身体の背面に圧を感じる。どうやら俺は、横になっているらしい。天井に、小さい頃に遊んだ暗闇で光る星や月のシールが貼ってあるのが見える。手が届かなかったはずなのに、どうやってあんなにも高いところへ貼ったのだろう。今もまだ、部屋を暗くすれば光るのだろうか。そんなことを考えられるくらいに、冷静を保つ自分がここにいた。届きもしないシールに手を伸ばすと、遠いなあ、と口から零れた。茜との距離と重ねていたのかもしれなかった。
 空気を閉じ込めるように拳を握る。たぶん、ほとんどの空気は隙間から逃げた。腕の力を抜くと、上に伸ばした腕は重力に逆らえずにベッドに落ち、軽く跳ねた。再び、天井を見上げる。見上げるというより、ただ前を見ていた。茜の笑顔が、天井に浮かび上がった気がした。見計らったようなタイミングで着信音が鳴り響く。横になったままにスマートフォンを確認すると、着信は茜からだった。俺は上体を起こしてベッドから足を下ろし、通話の体勢に入る。
 小さなスピーカーの穴からは目が覚めるほどの騒音と、気の抜けるような声が聞こえた。
『やっほー。なにしてたの? 今年も格闘技でも見てた?』
「茜……お前また、ドライヤーしながら電話してるだろ?」
『ははは、当ったりー。だってこの時間、超ひまなんだもん。暇電に付き合ってくれたまえ』
 茜はしばしば、風呂上がりの髪を乾かす時間を使って電話を掛けてくる。長い髪を乾かす時間は勿体ないし、メッセージのやり取りで片手を使うと内側まで温風が届かず上手く乾かせない。それならスピーカーにして電話をするのが一番、というのが茜の持論だった。掛ける本人はさぞ気分も良いのだろうが、こっちからしてみれば迷惑以外のなにものでもない。声を聞くために掛けたはずの電話はドライヤーの音でその声が遮られるし、そのせいでこっちは何度も「え、なんて?」と繰り返さなければいけないし、その声は繰り返すたびに大きくなるし、俺は静かな部屋で一人、大声を出す羽目になる。実際に「電話はお互い耳を電話に付けて話すんだから、そんな大声出さなくて良いの!」と母の怒号が届くことだってあった。それも、「スピーカー使ってるから耳には付けていませんよ」なんて冗談も、返せない声で。
 その状況下で茜のペースに合わせてばかりなのも癪に障るので、わざと小声で話したこともあった。が、そうすると茜はスピーカーに向けてドライヤーを当て、強めの騒音をお裾分けしてくるので、こうして大人しく茜に合わせて声を張り上げることになっている。
「くれたまえって……そのドライヤーがうるさくて会話にならないだろって」
 限られた会話に嬉しいという感情は抱きつつも、ため息が漏れる。
『良いじゃん別に。私はこの〝繋いでる〟って感覚が好きなわけ。ほんと、匠は女心ってものがわかんないんだから。そんなんじゃ、いつまで経ってもモテないよ?』
 それならどうして俺と付き合っているんだ、とか、モテ始めたらモテ始めたで、調子にのっているだの、色気づいているだの、色々文句を言うんだろ、と言い返したような気がした。実際、今も似たような思いが喉元まで出掛かった。が、呑み込んだ。それが俺なりの、数年は歳を重ねた俺が心得た、女心への向き合い方だと思った。
『そんなことよりさ、高校最後の年末は何を観てたの? お笑い? 格闘技? 歌番組?』
 一つ前の質問に対する謝罪もないまま、質問は重ねられていく。煮え切らない気持ちの中で、俺は今が年末だということを知る。高校最後の、ということは送別会の日から三ヶ月、さらに過去へと戻ってきたようだった。少しだけ、その時の感覚で話したくなる。
「いや、特に何も。強いて言うなら、天井のシール見てた」
『は? 天井のシール? シールってあの、星とか変な惑星みたいなやつ?』
 ここから見れば塵ほどの大きさしかないあの惑星にだって、幼き俺は夢を見た。「変な」は余計だ、男心のわからないやつめ。と、胸の内で毒を吐く。「そうだけど?」
『うける、一番時間の無駄じゃん。繰り返しますが、高校最後の年末ですよ?』
 ドライヤーの音に混じる声のトーンが上がる。完全に、馬鹿にしていると思った。そもそも、なんでもかんでも「高校最後」を付ければ特別になるわけではない。なんなら、それはなにも高校に限った話でもないし、世の中にある全てに対してもそうだと思う。結局、特別なモノは最後でなくとも記憶に残っている。最後だからと思って見るからどこか儚げに映るだけであって、と、そこまで思いを巡らせたところで、ああ、だから俺はモテないんだな、と思った。こういうのはたぶん、理屈じゃない。
「確かにそうだ。高校最後の年末の思い出が、茜の声とドライヤーの音のサンドイッチって記憶しか残らないのは寂しいよな」
 だから俺はモテないんだな、と思った。でも、歳を重ねた分、完膚なきまでに言い負かしたような気になった。大人げのない、こんな大人には、なりたくない。
『あ、ごめん。なにも聞こえなかったから、もうなにも言わないで良いよ』
 座っているのに、膝から崩れ落ちるかと思った。これは誰が見ても茜の勝利であり、俺は、完膚なきまでに言い負かされていた。茜はたぶん、数秒前の俺と同じ顔をしている。もう、この時の感覚で話したくはない。
『ところで明日の約束なんだけど、忘れてなんてないよね?』
 明日の約束? 急に角度の変わった質問に、床へと向かうため息が止まる。俺がいる今のページは二年以上前の話だと、さっきわかった。が、そんな昔の約束、覚えているわけがないだろう、と思う。だから重ねた歳の分だけ知恵を絞り、言葉を濁しながら茜から言わせるように仕向けようとした。二年も前の茜に馬鹿にされるのは、もうこりごりだ。でも、「明日の約束だろ? 明日はえーっと、やべ、ど忘れした。ちょっと待ってな、あれだよな?」我ながら、下手な芝居だった。
『はあ……。匠くん、あなたの記憶力ってダチョウ並なわけ?』
 最大限の嫌味だった。ダチョウの脳みその大きさは自身の目玉以下、おおよそクルミ程度だと言われており、記憶力は相当に悪く、一説によると時には自分の家族ですら忘れてしまうらしい。ちなみにこの話は茜から聞いた。それをまるでオブラートに包んだかのように落ち着いたトーンで茜は言った。大きく肩を落とす、茜の姿が脳裏に浮かぶ。その姿のまま、『素直に忘れたって言った方が、楽になるんじゃない?』と言われた。女性の精神年齢が男性より高いという話は、下手な小芝居で埋められるものではないのかもしれない。「忘れてしまいました。ごめんなさい」
『最初からそう言いなさい。まったく……明日は初日の出を見に行こうって約束でしょ? もしまた寝坊したなんて言ったら、本当に承知しないからね』
 髪を乾かし終えたのか、茜の声は鮮明になって届いた。突然聞き取りやすくなった言葉は、今まで以上の力と感情を帯びていた。せめてこのタイミングまでは、ドライヤーの音で緩和してくれれば良かったのに、と思った時、あの初日の出の記憶はこの時か、と今更ながらに思い出す。遅い。遅すぎる。
「そうだった、初日の出だね。この電話が終わったら、ちゃんと目覚ましを掛けておくよ」
『まだセットしてないの? なんて言わないからそうして。家に着いたら電話するから、ちゃんと起きててよ? 私、新年早々に寒い中外で待ちぼうけなんて、絶対に嫌だからね?』
 いやいや、言っている。それに、この言い方は本気だ。だから俺は敬語を強調するように「畏まりました。お任せください」と口にした。でも、
『そういうところが信用できないの』と、逆に火に油を注いでしまっていた。
 だけど、本の中に来て初めて抱いた感情があった。ページが変わっても、時が戻っていても、意識することなく自然に会話ができている。もちろん、嬉しいと思う。が、それ以上に電話の向こうにいる茜が「今の茜」なのではないかと思えた。そう思えば思うほど今度は、茜は今、なにをしているのだろうと思えてくる。この会話が赤いナニカの、あの男の力だとするのなら、今の茜も初日の出を見に来るのかもしれない。
 そんなことを考えながら、俺は五分おきに三度の目覚まし時計を設定した。