ここはたぶん、女子会だ。俺は初めて、女子会の中にいる。時間が過ぎていくにつれ、肩身はどんどん狭くなっていく気がする。他の客が入店でもすれば店の空気は変わったのだろう。でも、こういう時に限って人が入って来る気配はない。不意に、ドア越しに店の外を確認している自分と目が合った。情けない姿だった。これが思念の神さまの仕業なのだとしたら、中々に酷なことをしてくれる。
「――……なんてことは、日常茶飯事だったもの。ただやっぱり、ずっとってわけではなくても我慢する時間、機会は増えてしまうのかもしれないね。私の場合、彼はなにかと『忙しい』とか言って。でもまあそれは別に許容範囲内だから良いんだけど、それより私が許せなかったのは、正直に言わなくなったことかな」
「正直に言わなくなった……ですか」
「島を出てからだんだんと……ね。環境も変わったわけだから、色々と思うところもあったと思うの。それこそ辛いこととか、悩みとか。でも彼はそれを、絶対に隠すのよ。わざと口調を荒くしたり、素っ気なくしたりしてね。そうなるとこっちとしても、次第に彼のことばかり聞くようになっていっちゃうじゃない? 彼には向こうで頑張ってっていう気持ちもあるわけだし。だけど、彼はそんなこと気付いてもいなかったみたい。いつも最後は捨て台詞みたいに『お前のために』って。お前のために、ってなに? 私はそんなこと頼んでなんかいないの。なんならこっちが、お前のために、って感じよ」
 話に熱が帯びていくのを肌で感じる。この口調。きっとこの店員は、勤務中ということを忘れている。「男ってそんなものなの?」と突然俺に向けられた瞳には、芽生えた感情の全てが込められているようだった。
「男のプライドなんですかね?」
「そうだとしたら、まったくもって本当いい迷惑。一人で悩んで、抱えて、優しくしたら八つ当たりされて」
 やれやれ、といった具合に首を振る店員から目を逸らす。なんだか、俺のことを言ってる気がする。
「こんなことばかり繰り返しているとね、あの時に言ってくれたことも全部嘘だったのかって気持ちになって。私はね、正直な気持ちを隠していくとそのうちいつか、その時の記憶や感情だって忘れて、最終的には消えてしまうと思うの。それにね、そんなことばっかりされたら私だって――」
「こら。そこまでだ」
 店の厨房から、威圧的な声がした。その声の元に視線を運ぶと、そこには細身で長身の男性が立っていて、被っていた帽子を脱ぎながらこちらに向かってきていた。
「し……店長」
 顔全体で「しまった」と言うように、店員はそれまでショーケースに前のめりになっていた上体を起こす。男性と店の床とを必要以上に行き来する視線が、その焦りを表している。
「えっと、これは、その……つい」
「つい、じゃないだろう。今日はクリスマスだから見逃すけど、仕事中だってことを忘れるなよ?」
 すいません、と呟くように言った店員の声が、店の中を漂った。
「ごめんね、君たち。せっかくのクリスマスだっていうのに、こいつの変な話で引き留めちゃって」
 店長だという男性は子ども受けの良さそうな柔らかい表情を向けて言った。俺には、それが本物の笑顔なのかどうか、わからかなった。
「いえいえ、とんでもないです。むしろ将来に向けての心の準備ができたっていうか、貴重な話を聞けて良かったなって」
 店長と店員の仲裁に入るかのように、茜は店長に笑顔のシャワーを浴びせる。やっぱり俺のことを言っていたのか、と思うよりも、即座にそんな対応ができるなんて、今の俺より大人じゃないか、と素直に思った。でも、茜の声は届いていなかったのか、これも指導の一環なのか、店長は「ほら、彼氏さんも困っているじゃないか」と、店員を睨む。俺の顔が困っているように見えているのなら、それはあなたの圧のせいだ、と胸の内で呟いている横で、店員は下唇を出しながらヘコヘコと、二度三度と頭を下げていた。
「それとな、男性側にも色々あるの。女性にだけは言えないことだって、あるよなあ?」
 聞いていたんじゃないか、と誰にも見えない突っ込みを入れてから、俺は店長に導かれるままに「そうですね」と、今できる限りの笑顔を作って応えた。店の中だからか、ここではこの男が絶対である気がしてしまう。
「とはいえ、彼氏さん。貴重な女性の言い分だ、覚えておいて損はないかもしれないよ? 眠っているだけで、頭のどこかに記憶は消えずに生きている。忘れることはあっても、過去が変わることはない。それを覚えている人がいれば風化もしない。大切なのは〝記憶を想いと一緒に保管すること〟だ。それができれば、もう忘れることもない。私はそう信じている」
 急に見せる真面目な顔つきで、店長は言った。
「店長さん、意外と語りますね」と俺よりも先に茜が茶化すように反応すると、「がはは、やっぱり? 聖なる夜になると、男は幾つになっても途端に饒舌になるのよ」と、店長は屈託のない笑みを見せた。俺は、横にいる店員が浮かべた苦笑いに、笑った。
「ケーキ、仲良く食べてね」
「ありがとうございます。いただきます」
 店を出て、店長の言葉を思い返す。「記憶を想いと一緒に保管する」こと。それが、思念の神さまが伝えたかったことなのだろうか。記憶は頭のどこかで生きている。それを茜の本の中で思い出せ、と。それとも、それができなければお前の未来はないと、そう伝えたかったのだろうか。
 思念の神さまはなぜ、茜を選んだのだろう。
 その答えを求めるように、俺は店を振り返った。しかし、そこにはもう、誰の姿も無かった。俺が店を見ていることに気付いたのか、「裏で店長さんに怒られちゃっているのかもね、あのお姉さん。もっと話を聞きたかったのに」と茜は言った。やはり、茜とあの店員が纏う空気は似ていると思った。
「そうかもしれない。あのお姉さん、どこか茜みたいなタイプだったし、いつもああやって、やらかしているのかも」
「なるほど。だから仕事のできそうな雰囲気がプンプンしてたのか。すごく納得した」
 茜は顎先を指で摘みながら小さく頷く。そういうことでしょ? と俺に言わせようとしているいたずらな瞳に、俺は呆れて笑うことしかできなかった。
「ねえ、このケーキ、家の近くの公園で食べようよ。めちゃくちゃ寒いだろうけど、熱く語らおうじゃないか」
 あの店員に変な影響を受けていなければ良いなと思いながら、わかった、とだけ返事をする。確かにあの日も、外でケーキを食べた気がする。過去は思念の神さまによって多少肉付けされたが、どうやらこの先の展開は薄っすらと残る記憶の通りのようだった。普段の買い物では荷物持ちをさせられるのに、ケーキの箱だけは手放さないんだな、と、大事そうに白い箱を手に持った茜を見ながら、俺たちは公園へと歩き出した。