その後の話し合いは二人とも声を荒げることなく、冷静に進めることができた。
 とはいえ怒っていることには変わりがないようで、光は決して意見を曲げようとしなかった。颯太がアパートに戻るのは絶対にダメだ、と言って聞かないので、結局颯太の方が折れることになったのだ。

「光が行ったって危ないことに変わりないんだからね?」
「分かってるよ。だから俺がアパートに着いたら部屋に入る前に颯太に連絡する。倉橋さんと話が終わったら俺からまた連絡するから。一時間経っても俺から連絡がなかったら、颯太は警察に連絡。分かった?」

 光の作戦はシンプルだ。
 颯太のアパートには光が一人で向かい、優姫と話をつける。部屋に入る前と、優姫との話が終わった直後に、光はスマートフォンから自宅の電話に連絡を入れる。これは光の安否を颯太が確認できるようにするためだ。

「電話を繋ぎっぱなしにするとか、僕もアパートの近くで待機してるとか、その方が何かあったときに速く対処できるんじゃない?」
「バレた場合が怖い。もちろん颯太の話をしに行くんだけど、颯太の存在を意識させるものがあると、冷静に話ができなくなりそうじゃん」

 相手はストーカーだって忘れるなよ、と光に念押しされて、颯太は黙って頷いた。


 絶対に俺の家から出るなよ、という約束を守り、颯太は落ち着かない気持ちで光からの連絡を待っていた。
 アパートの前に着いてすぐ、光から一度電話があった。これから乗り込んで話してくる、という宣言だ。それから三十分が経過しようとしている。
 颯太が固定電話の前をそわそわと行ったり来たりしていると、光の家の電話が鳴り響いた。ディスプレイには『佐久間光 スマートフォン』と登録された文字が表示される。光からだった。
 颯太がすぐに電話を取ると、電話口から光の間延びした声が聞こえてくる。

『お待たせ、颯太。特に問題なく無事に終わったぜー』

 付き合いが長いので、光の言葉に嘘があると、颯太にはすぐに分かった。

「光、嘘ついてるでしょ。もしかして怪我した? 大丈夫?」
『ん? まあ、問題なく、っていうのはさすがに嘘だけどさ。でも怪我とかはしてないし、倉橋さんから合鍵も返してもらったから』
「光が無事なら何でもいいよ……」

 待っている間、颯太はずっとひやひやしていた。颯太の代わりに光が話をつけに行ってくれたが、相手はストーカー。目的は颯太かもしれないが、颯太以外の人間にも危害を加えないとは限らない。
 光は中学生の頃から合気道を習っているので、颯太よりはよほど護身術に長けている。それでも颯太は心配だった。
 もしも自分のせいで光に何かあったらどうしよう、と不安で堪らなかったのだ。颯太が安堵のため息をこぼしたのを聞き、電話越しに光が笑う。

『大丈夫だって。何持って帰る? しばらくうちに泊まるだろ?』
「えっ。泊まっていいの?」

 合鍵を返却してもらったとはいえ、不安が全てなくなったわけではない。優姫が作った合鍵は一本だとは限らないし、鍵を持っていなかったとしても颯太一人のときに家に押しかけられたら堪らない。
 光は怖がりな颯太を心配し、泊まっていいと言ってくれたのだろう。颯太はありがたく甘えることにした。スマートフォンや財布の他に、貴重品が入った小さな鍵つきのケースなどを頼んだ。

『了解。まあ足りないものがあったらまた取りにくればいいだろ』
「そうだね。ありがとう、光。帰りも気をつけてね」
『ん、リッチにタクシーで帰るかな』

 冗談ぽく口にしたが、たぶん八割くらいは本気の発言だろう。颯太は笑って、後でタクシー代を渡すよ、と返したが、光は笑うだけで返事はしなかった。
 受け取るつもりはないという無言の意思表示らしい。颯太は苦笑しながら、「とにかく無事に帰ってきて」と念を押して電話を切った。


 親友の無事が確認できると、颯太の身体はとたんに疲労を訴え始めた。まだ時刻は昼過ぎ。活動時間でいえば三時間にも満たない。それなのに、頭も身体も疲れ切っているのは、朝一番から立て続けにイベントが起こったせいだ。
 光が帰ってきたら、仮眠をとらせてもらおう。そう思っていたはずなのに、光の帰宅を待つことなく、颯太の意識は深い暗闇に沈んでいった。

 夢を見た。
 昔、両親と颯太が三人で暮らしていた小さな一軒家。夢だと理解しているのに、颯太はひどく緊張した。向かう先はリビング。扉の向こうに広がる光景を想像し、颯太は身構える。しかし入りたくないという颯太の意思は無視して、夢の中の颯太はリビングのドアを開けた。
 目の前には、ビニールテープが貼られていた。リビングに立ち入ることが出来ないよう貼り巡らされたテープを見て、颯太の肩の力が抜けていく。

 これは、あの事件の後の記憶だ。
 夢の中の颯太は、しばらくリビングを眺めた後、自分の部屋だった場所へ向かった。子ども部屋の扉は開け放たれていて、泣き声が漏れ聞こえてくる。
 幼い頃の颯太が泣いているようだ。夢の中の颯太は部屋に足を踏み入れることなく、子どものすすり泣く声を聞いていた。
 励ますことも救い出すことも出来ないのに、どうしてこんな夢を見るのだろう。颯太がぼんやりと考えていると、遠くからバタンと大きな音が響き、続いて足音が近づいてきた。
 夢の中の颯太には目もくれず、迷わず子ども部屋に飛び込んでいったのは、薄茶色の短髪の男の子だった。幼い頃の光だ、と颯太は懐かしくなり、部屋の中を覗き込む。

「なにしてんだよ!」
「光…………」

 幼い光は、自分より小さな颯太の身体を羽交締めにしている。苦しそうに呻く幼い子どもの手から、カッターナイフが取り落とされる。光が蹴ったカッターナイフは、夢の中の颯太の足元に滑ってきた。
 はあはあと息を切らせた光が、泣きじゃくる颯太を解放する。それから「見せて」と言って颯太の腕を引っ張った。
 同じ学年の男子に比べ成長が遅かった颯太は、小学六年生にしては細い手首をしている。女の子のように白くて細い手首には、無数のためらい傷が浮かび上がり、血が滲んでいた。

「なにしてんだよ…………」

 さっきと同じ言葉なのに、光の声は今にも泣きそうだった。幼い颯太に向き合っているせいで、光がどんな表情を浮かべているのか、夢の中の颯太には確認できない。子どもの颯太は、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、必死に言葉を紡ぐ。

「……だって、苦しい……。僕も、死んじゃいたい」

 死にたいと言いながらも、目の前の友人に縋り付くようにして泣いている。光はポケットから折り目のついた綺麗なハンカチを取り出し、泣きじゃくる颯太の手首に結びつけた。

「颯太、自分のことを傷つけたくなったら、今度から俺を呼べよ。話ならいくらでも聞いてやるから」
「話を聞いてもらってもダメだったら? それでも死にたかったら、どうしたらいいの」

 そんな残酷なことを訊かないでやってくれ。光だってまだ子どもなんだよ。

 夢の中の颯太は、幼い自分を責めながら、それでも二人から目を離すことが出来ない。光は少し考えた後、颯太の記憶と一言一句違わない言葉を口にした。

「それでも颯太が自分を傷つけるって言うなら、俺も一緒にやる。颯太が死ぬって言うなら俺も一緒に死ぬ」
「やだよ、なんで光がそこまでするの……。僕一人でいいのに……」

 光は答えない。代わりに颯太の頭をぽんぽんと優しく撫でて、振り返った。
 夢の中の颯太の心臓が、ドクンと大きく音を立てる。しかし幼い光と颯太には、大人になった颯太の姿は見えていない。きっとこれは颯太の記憶を追体験しているのだ。
 先ほど蹴飛ばしたカッターナイフを拾い上げ、光はまじまじとその刃を見つめた。銀色の刃は血で赤く汚れている。パーカーの内側でカッターナイフの血を拭い、光はためらいなく自分の手首に押し当てた。

「光! だめ!」

 幼い颯太が光の手からカッターナイフを取り上げた。その顔は必死で、泣きそうで、そして少し怒っている。
 だめだよ、と何度も繰り返す颯太を、光が困ったような声で宥めた。

「な、嫌だろ? 俺も嫌だよ、颯太が自分を傷つけて泣くのを見るなんて」
「……ごめん、僕…………自分のことしか、考えられなくなってて、」
「しょうがないって。でも約束な。また手首を切りたくなったら俺に連絡。分かった?」
「うん……」

 大粒の涙をこぼしながら、幼い颯太はカッターを床に落とす。両手で顔を覆い、泣きじゃくる颯太を、光は強く抱きしめた。幼子をあやすように、ぽんぽんと一定のリズムで颯太の背を叩く光。その肩は、わずかに震えていた。


 夢から覚めてしばらくの間、颯太はぼんやりと天井を眺めていた。そしてここが光の家だと思い出し、颯太は身体を起こした。
 どうやらソファーで眠ってしまっていたらしく、颯太の身体にはやわらかいブランケットがかけられている。
 ソファーの前のテーブルには颯太の荷物。光がアパートから持ってきてくれたものらしい。家主はどこにいったのか、と辺りを見回し、テーブルの隅にメモが置かれていることに気がついた。

『急ぎの用事を済ませてくる。腹減ったら冷蔵庫のものか、カップ麺食ってて。念のため今日は家から出ないように。バイトも休みの連絡入れとけよ』

 光のメモは走り書きなのに読みやすかった。さすが、もともと書道を習っていただけある。
 忙しい日曜日にバイトを休むのは申し訳ないが、もし優姫が颯太のバイト先まで押しかけてきたら、休む以上の迷惑をかけてしまう。それにもしも颯太がまた優姫と会って怪我でもしたならば、光に合わせる顔がない。わざわざ危険をおかしてまで優姫と話をしてくれた光のためにも、颯太は身の安全を確保しなければならないのだ。

 バイト先の店長に休む旨を連絡し、颯太はぼんやり考える。懐かしい夢を見たのは、きっと言い争いをしたときに、光が『自傷行為』という単語を使ったからだ。

 両親が強盗に殺され、絶望していたあの頃。颯太の心を救ってくれたのは、間違いなく光だった。

「…………光は昔から変わらないな」

 ぽつりと呟いた言葉は、家主のいない部屋に溶けて消えていく。幼い頃も、今も。颯太は光に守られてばかりだ。

 ストーカーの件だって、光が優姫と話してくれなければもっと拗れていたかもしれない。問題なく無事に終わった、と言ったけれど、あのとき光は嘘をついていた。

 光は嘘をつくとき、語尾が少し伸びるのだ。長年の付き合いなので、颯太にはすぐに分かった。

 おそらく優姫は光の言葉を聞き入れず、少し揉めたのだろう。光相手でも話を聞いてくれなかったのだとしたら、颯太が行ってもまともに話などできなかったかもしれない。
 結局光の言う通り、颯太は身を隠した状態で、光に交渉してもらうのが最良だったのだ。

 親友の先を見通す力に感服しながら、颯太はブランケットを丁寧に畳む。光が帰ってくるまでに、テーブルの上の荷物だけでも片付けておかなければ。
 アパートから持ってきてもらった荷物を一つずつ確認しながら、颯太は親友の帰りを待った。