ていた。「さっきの話って、あのお姉さんの話?」
「あ、ああ」と歯切れの悪い言葉が零れる。
「いつもは気にもしないくせに、どうしたの?」
 風に流れる髪を抑え、茜は言う。口に含んでいたケーキも、すっかり飲み込んでいる。
「いや、ほら、茜にも忘れたくない記憶……とか? あるのかなって思ってさ」
 どこか虚をつかれたように、茜は首を傾げて瞬きを繰り返す。が、すぐにハッと我に返り「ああ、そっちの話?」と言った。「島を出たら匠の連絡も素っ気なくなるかもよってことかと思った」
「まあ、それもそうなんだけど」
「そうなんかい!」
 自分の太腿を叩きながら、茜はリズムよくツッコミを入れる。少しだけ、膝の上のケーキが揺れた。未来を知っているからこそ、俺はこのキレの良いツッコミにも、苦笑いしか出てこなかった。
「でもそれはなんとなく、なんとなくだけど覚悟してるから良いよ」
 ため息交じりの言葉が、冬空の下を駆け抜ける。空気が澄んでいるからかもしれない。その言葉はいつもよりもずっと、鮮明に俺の耳に届いた。吐き出した小さな白い息だけが、俺の存在を認めてくれていた。
「あるよ」
 唐突に、言った。冬の空に祈りを捧げるように、茜の瞳はまた、星空に向かっていた。
「それって……」俺は続く言葉を呑み込んだ。
 その答えの中に、茜の想いが眠っているのかもしれない。その想いの先に、今の茜はいるのかもしれない。だけど、こんなやり方では元の世界には戻れない。そんな気がして、言葉を呑んだ。茜がつま先で蹴った地面の砂が、澄んだ空気に紛れていく。
 その時だった。まるでその砂に包まれるように、ゆっくりと視界がぼやけ始める。またページが変わるのか? そう思った。でも、違った。
「言わない。それくらい、自分で考えろ」
 そう言って俺の頬をつねる茜が、今の茜と、重なった気がした。まっすぐと向けられた視線に、どこか懐かしさを感じてしまう。「茜……なのか?」そんな言葉が、自然に出てきてしまうほどに。
 茜は俺の頬から手を離し、寂しそうに微笑んだ。今だけは、風が運ぶ茜の香りを感じたくなかった。
「店長さんがさ、『過去を覚えている人がいれば風化はしない』って言ってたじゃない? あれを聞いて、なんだか少しだけ、切なくなっちゃった」
 俺の質問に、茜は答えなかった。
「確かに風化することはないんだろうけど、それだけだと意味を持たないことだってあると思うの。だって、記憶ってその時の映像のことだけを指すわけじゃないでしょう? あの時はこう思ったな、こんなこと考えていたな、って、私はそういう人の気持ちも含めて記憶って呼ぶんじゃないかなと思う。もし……もしね、その記憶の中に自分以外の他の誰かがいるとするのなら、一人だけが覚えていたって〝本当の意味〟なんて持たないよ」
 初めて言葉を重いと思った。確証を得たわけではなかった。でも、「意味のない記憶」をどれだけ探したところで、茜と一緒に元の世界には帰れないと思った。季節外れの嫌な汗が手のひらに顔を出し、鼓動は強さを増していく。だから、俺は拳を握った。
「茜の忘れたくない記憶の中にはちゃんと……〝意味〟があるんだね?」
 ゆっくりと、茜は静かに頷いた。
「私にとって、本当に大切な記憶だからね。……匠は? 匠には、忘れたくない記憶はあるの?」
「俺? 俺は……どうだろう。忘れたくない記憶か」
 頭の抽斗を開けた。手当たり次第に、開けた。だけど、求めていた答えだけは出てこなかった。頬に冷たく、柔らかな刺激が走る。それを確かめるように指を這わせてから、顔を上げた。
「珍しいね、この島に雪なんて」
 そこには綿のような雪が、互いを干渉しないように不規則に落ちてきていた。決してぶつからないその様が、今の俺と、茜のようだった。
「ホワイトクリスマスだ」と嬉しそうに言ったかと思うと、今度は「そっか」と、音もなく落ちる雪のように、茜は小さく呟いた。
「こうやって、なんてことのない時間が思い出として記憶に残っていくんだね。でも時間は止まることなく進んでいくから、その時の気持ちを覚えておくのは本当に難しくて。だから『過去を覚えている人』が必要なんだ。その人がいれば、きっと〝そこ〟に、辿り着けるから」
「え、どういうこと?」
「匠……。〝この中〟に、大切な記憶はちゃんとあるよ」
 はっきりと、そう言った。一人スッキリとした表情で、茜はそう口にした。その言葉は俺の中で、音を立てて弾けた。やっぱりここにいるのは「今の茜」だと、そう思った。
「茜……なんだろ? なあ、答えてくれよ!」
 これが人間の第六感というやつなのだろうか。俺はこの場から、茜が消えると感じた。
「なんか変なクリスマスだな。変なんだけど、今までで一番楽しいや……。ねえ、匠? この一番が……毎年更新されると良いね」
「ちょっと待って! 少しで良いから、話をさせて! 茜!」
 俺の言葉を遮断するように、二回目のクリスマスは強制的に、終わった。