服装は変わっていない。それは俺も、隣を歩く茜も同じだった。どうやら日付を跨いではいないらしい。辺りを見渡してみる。行きゆく人々はみな、新年の挨拶を繰り返す。安心するほど平穏な日常が、ここには流れている。この世界は、どこまで続くのだろう。
 初詣だからといって、着物やスーツではなく普段着の人が多いのは、この島では見慣れた風景だった。それなのに、当時はあえて着飾っていたこともあったと思い出す。けど今は、都会にいると紛れることに、染まることに必死になっている。他人との違いを求めて、求めて、求めて、最後に求めるのは他者からの承認になっている。それが成長だというのなら、どこか悲しい。でも、それが人間の宿命だとするのなら、受け入れようとする自分もいた。だってその方が、楽だ。いや、受け入れられなくてもいい。受け入れたつもりでいればいい。たぶんだけど、受け入れた時に「俺」という人間は死ぬのだろうと思う。でも、生きてはいける。死んでいるのに生きているという、矛盾が生まれるだけだ。そこに自我などない。だからなにも、変えられない。それはなんだか、本の中を歩く今の俺と、同じような気がした。だったらもう、殺すしかない。俺は、俺を。
 受け入れるつもり、ではなく受け入れる。茜がいなくなったと聞いた時、心のどこかで思っていた。本の中で過去を見ても、その思いは根を張るように消えてくれなかった。
「茜がいなくなった原因は、俺じゃない」そう思っていたかったのだと思う。自分自身を受け入れることも、否定することも、茜に、愛想をつかされてしまったことも、受け入れるのが怖かった。でもきっと、このままだとなにも変わってくれはしない。今だって過去を見ているだけで、過去を繰り返すだけで、なにかが変わる気配すら感じない。茜を見つけて、元の世界に帰りたい。それができるのなら、死んだように生きたっていい。それで茜に、会えるのなら。
 原因は俺に、あるのだから。
 ようやく、そう思えた。
 神さまに祈りを捧げる人、屋台に心躍らせる人、家族や恋人との時間を満喫する人。それぞれの想いが交わり、正月という行事に一層の花が咲く。俺はここに来ていることに強い意味を感じて、すれ違う人、物、全てに対して最新の注意を払いながら歩いた。
「どうしたの? そんなにキョロキョロしちゃって」
 心配するような顔で茜が俺を見る。「いや、なんでもないよ。ただ、この島にもこんなに人がいたんだなーって思ってさ」と自分でも驚くほど、咄嗟にしては中々の嘘が口を衝く。これが上京して学んだものかと思うと、どこか寂しいものがある。
「今日は大体みんな同じ場所に集まるからね。でも、この時間でこの人数はたしかに凄いかも」
 こんな小さな島でね、と茜は笑う。時刻はまだ、午前八時にもなっていなかった。
「じゃあ、まずは目的のおみくじを――の前に、寒いし甘酒でも貰いに行こっか」
 初詣の甘酒は無料配布されている。だから島を出て甘酒が有料だと言われた時、少し驚いてしまった。島と比べて人数が多い分、一年の始まりというおめでたい時くらい税金やらなにやらで賄えばいいのに、と本気で思った。が、今はこの当たり前に感謝しなければならないと思うようになっている。それは上京したからこそ学べたことで、島の外で学んだことも、案外捨てたものではないのかもしれないと思った。「甘酒か。いいね、貰いに行こう」
 俺は優しい香りのする方へと足を運んだ。ここから少し前に、特設テントの中で数人の女性が大きな鍋いっぱいに入った甘酒をかき混ぜているのが見える。二人でテントの前にできた短い列の最後尾に並ぶ。
「甘酒って良いよね」茜は口元を緩ませる。
「正月くらいしか飲む機会ないけど、そんなに好きなの?」
 茜は、んー、と口を結んだが、また笑みを浮かべた。
「だってさ、甘酒って二十歳になっていなくても飲めるお酒じゃない? 合法的に悪いことをしてる気分っていうの? それが味わえるから、なんか好き」
 謎理論だなと思ったが、わからなくはなかった。「酒」と付く飲み物をなんの気兼ねなく飲めるのは、どこか魅力がある。とは思いつつ昔、「甘酒、車の運転」と父親の背中を見ながら調べたことを思い出した。列は流れ、あっという間に先頭に立つ。
「朝早くから仲が良いのねー。甘酒は万能薬なんて言われているけど、若い子を見ていた方がよっぽど元気が出るわよねー」
 甘酒の鍋を混ぜながら、ふくよかな熟年のおばさんは言う。さらにその隣のおばさんが相槌を打つように言葉を重ねる。
「それ、わかるわー。甘酒じゃ目の保養もできないし、活力だってみなぎらないのよね」
 寒さも相まって早く甘酒を貰いたいと思っていたが、唐突に開催された井戸端会議は加速の一途を辿る。一度火が点いてしまうと、そう簡単には消えないらしい。
「『若い頃は』と、『気が付けば』ってセットの言葉なのよね。若い頃は気が付けば終わってて、ふとした時にはもう、それは遠い昔だったりするのよ」
「あらー、また随分と上手いこと言うじゃない。わかるわ、でも私なんてね、最近ボケてきちゃったもんだから、この先は気が付くこともなさそうよ」
 やだもー、とおばさんたちは手を叩きながら、ハスキーな声で合唱するように笑う。辛うじて、お玉を持った手だけは鍋を回していた。俺と茜の後ろには、まだ列が続いている。このままこの寸劇を観ていても良いのだが、そうもいってはいられない状況だった。でも、おかげで思わぬ情報を耳にすることができた。
「あの頃の記憶だけでも思い出せれば、気持ちくらいは若くなるのかしら。私も〝思念の神さま〟にでもお願いしようかしら?」
「思念の神さま?」
 島で生まれ育ったが、そんな名前の神さまの名前を聞くのは初めてで、思わず大きな声が口から漏れた。同時に強い違和感を心が抱く。俺の言葉に目が覚めたのか、おばさんは「あらやだ、いけない。甘酒二つで良いかしら?」と、急いで紙コップに甘酒を注ぐ。「はい、どうぞ。あなたたちみたいに熱いから、気を付けてね」その屈託のない笑顔は井戸端会議での発言に反して、まだまだ若さを保っているようだった。
「やだもー。そういうのをオヤジギャグっていうのよ」
 そう言っておばさん軍団はまた、遠慮の知らない声で笑った。俺は差し出された甘酒を手に話し掛ける。
「あの……、さっきお話しされていた『思念の神さま』というのは?」
 おばさんは驚いた顔を浮かべたが、「島の中でも限られた地域だけの言い伝えだからねえ。今の若い子たちは知らない子がほとんどなんだろうねえ」とすぐに教えてくれた。
「思念の神さまはね、人の幸せを司るとされる神さまなの。その時の記憶、感情、そういうのも含めて預かって、持っていてくれるのよ」
 あの時の光景が頭に浮かぶ。神社で茜に赤いナニカを手渡した、あの男に違いない。
「へえ、知らなかった。この島に、そんな神さまがいるんですね」
 ここにいる茜は知らない。近い将来、その神さまと会うことになるなんて。